第1話
「砂塵のレイスター」
人類が生身の馬の背中を手放したのは、二〇四三年のことだった。
理由は単純。あまりにも残酷な、進化の限界だ。生身の獣の時速七十キロは、加速し続ける電脳社会の未来に追いつけなかった。骨が折れた。肺が潰れた。心臓が爆発した。どれだけ愛し、血統を紡いでも、サラブレッドは肉と血でできた、儚い奇跡に過ぎなかったのだ。
だから人間は、鋼を打った。
高硬度カーボンの骨格。超伝導アクチュエーターの筋肉。量子演算の疑似神経。そしてプログラムの最深部に叩き込まれた、勝利への盲目的な渇望。
からくり馬。正式名称、オートマタ・ホース。
奴らは泣かない。怯えない。疲労に膝を屈することもない。だが不思議なことに、奴らは走る。暴風を切り裂き、ただ、走る。まるで喪われたかつての「魂」を、砂塵の向こうに探し求めているかのように。
二〇五五年、東京湾岸ダートコース。午前五時。
夜明け前の砂は、死者の肌のように冷たかった。
ゲートの奥、鉄格子に囲まれた暗がりに、一頭の怪物が息を潜めている。
機体番号7、レイスター。全身を覆うマットブラックの装甲に、深海の底から掬い取ったような群青のライン。その背のコクピットに、二十一歳の女性騎手、村上麗が収まっていた。
レーススーツの首筋から延びる剥き出しの脊髄ソケットへ、真鍮製のニューラルプラグをあてがう。冷たい金属が肌に触れる感触。この瞬間だけは、いつも少し怖い。
だが麗は目を閉じ、心の奥で静かに呼びかけた。
(――来い)
雷撃が背骨を貫通した。
視界が明滅する。レイスターの電磁心臓の駆動音と、麗の心拍が強制同期する。マシンの怒りが神経を焼き、血がガソリンへと変わっていく。これだ。この、脳が溶けていくような痛みを、麗は愛していた。どんな言葉も、どんな記憶も、ここでは焼け落ちる。自分が何者で、何から逃げているかも、全部。
シグナルが点灯する。電子音が鳴り響き、ゲートが無機質な轟音を立てて跳ね上がった。
「行け、レイスターッ!」
砂塵が、爆発した。
最初の百メートル。麗とレイスターは、先行する三頭をまとめて「消した」。
抜いたのではない。一トンの鉄塊が持つ暴力的なトルクで、文字通り弾き飛ばしたのだ。ゼロから最大出力までわずか〇・二秒。設計思想をドブに捨てた過給機が吼え、抉られた砂が後続へ巨大な壁となって降り注ぐ。洗練などどこにもない。美しさの欠片もない。ただ、重く、速い。
「う、ああああああっ!」
ニューラルリンクの接続深度が跳ね上がる。レイスターの排熱が麗の体温を危険域まで押し上げ、安全装置の警告アラートが視界を赤く染めた。
麗は笑い、左手でダッシュボードの警告ユニットを殴りつけた。配線がもぎ取れる。
「うるさい。もっと寄越せ……!」
また死ぬかもしれない。それでいい。今この瞬間に全部くれてやる方が、ずっとましだ。
第三コーナー。外から二頭の機体が、レイスターを圧迫しにかかってきた。
機体番号3、湾岸の常連ダストクロウ。そして見慣れぬ白銀の機体、番号11、スノーランサー。
「新顔か」
麗の網膜ディスプレイが、スノーランサーの走りを瞬時に解析する。無駄のない軌道。芝の王者・サイレンススズカを彷彿とさせる、美しいフォーム。そしてその機体が、コース外側のわずかに固い路盤を選んで走っていることに、麗は気づいた。ただ速いだけじゃない。頭も使える。
「綺麗すぎるんだよ。砂を舐めるなッ!」
外から、ダストクロウが動いた。超重量級の装甲でレイスターを内側のフェンスへ押し潰そうと、巨大な質量を横に滑らせてくる。まともに接触すれば、機体ごと圧し折られる。
普通の騎手なら、ブレーキを踏む。
「レイスター! 押し潰せッ!」
衝突。
金属同士が正面から激突し、火花が夜明けの空に散った。装甲と装甲が擦れ合い、耳を劈く軋み音が鼓膜を震わせる。ダストクロウの右前脚アクチュエーターが過負荷で黒煙を噴き上げた。その一瞬の怯みを、レイスターは逃さない。強引に鼻先をねじ込み、肉を削り取るようにして進路をこじ開ける。
泥と火花が、跳ねた。
第四コーナーを抜け、直線に入る。後続との差、四馬身。レイスターは独走態勢に見えた。
だが、本当の地獄はここからだった。
先行機群が激しく搔き乱したダートの直線は、もはやコースではなかった。砂と超高熱の排気が渦巻く、文字通りの砂塵の壁。視界はゼロ。吸気口に砂が詰まれば、電磁心臓が焼き付いて爆発する。後続機たちが、突破不可能と見て一斉に減速した。
麗はニューラルリンクの深度を、限界の一・二倍まで引き上げた。
「焼き付けろ、レイスター! あの光の向こうへ!」
機体後部のバーニアが青白いプラズマを噴射する。一トンの鋼鉄が、質量を無視して前へ。
脳が、溶ける。脊髄ソケットから青い火花が散り、鼻から血が流れるのを感じた。構うものか。砂が歯の隙間にまで入り込む幻覚。焦げた金属の匂いが口腔を満たす。レイスターの怒りが麗の怒りになり、麗の渇望がレイスターの駆動系を焼いていく。どちらがどちらかわからなくなる。それでいい。
砂塵の壁に、一筋の亀裂が走る。
レイスターの群青のラインが、電子の叫びを上げて光り輝いた。
鋼の脚が砂を掴む。摩擦を、熱を、重力を——すべてをねじ伏せる漆黒の矢となって、二人は砂塵の壁へと突っ込んでいった。
その瞬間。爆風を切り裂いて、白い稲妻が外から並びかけてきた。
置き去りにしたはずの白銀の機体——スノーランサー。第三コーナーで外側の固い路盤を選んでいたのは、このためだったのか。砂塵の影響を最小に抑え、ただここへ向けて脚を溜めていた。泥にまみれ、装甲を剥き出しにしながら、それでもなお美しく、猛り狂うような加速でレイスターの真横へと並び立つ。
スタンド五階、防弾ガラス張りの柳生家来賓席で、ミカはモニターから目を離せずにいた。
白磁のような横顔に、感情はない。ない、はずだった。
「……野蛮ね。あんな泥まみれの走り、柳生の美学には存在しないわ」
妹のはるこが、吐き捨てるように言う。
ミカは答えなかった。ただ、気づけば膝の上の白い革手袋が、ミシミシと音を立てていた。肘掛けを握る指が、無意識のうちに限界を超えた力を込めている。ダストクロウへ真正面から突っ込んでいったあの瞬間から、目が、離せなかった。
(なぜ……?)
教科書を破り捨てたような泥まみれの暴力が、どうしようもなく美しかった。完璧に計算された柳生の「芝の気品」を、根底から腐らせていく未知の熱。それが恐ろしくて、奥歯を噛み締めて、心の最深部へと押し込めようとした。
うまく、いかなかった。
直線残り二百メートル。
白銀の機体の上で、少女が叫んでいた。柳生家の三女、りんね。その瞳は、泥と歓喜に濡れていた。
「――見つけたッ、村上麗!」
並び立つ二頭。臨界点を突破した鋼鉄の咆哮。
本当の戦いは、今ここから始まった。




