第6話 噂は中央からやってくる
農家への圧力。予想はしていた。けれど、速度が違う。
オルヴァンは我々の仕入れルートを正確に把握していた。初日から動いていたのだろう。
翌朝、わたしとカイルは近隣の農家を一軒ずつ回った。
ポムは留守番だ。ルチアの膝の上で丸くなっていたが、わたしが出かける時にきゅうと小さく鳴いた。
最初の農家で、年配の女性が申し訳なさそうに頭を下げた。
「悪いねぇ。あんたたちの商会、いい人ばかりなのは分かってる。でもゲイルの旦那に睨まれたら、うちは干上がっちまう」
「お気持ちは分かります」
わたしは頭を下げた。責める気持ちはなかった。
この女性は一家の暮らしを守らなければならない。
理屈で説得できる話ではない。生活がかかっている人間に、リスクを背負えとは言えない。
二軒目。蜂蜜を卸してくれていた養蜂家の老人は、目を合わせようとしなかった。
「すまんな。孫がおるんでな」
それだけ言って、戸を閉めた。
三軒目。薬草を乾燥させて卸していた若い夫婦は、二人で顔を見合わせてから言った。
「ゲイルの人が来て、うちの出荷先を全部把握してると言ったんです。ヴェルデンに卸したら、他の取引先にも手を回すと。脅しだと分かってるんですけど……」
「分かっています。無理はなさらないでください」
カイルが穏やかに答えた。
けれど、商会を出た後の横顔は硬かった。
四軒目。ルチアの実家だった。
丘の上の小さな農家。庭先で鶏が歩き回っている。
畑は手入れが行き届いていて、冬に向けた根菜の準備が進んでいた。
ルチアの父親は、大きな手で頭をかきながら出てきた。
日に焼けた顔。ルチアと同じそばかすが頬にある。
「ゲイルの使いが来たよ。昨日の夕方。ていねいな物言いだったけど、中身は脅しだな」
「申し訳ありません。こちらの事情に巻き込んでしまって」
わたしが言うと、ルチアの父親はわたしをじっと見た。
「あんたが、ルチアに字を教えてくれてる人かい」
「……はい」
「正直、怖いよ。ゲイルの商会は大きい。逆らったら何されるか分からん。けど——」
ルチアの父親は、家の中を振り返った。
壁にルチアの書いた練習帳が貼ってあるのが見えた。大きな、少し歪んだ文字。「おとうさん」と書いてある。
「この子が、字を覚え始めたんだ。商会で教わったって、嬉しそうに帳簿を見せてくる。うちの子が帳簿を読めるようになるなんて、夢にも思わなかった。親として、その顔を裏切れねえ」
「父ちゃん……」
ルチアの声が震えた。カイルが黙って目を伏せた。
「うちは降りねえ。作ったもんは、ちゃんとヴェルデン商会に卸す。ただし、他の農家を巻き込む力は俺にはない。うちは小さい農家だ。精一杯やっても、商会を支えるには足りんだろう」
一軒だけでは足りない。けれど、ゼロではなくなった。
ゼロとイチの差は、数字の上では小さい。けれど、意味は天と地ほど違う。
帰り道。夕暮れの丘道を歩きながら、カイルが言った。
「農家だけに頼る仕入れは脆い。別の道が要る」
「ええ。考えています」
わたしは歩きながら、帳簿の数字を頭の中で組み替えていた。
風が強い。髪が乱れたが、構っている場合ではない。
辺境には農作物以外にも資源がある。
森の薬草。山の鉱石。川の清流で育つ淡水魚。
どれも中央では手に入りにくい。希少価値が高いものばかりだ。
「辺境の天然資源を加工して、中央に売る。仕入れではなく、販売ルートを作るんです」
カイルの足が止まった。
「逆転の発想か。中央から買う側じゃなく、中央に売る側に回る」
「はい。辺境にしかないものを扱えば、ゲイル商会と競合しない。しかも、中央にとって代替が効かない。辺境でしか採れない薬草、辺境の職人にしか作れない品。それを武器にする」
「だが、中央への販路がない。うちは辺境の小さな商会だ。中央の市場に出る伝手がない」
「それは……これから作ります」
正直、具体策はまだ見えない。
けれど、方向性は間違っていないと数字が語っている。
辺境の特産品の潜在的な市場価値を試算すると、現在の売上の数倍になる可能性がある。問題は売り先だ。
カイルは黙ってわたしの横を歩いた。
しばらくして、ふと気づいた。
彼がわたしの歩幅に合わせてくれていることに。
わたしは脚が短い。中央の商会では、早足の同僚について行くのがいつも大変だった。
カイルは何も言わず、自然に速度を落としていた。
その小さな気遣いに、胸の奥が少し温かくなった。
けれど、今はそれに浸っている余裕はない。
◇
数日後、思わぬ方角から風向きが変わった。
昼過ぎ、商会にひとりの老紳士が訪ねてきた。
従者を一人だけ連れた質素な姿だが、身のこなしに隙がない。
銀髪、痩せ型。深い皺が刻まれた顔に、表情がない。
手元には革の書類入れを持っている。
名乗りを聞いて、わたしの背筋が伸びた。
エドモン公爵。王都の重鎮にして、この国の商業制度の監査を担う最高位の人物。
公爵家は代々、王家から商業の公正を守る使命を与えられている。権力とは無縁の、制度の番人。
なぜこんな辺境に。
「定期巡察の一環です。辺境の商況を視察しています」
淡々とした声。感情の色がない。まるで書類を読み上げるような話し方だった。
カイルが応対に立った。緊張しているのが分かる。辺境伯家の次男といえど、公爵の前では格が違う。
しかし、エドモン公爵の視線はカイルではなく、わたしの手元——帳簿に向いていた。
「経理の方ですか。帳簿を拝見しても?」
「はい、どうぞ」
差し出した帳簿を、公爵は一ページずつ丁寧に読んだ。
その速度は遅くない。数字を読める人間特有の目の動きだ。
必要な数字だけを正確に拾い、不要な部分は飛ばす。この人は帳簿に慣れている。
「——整理が行き届いている。辺境でこれほどの帳簿は珍しい」
「恐れ入ります」
「以前はどちらで?」
「中央のダイス商会で、三年間経理を務めておりました」
公爵の眉がわずかに動いた。ダイス商会の名を知っている、ということだ。
「ゲイル商会との取引記録も、ありますね」
心臓が一拍、強く打った。
この人は、帳簿の中身をひと目で把握した。そしてゲイル商会の名前に、特別な関心を示している。
「はい」
「拝見する権限は、私にあります。ただし今日は時間がない。改めて伺います」
それだけ言って、エドモン公爵は去った。
従者が深々と一礼して、後に続く。
カイルが小声で言った。
「あの人、何を考えてる」
「分かりません。ただ——」
帳簿を見る目は、公正だった。
数字を読む人間の目。飾りで帳簿を見たのではなく、中身を理解した上での発言だ。
わたしはそれだけは見分けられる。三年間、数字の世界で生きてきたのだから。
「敵ではない、と思います。少なくとも今は」
「根拠は?」
「帳簿の数字を、ちゃんと読んでいました。飾りで見たのではなく、本当に中身を理解していた。権力で圧力をかけるつもりなら、帳簿を読む必要はありません」
カイルは少し考えて、頷いた。
「お前の目を信じる」
何気ない一言だった。
けれどわたしは、その言葉を帳簿の余白に書き留めたいほど、大事に感じた。
信じる、と言ってくれる人がいる。
中央では、一度もなかったことだ。
ポムが膝の上で、きゅうと鳴いた。
わたしはポムの頭をそっと撫でた。指先に柔らかい毛の感触が伝わる。
その夜、中央から一通の手紙が届いた。
差出人の名に、わたしの呼吸が止まった。
マリス・フォーリー。
わたしを社交界から追い出し、商会での居場所を奪った張本人のひとりだ。
封を切る。指先が冷たい。
『辺境でみじめに暮らしていると聞きました。そちらの商会、近いうちに大変なことになるそうですよ。忠告のつもりで書いています。——聞いた話ですけれど』
手紙が震えた。いや、わたしの手が震えていた。




