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断罪された社畜令嬢、追放先でスローライフしていたら才能が覚醒しました  作者: 渚月(なづき)


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第8話 辺境の息子が差し出す手

エドモン公爵の滞在する城館は、質素だが威厳があった。

石壁に蔦が絡み、古い時代の堅実さを感じさせる。派手な装飾はない。けれど、隅々まで手入れが行き届いている。


面会は書類の事前提出が条件だった。

わたしは整理した資料一式を前日に届けている。市場の取引記録の分析結果。価格推移のグラフ。辺境全体の商会における仕入れ価格の推計値。すべて手書きで、一枚ずつ丁寧にまとめた。


「読みました」


公爵は開口一番、そう言った。


銀髪の痩せた老人は、机の上に広げた資料を指で押さえていた。

昨日届けたはずの資料に、すでに細かな書き込みがある。一晩で全ページに目を通したのだろう。


「数字は整合しています。計算に誤りは見当たらない。分析手法も妥当です」


「ありがとうございます」


「ただし、これは状況証拠です」


公爵の声に温度はなかった。事実を述べているだけだ。


「市場の販売価格から仕入れ値を推計することはできる。しかし、推計は推計です。ゲイル商会が実際にどのような条件で各商会と契約しているのか、その直接の証拠がなければ、公式な監査には入れません」


わたしの胸が沈んだ。予想はしていたが、やはり壁は厚い。

推計だけでは動けない。それは当然のことだ。公爵の立場からすれば、不確かな証拠で大手商会に監査を入れることは、制度そのものの信頼を損なう。


「しかし——」


公爵は眼鏡をわずかに上げた。


「状況証拠としては、十分に興味深い。これだけの範囲にわたって、同一の構造で価格が歪んでいるならば、偶然とは考えにくい。私は公正な商業を守る立場にあります。調査の端緒として、この資料を受理しましょう」


呼吸が楽になった。受理された。それだけで、今日は十分だ。


「ひとつ聞きたい」


公爵がわたしを真っ直ぐ見た。深い皺の刻まれた顔に、表情はない。

けれど、目だけが違った。静かな、けれど確かな関心を宿している。


「あなたは、なぜここまでやるのですか。没落した家の令嬢が、辺境の小さな商会のために」


沈黙が落ちた。

窓の外で鳥の声がした。城館の石壁が、午後の日差しに温められている。


「……数字が歪んでいるのを見ると、直したくなるんです」


正直な答えだった。格好のいい理由ではない。

大義があるわけでもない。正義の味方を気取るつもりもない。


「それに、わたし自身が——使い潰されて、捨てられた側だから」


声が少し震えた。


「三年間、誰より働きました。朝は一番早く、夜は一番遅く。それでも、没落した家の娘だという理由で、わたしの数字は評価されなかった。必要がなくなったら、紙一枚で終わりです」


公爵は黙って聞いていた。


「同じことを、この街の人たちにさせたくないだけです。情報がないから、知らないうちに搾取されている。声を上げる力がないから、我慢するしかない。それは——わたしが中央でされていたことと、同じなんです」


長い沈黙の後、公爵は小さく頷いた。


「あなたの父上も、帳簿に強い方でした」


その一言に、わたしの目が熱くなった。


父は子爵家の当主だったが、商いの帳簿を自分で読む珍しい貴族だった。

数字は嘘をつかない。それは父の口癖だった。


わたしの指に残るペンだこは、父から受け継いだものかもしれない。


けれど、泣かなかった。ここで泣いたら、わたしの言葉は感情論になる。

数字で語ったことを、涙で曇らせたくなかった。


「資料は追加があれば随時受け付けます。直接の物証が揃えば、正式な監査を発動できる」


公爵はペンを取り、受理印を押した。


「——期待しています」


それは社交辞令ではなかった。

この人が「期待している」と言うのは、証拠が揃う可能性を認めたということだ。


城館を出ると、カイルが壁にもたれて待っていた。

腕を組み、足を投げ出している。けれど、目はすぐにこちらを見た。


「どうだった」


「受理されました。ただし直接の物証が足りないと」


「そうか。じゃあ、集めるしかないな」


カイルは当然のように言った。

まるで、明日の市場の準備を話すような軽さ。

その声の軽さが、少し救いだった。深刻さを分かった上で、あえて軽くしてくれている。


「ただ、物証というのは——ゲイル商会が複数の商会と結んだ契約書そのものです。うちの契約書はある。けれど一社だけでは弱い」


「他の商会から借りるのは難しいだろうな」


「ええ。報復を恐れて、表立っては協力してくれない」


「じゃあ、裏から行くか」


カイルが少し笑った。悪だくみをする子どものような顔だった。


「裏ではなく……別の角度から、と言ってください」


「はいはい」



帰りの馬車で、わたしは黙って窓の外を見ていた。


夕陽が山の稜線を染めている。ヴェルデンで最初に見た景色と同じ色だった。

あの日、ルチアに案内された部屋の窓から見た、金色の稜線。


あの時のわたしは、何もかも失って、何もない場所に流れ着いた人間だった。

今も、多くは持っていない。けれど、空っぽではなくなった。


「リーネ」


カイルが、初めて名前だけで呼んだ。


振り向くと、彼はまっすぐ前を見たまま言った。

馬車の揺れに合わせて、少しだけ肩が触れた。


「お前がうちに来てくれて、よかった」


それだけだった。

何の飾りもない言葉だった。

上手い言い回しでもなければ、詩的でもない。ただそのまま、思ったことを口にしただけ。


けれど、わたしは返事ができなかった。

喉の奥が詰まって、息を整えるのに時間がかかった。


「——わたしも」


やっと出た声は小さかった。


「ここに来てよかったと、思っています」


ポムが膝の上で、きゅう、と鳴いた。

カイルは何も言わず、ただ隣に座っていた。


馬車の窓から入る夕風が、少しだけ温かかった。


商会に戻ると、ルチアが血相を変えて飛んできた。

走ってきたらしく、赤毛のおさげが乱れている。


「大変! ゲイル商会が辺境伯のお兄様に話を持ちかけたって!」


カイルの顔が強ばった。


「兄貴に?」


「うん! ヴェルデン商会を兄様の管轄に移すって話が出てるって——つまり、カイルさんから商会を取り上げるってこと!」


カイルの実兄。辺境伯家の長男にして正統な後継者だ。

兄が商会の管理権を主張すれば、次男のカイルには法的に抗う手段が限られる。


辺境伯家の家督問題。それは名誉と血筋の世界の話だ。

数字では、解決できない。


オルヴァンは、商売で勝てないと分かれば、権力で潰しにくる。

名誉と利権。貴族社会で最も強い武器を使ってきた。


「名誉か実力かの戦いだな」


カイルの声は低く、けれど折れてはいなかった。

拳を握っているが、目は前を向いている。


「でも、まだ正式な話じゃないんだろう」


「うん。でも、兄上が首を縦に振ったら、あっという間に——」


「時間がないってことだ」


わたしは帳簿を握りしめた。


物証が要る。今すぐに。

ゲイル商会の不正を証明する直接の証拠が。


監査が正式に始まれば、商会の接収は止められる。不正の疑いがある企業との取引に基づく権利主張は、監査完了まで凍結される。それが制度のルールだ。


そしてわたしは、ひとつの可能性に気づいた。


わたしが中央で三年間勤めていた商会。ダイス商会。

あそこにも、ゲイル商会との取引記録があったはずだ。わたしが毎日触っていた帳簿の中に。


わたしが追い出された、あの場所に。


戻りたくない場所だった。

けれど、戻らなければならない場所だった。


「——カイルさん。わたし、中央に行かなければなりません」


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