第14話
「狂い咲く鉄の桜」
中山競馬場、芝二千メートル。
牡馬クラシック第一冠、皐月賞のゲート前。
黄金の機体『ゴールデンルナティック』は、制御不能な振動を撒き散らしながら、隣に並ぶ柳生はるこの『ガイアフォース』を睨みつけていた。
「あはは! 逃げなさいよ、はるこ! あんたの『万能』なんて、アタシの『狂気』で塗り潰してあげるから!」
操縦席の亜紀子は、もはや狂乱に近い高揚感の中にいた。
対するはるこは、バイザー越しに冷徹な数値を読み取り、静かに呟く。
「……池谷さん。狂気は計算式を乱すけれど、物理法則までは変えられない。あなたの自壊、最適に処理させてもらうわ」
ゲートオープン。
ルナティックは、中山の急坂を「垂直に登る」かのような強引なトルクで突き進む。
だが、はるこのガイアフォースは、ルナティックが乱した気流、跳ね上げた芝の破片、そのすべてを「利用」して背後に張り付いた。
直線。ルナティックが過負荷で装甲を赤熱させながらもぎ取ろうとした勝利を、はるこは一ミリの無駄もない最小限の加速で、ゴール直前に「消し去った」。
1着:ガイアフォース。
2着:ゴールデンルナティック。
亜紀子は、煙を吹くコックピットの中で笑いながら泣いていた。
「……あは、届かない。……あんなに狂ったのに、あいつの背中、一センチも遠ざけられなかった……」
柳生家の「次女」ですら、この圧倒的な壁。その事実は、同日、阪神で行われる桜花賞を控えた麗の胸に、冷たい楔となって打ち込まれた。
阪神競馬場、芝千六百メートル。桜花賞。
満開の桜が舞い散る中、パドックに現れたのは、もはや「馬」の形を留めていない漆黒の異形――レイスターだった。
前回のレースで芝を粉砕したことで、主催者からは「出走停止」の警告すら出ていた。だが、村上ガレージが提示したのは、さらに狂った回答だった。
脚部アクチュエーターに直接、高圧の窒素ガスを噴射し、接地時間を極限まで短縮する「超・反発駆動」。
芝を壊すのではない。芝に「触れずに」弾ける。
「……村上麗。あなたは、まだ足掻くのね」
最内枠。白銀の機体『シルフィア』に跨る柳生ミカが、通信を開いた。
その声には、怒りも蔑みもない。ただ、深い夜の海のような静寂があった。
「あなたの走りは、美しい桜の景観を汚す。……ここで終わらせてあげる。柳生の『神域』を、その目に焼き付けて」
ファンファーレが鳴り響く。
麗の視界には、アナログ・バランサーが送ってくる「レイスターの悲鳴」が赤いノイズとなって走っている。
(いいわ、ミカ。あんたが神なら、あたしは地獄の番犬よ)
ゲートオープン。
その瞬間、観客席から悲鳴が上がった。
ミカのシルフィアが、一歩目から「音」を置き去りにしたのだ。
加速の予兆がない。ただ、白銀の閃光が、現実から切り離されたような速度で前方へ滑り出す。
「――速いっ!?」
麗は、肺が潰れるほどのGに耐えながらレイスターを急かした。
超・反発駆動が火を吹き、漆黒の機体が跳ねるようにミカを追う。
だが。
縮まらない。
レイスターが時速九十キロに達しても、シルフィアはその十メートル先を、羽毛のように軽く走っている。
麗がどれだけ血を吐く思いで「出力」を上げても、ミカはただ「存在」しているだけで、世界を彼女のペースに書き換えていく。
第四コーナー。
桜の花びらが、シルフィアの風圧で真っ二つに裂ける。
麗は見た。ミカの背中が、あまりに遠く、あまりに白い。
直線。
ミカは一度も後ろを振り返らなかった。
レイスターの計器が限界を告げ、警告音が頭の中に鳴り響く中、シルフィアは「大差」の文字を掲示板に刻みつけ、独走でゴールした。
1着:シルフィア。
2着:レイスター。
着差――二十馬身。
麗は、ゴールを過ぎてから崩れ落ちるように停車したレイスターの中で、ハンドルを握りしめたまま動けなかった。
アドマイヤベガを倒して得た自信。クロフネの血を引く矜持。
そのすべてが、ミカの「静寂」の前に、塵となって消え去った。
パドックに戻る道、ミカは麗の横を通り過ぎる際、一度だけ足を止めた。
「……村上さん。これが、あなたが15話で挑もうとしている『絶望』の招待状よ」
麗は、震える手でバイザーを上げた。
目の前が真っ暗になる。だが、その暗闇の奥で、レイスターの電子脳だけが、まだ「諦めるな」と低く唸っていた。




