第10話
「落日の余波、未明の鼓動」
深夜、村上ガレージ。
天井から吊り下げられた無機質な蛍光灯が、チカチカと断続的に瞬いている。
麗は、首筋に厚い湿布を貼ったまま、モニターの前に座り込んでいた。画面には、昨日のレース映像がスローモーションで繰り返されている。
「……ここよ。ここでバハムートは『呼吸』を変えた」
麗の声は掠れていた。
アナログ・バランサーが脳に刻みつけた「痛み」の余韻が、今も神経の底で疼いている。
「計算の上を行く加速。……財前は、私の絶望さえも演算に組み込んでいたのね」
隣でコーラを煽っていた亜紀子が、空き缶を握り潰した。
「あいつのバハムートは、ジョッキーの脳波を吸い上げて、機体側のAIが『最適解』を上書きするシステムだよ。財前は自分を殺して、ただの『演算の触媒』に徹してる」
亜紀子の目が、モニターの中の黄金の機体を射抜く。
「麗、あんたの根性はあいつを上回ってた。でも、あいつの後ろには、あんたが一生かけても稼げない額の『情報』が積み上がってる。……それが、組織と個人の差だよ」
「……分かってるわ」
麗はモニターを消した。暗転した画面に、自分のひどく疲れ切った顔が映る。
ハナ差。わずか数センチの差を埋めるための「何か」が、自分にはまだ足りない。
「――姉貴。そろそろ行くぜ」
ガレージの入り口で、ライディングスーツに身を包んだ義清が立っていた。
今日は、彼の愛機『ノーブルレジーナ』の、そして義清自身のデビュー戦――新馬戦の日だ。
中山競馬場、芝コース。
昨夜の雨が嘘のように晴れ渡り、陽光が鮮やかな緑を照らし出している。
麗はパドックの隅で、義清が跨る『ノーブルレジーナ』を見上げていた。
レイスターのような無骨な黒ではない。洗練された流線型のボディに、深みのあるオーク色の装甲。気高く、どこか寄せ付けない美しさを纏ったその機体は、まるで若き女王のようだった。
「義清、緊張してる?」
「……まさか。姉貴のあの惨めな負け方を見て、目が覚めたよ」
義清は冷淡に言い放つが、ハンドルを握る指先は微かに震えていた。
「俺はあいつら(柳生や財前)の土俵で勝つ。泥じゃなく、この輝く芝の上でな」
ファンファーレが鳴る。
新馬戦特有の、どこか浮足立った空気がゲートを包む。
だが、ゲートが開いた瞬間、ノーブルレジーナが放った威圧感は、場違いなほどに苛烈だった。
「……あれは」
麗は目を見開いた。
芝の未勝利戦。普通なら、まだ機体と神経の同調が不十分で、ぎこちない動きを見せるものだ。
しかし、義清のエアグルーヴは、まるで大地を「支配」しているかのように、淀みのない足取りで先行集団を飲み込んでいく。
第四コーナー。
外側から蓋をしようとする他機体を、エアグルーヴは物理的な接触さえ厭わない強引なタックルで弾き飛ばした。
芝のレースに相応しくない、剥き出しの闘争心。
「……あの子。結局、あたしと同じじゃない」
麗が呟く。
義清は「王道」を目指しながらも、その魂の根底にあるのは、村上ガレージの血が育んだ「泥臭い執念」そのものだった。
直線、独走。
後続を五馬身ちぎり捨て、義清は悠々とゴール板を駆け抜けた。
観客席から上がる、当惑と賞賛のどよめき。
「これが……村上ガレージの次男坊か」
検量室に戻ってきた義清は、ヘルメットを脱ぎ捨て、荒い息をつきながら麗を睨みつけた。
「……見たか、姉貴。俺は負けない」
その瞳に宿る熱は、財前の冷徹さとも、ミカの完璧さとも違う。
敗北の泥を啜り続けてきた姉の背中を見て育った、弟なりの「回答」だった。
麗は、初めて自分の中に、小さな、だが確かな「希望」が灯るのを感じた。
財前という壁。ミカという深淵。
一人では届かなくても、この狂ったガレージの連中となら、その天井をぶち抜けるかもしれない。
だが、その様子を遠くの観賓席から見つめる影があった。
白一色のドレスを纏った、少女。
柳生家の至宝――柳生ミカ。
彼女は、手元の端末に表示された麗と義清のデータを無機質に削除すると、小鳥のような声で囁いた。
「……泥に咲く花なんて、必要ないわ」




