第12話
「桜の蕾と、鉄の棘」
阪神競馬場、芝1600メートル。
三月の柔らかな日差しが降り注ぐ中、チューリップ賞のパドックは、華やかな乙女たちの戦場と化していた。
だが、その最外枠に陣取った一台の機体が、会場の空気を著しく汚していた。
「……場違いもいいところね」
麗はヘルメットのシールドを下げ、周囲の冷ややかな視線を遮断した。
漆黒の装甲は、連戦の傷跡を強引にパテと塗装で埋めただけの「傷だらけの死神」。レイスターは、磨き上げられた中央の良血馬たちの中で、一頭だけ死地から戻った亡霊のように佇んでいた。
「麗、落ち着きな。ここはミックスコースじゃない。純粋な『加速』の質が問われる場所だよ」
ピットからの亜紀子の通信。その声にも、隠しきれない緊張が混じっていた。
中央の芝は、一ミリの凹凸も許さない。レイスターの「パワー」は、ここでは「重荷」に変わるリスクを孕んでいる。
そして、その中心にいたのは。
柳生家三女、柳生りんね。
愛機『スノーランサー』。漆黒の夜空を切り裂く一等星。
りんねは、ミカやはるこのような「静」や「理」ではない。彼女の瞳には、制御不能な「熱」が宿っていた。
「ねえ、村上のお姉さん。ミカ姉さまが言ってたわ。『泥に咲く花なんていらない』って」
りんねの通信が、無邪気な、そして残酷なトーンで割り込む。
「あたしもそう思う。だって、夜空の星を掴もうとするのに、泥なんて邪魔なだけでしょ?」
ゲートオープン。
内枠から弾けるように飛び出したのは、りんねのスノーランサー。
それは「逃げ」ではない。後続を絶望させるための「先行」だ。
「……速いッ!?」
麗はレイスターのアクセルを叩き込むが、芝を捉える感覚が砂とは決定的に違う。
レイスターの脚部が、芝の摩擦抵抗の少なさに「空回り」しそうになるのを、麗はアナログ・バランサーの痛みで強引に抑え込んだ。
だが、スノーランサーは違う。
まるで氷の上を滑るスケーターのように、芝の表面を軽やかに、かつ爆発的な推進力で駆け抜けていく。
第四コーナー。
麗は勝負に出た。
「内を突くわよ、レイスター! 泥臭いのがあたしたちのやり方でしょ!」
内柵ギリギリ。他のジョッキーが躊躇する「死のライン」へ、麗はレイスターを投げ込んだ。
砂塵が舞わない芝のコースで、レイスターの咆哮だけが異様に響き渡る。
だが、りんねはそれを待っていた。
「お姉さん、残念。星には、影すら届かないの」
直線。
スノーランサーが、背中の排熱ダクトを一気に開放した。
そこから放たれたのは、熱ではなく「光」。
光学的な幻惑を伴うほどの超高速駆動。スノーランサーの残像が、レイスターの視界を乱す。
「――なっ……!?」
麗が目を見開いた瞬間、スノーランサーは一気に三馬身突き放した。
加速の伸びが違う。
これが、柳生家が誇る「純血の芝適性」。
レイスターがどれだけ「魂」を燃やしても、物理的な設計限界という「鉄の檻」が、麗の行く手を阻む。
ゴール板。
1着:スノーランサー。
2着に、食らいついたレイスター。
着差は、三馬身。
判定が表示された瞬間、麗は操縦席の中でハンドルを叩いた。
「……また、負けた。……また届かないの……?」
掲示板を見つめる麗の耳に、りんねの勝ち誇った笑い声が届く。
「お疲れさま、村上のお姉さん。でもね、これが『現実』なの。……ミカ姉さまと走るときは、もっと悲惨なことになるわよ?」
勝利を確信したスノーランサーの背後で、夕闇が迫っていた。
麗は、ボロボロになったレイスターの計器類を見つめ、血の混じった唾を吐き捨てた。
敗北の積み重ね。絶望の蓄積。
だが、その漆黒の瞳の奥で、消えかかっていた灯火が、より暗く、より鋭い「殺意」へと変質し始めていた。
「……見てなさい。あんたたちの『空』を、地べたから引きずり下ろしてやるわ」




