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断罪された社畜令嬢、追放先でスローライフしていたら才能が覚醒しました  作者: 渚月(なづき)


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第9話 断罪の数字

中央行きの馬車は、夜明け前に出発した。

空にはまだ星が残っている。辺境の夜明けは、中央より遅い。


ポムを膝に乗せ、資料の入った鞄を抱える。

鞄の中には、ヴェルデン商会の契約書の写しと、市場の分析データが入っている。


カイルが見送りに出てくれた。

まだ暗い商会の前で、ランタンの灯りが二人の間を照らしている。


「気をつけろ。あの街は、お前を捨てた場所だ」


「分かっています」


「無理はするな。何も取れなくても、帰ってこい」


その言葉に、少し詰まった。

「帰ってこい」と言われたのは、いつ以来だろう。


「——待ってるからな」


短い言葉。けれど、背中を押すには十分だった。


ルチアが走ってきて、布に包んだ何かを押しつけた。


「お弁当! 道中お腹空くでしょ!」


「ありがとう、ルチア」


トーマは見送りに出てこなかった。けれど、馬車に乗り込む時、二階の窓にちらりと人影が見えた。分厚い眼鏡の反射が、ランタンの光を跳ね返していた。


馬車が走り出す。

振り返ると、カイルがまだ立っていた。

ランタンを持った姿が、夜明けの薄暗がりの中で小さくなっていく。


中央までは丸一日の旅だった。

ポムは最初は窓の外を眺めていたが、やがて膝の上で丸くなって眠った。

ルチアの弁当を開けると、素朴なパンとチーズ、干し肉。それに小さなメモが挟んであった。


「リーネさんなら大丈夫!」


ルチアの字は、初めて会った頃よりずっと整っていた。

まだ少し歪んでいるけれど、一文字ずつ丁寧に書いてある。


目頭が熱くなった。パンを一口かじる。素朴な味が、今はごちそうだった。



中央の街並みは変わっていなかった。

石造りの大通り。華やかな看板。行き交う馬車。

色とりどりの旗が風に揺れ、商店の呼び込みの声が響いている。


半年前まで毎日歩いていた道だ。

けれど、わたしの目には前と違って映った。


以前は、この華やかさの中に自分の居場所を探していた。

一歩でも早く歩いて、一秒でも長く働いて、認められたいと必死だった。

けれど今は、この通りの裏にある数字のことを考えている。

あの看板の商店も、ゲイル商会の仲介で仕入れをしているのだろうか。この華やかさの代償を、どこかの辺境が払っているのだろうか。


ここはもう、わたしの場所ではない。そのことが、今は苦しくなかった。

むしろ、清々しいとさえ思った。ヴェルデンの冷たい風の方が、わたしには合っている。


旧勤務先のダイス商会に向かう道で、聞き覚えのある甲高い声が耳に入った。


「あら。まさか、リーネ?」


マリス・フォーリー。金髪巻き毛に、派手な宝飾品。

取り巻きを二人連れている。いつもの光景だ。


「辺境から何の用? 聞いた話だけど、あちらの商会、もうすぐ潰れるんでしょう? 可哀想に。行く先々で不幸を撒き散らすのね」


取り巻きが忍び笑いをする。マリスの唇が得意げに歪んだ。


以前なら、この声だけで足がすくんだだろう。

心臓が縮み、視線を落とし、早足で逃げていただろう。


けれど今、わたしの足は止まらなかった。


「ごきげんよう、マリスさん。お元気そうで何よりです」


それだけ言って、歩き続けた。


背後でマリスが何か言っていた。声のトーンが上がっている。無視されたことが気に入らないのだろう。

けれど、振り向かなかった。


半年前のわたしなら、あの言葉に傷ついて立ち止まっていた。

今は、足が止まらない。わたしを待っている人たちがいる。ルチアの笑顔。トーマの茶。カイルの「待ってるからな」。

あの場所を思い出すだけで、マリスの言葉は風に溶ける。


ポムが肩の上で、ぷくりと毛を膨らませた。威嚇しているらしい。


「ありがとう、ポム。でも大丈夫。あの人は、もうわたしを傷つけられないから」


小さな毛玉の頭を指で撫でる。ポムがきゅうと鳴いて、毛が元に戻った。


旧勤務先のダイス商会。

大通りから一本入った路地に、見覚えのある建物が立っている。


三年間、毎日通った場所だ。

正面の扉は磨かれていて、金の取っ手が光っている。


わたしは正面からは入らなかった。裏口から回る。

ここで三年間、朝から晩まで帳簿と向き合った。

建物の構造は頭に入っている。書庫の場所も、鍵の保管場所も。


かつての同僚に、一人だけ事前に手紙を出していた。

名はヨハン。わたしが辞めさせられた後も、時折気にかけてくれた男性事務員だ。

年は近いが、気が弱くて上に逆らえないタイプ。けれど、根は誠実な人間だった。


「リーネさん。来たんですね」


ヨハンは裏口で待っていた。手に鍵の束を持っている。

相変わらず少しおどおどした様子だが、目は真剣だった。


「書庫は夜間は施錠されていますが、昼の間なら帳簿の閲覧は可能です。元従業員の記録確認という名目で。規定上、退職後一年以内なら自分の在籍期間の記録を確認する権利があります」


「よく調べてくれたんですね」


「あなたが手紙でお願いしてきた時、規定を全部読み直しました。……正直、怖いです。でも」


ヨハンは息を吸った。


「あなたが不当に辞めさせられたこと、ずっと気になっていたんです。何もできなかった自分が情けなくて。今なら、少しだけ——」


「十分です。ありがとう」


書庫に入る。


薄暗い部屋に、帳簿が整然と並んでいる。

ダイス商会の経理は、わたしが辞めた後も同じ方式で帳簿を管理しているらしい。


三年分の取引記録を、手早く確認する。

ゲイル商会との契約書。付帯条項。


あった。


紙を裏返す。小さな文字。回りくどい法律用語。

そして——ヴェルデン商会と同じ構造の違約金条項。

年間取引額の五倍。文言まで、ほぼ同一だ。


しかも、ダイス商会だけではなかった。

書庫には、ダイス商会が他の商会と共同で結んだ契約の写しも保管されている。業界の慣習として、関連商会の契約情報を共有する仕組みがあったのだ。


ゲイル商会が中央の複数の中小商会にも、同じ手口を使っている記録が残っていた。


五社。五社分の契約書に、同一の不当条項。


わたしは必要な箇所を書き写した。原本は持ち出せないが、日付、金額、条項の文言を正確に記録する。

手が震えそうになる。けれど、ペンは止めない。一文字の間違いも許されない。


書き写しに二時間かかった。

最後の一枚を書き終えた時、指が痛んだ。ペンだこの上に、新しい痕がついていた。


「これで、十分です」


書庫を出る。

ヨハンが外で待っていた。


「ありがとう。あなたの名前は、どこにも出しません」


「いえ……リーネさん。頑張ってください」


わたしは頷いて、裏口から外に出た。


息を大きく吐いた。手が震えている。

けれど、鞄の中には五社分の記録がある。

やるべきことはやった。


ポムが肩の上でまるくなり、わたしの首筋に頬をすり寄せた。

その温もりに、目を閉じた。


帰ろう。ヴェルデンに。あの人たちのところに。


中央の街を出る時、一度だけ振り返った。

金色の看板。華やかな旗。賑やかな大通り。


三年間、わたしの青春をすり減らした街だ。

けれど、恨む気持ちはなかった。ここで学んだことが、辺境で武器になっている。

帳簿の読み方も、数字の追い方も、嘘を見抜く目も。すべて、ここで身につけた。


だから、ありがとう。そしてさようなら。


もう、振り返らなかった。


帰りの馬車の中で、ルチアの書いたメモをもう一度読んだ。


「リーネさんなら大丈夫!」


少し歪んだ文字が、滲んで見えた。泣いてはいない。目が疲れているだけだ。

ポムが膝の上で丸くなり、規則正しい寝息をたてている。


窓の外を、中央の街並みが遠ざかっていく。

代わりに、緑の丘が近づいてくる。空が広くなる。

辺境の空は、やっぱり中央より広い。


ヴェルデンに戻ったのは、翌日の夕方だった。


馬車がヴェルデンの街に入った瞬間、空気が変わった。

中央の重たい空気ではない。冷たくて、澄んでいて、少し痛い。

けれど今は、その痛さが心地よかった。帰ってきた、と体が知っている。


街の人たちが手を振ってくれた。

「おかえり」と声をかけてくれる人もいた。わたしの名前は知らないだろうに。

辺境は、そういう場所だ。小さな街だから、みんなの顔が見える。


商会の前にカイルが立っていた。

待っていたのだろう。ランタンはないが、夕陽の中に立つその姿は、出発の朝と同じだった。


わたしの姿を見て、無言で一歩近づいた。

その一歩の速さに、ずっとここで待っていたのだと分かった。


「ただいま戻りました」


「……おかえり」


カイルの声がわずかに掠れていた。


ルチアが商会の中から飛び出してきた。


「リーネさん! おかえりなさい!」


わたしの腕に抱きついてくる。その勢いで少しよろめいた。


「ちゃんと取ってきたよ。五社分」


「五社!? すごい!」


トーマが奥から出てきて、黙って茶碗を差し出した。

温かい薬草の茶。辺境の味だ。


一口飲んで、息をついた。


帰ってきた。わたしの居場所に。


それだけで十分だった。


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