第4話 緑の毛玉と信頼の茶
「突然の訪問をお許しください。ゲイル商会のオルヴァンと申します」
その声は穏やかで、まるで旧友を訪ねてきたかのようだった。
手には上等な菓子の包み。銀色の包装紙に、中央の高級菓子店の刻印が入っている。
手土産を欠かさない男だと、以前の職場で噂を聞いたことがある。
カイルが応対に出た。
わたしは帳簿を抱えたまま、奥の机から様子を窺う。
昨日まとめたばかりの数字が頭の中を駆け巡っていた。
「辺境伯のご子息に、直接ご挨拶がしたくて。長いお取引ですからね。今後もよろしくお願いしたい」
「わざわざ中央から? 遠路ありがとうございます」
カイルの声は穏やかだが、背中がわずかに緊張している。
昨日わたしが見せた数字を、この男の前で思い出しているのだろう。
オルヴァンは商会の中をゆっくりと見回した。
帳簿の山、古びた棚、軋む床板。すべてを値踏みするような視線だった。
だが口元には微笑みを絶やさない。この男の微笑みは鎧のようなものだ。
その視線が、ふいにわたしを捉えた。
「おや。見慣れないお顔ですね」
「新しい経理です」
カイルが短く答えた。それ以上の情報は渡さないつもりらしい。
「経理。それはそれは。辺境で経理を雇えるとは、なかなかご盛況で」
社交辞令の形をしているが、探りが入っている。
辺境の小さな商会が、わざわざ外から経理を雇った。それが何を意味するか、この男は計算しているはずだ。
オルヴァンは微笑んだまま、わたしの方へ一歩近づいた。
整った容貌に、手入れの行き届いた身なり。すべてが計算されている印象だった。
「——アシュベル家のお嬢さんでは?」
空気が変わった。
わたしは帳簿を机に置き、立ち上がった。
膝が少し震えたが、机の影で見えないはずだ。声は平静を保つ。
「リーネ・アシュベルです。お見知りおきを」
「ええ、ええ。よく存じています。中央では大変でしたね。ご実家のことも、お仕事のことも」
言葉は同情の形をしていたが、目は笑っていなかった。
黒い瞳の奥に、計算機のような冷たさがある。
この男は、わたしの家が没落した経緯を知っている。
いや——関わっている可能性すらある。
アシュベル子爵家が取引先を次々に失い、信用を落とし、最後には領地の管理権まで手放すことになった。その過程にゲイル商会の名前が何度も出ていたことを、わたしは覚えている。
「カイルさん、今後のお取引の件でいくつかご提案が」
オルヴァンは自然にわたしから視線を外し、カイルとの商談に移った。
懐から取り出した書類は美しく整えられている。数字も図表も見やすい。
新しい仕入れ契約。条件は一見、以前より好意的に見える。
仕入れ値が一割ほど下がっている。普通なら喜ぶ条件だろう。
けれど、わたしの頭は数字を追っていた。
運送費の項目が巧妙に組み替えられている。
見た目の仕入れ値は下がっているが、付帯費用の項目が増えている。
保管料、検品料、為替調整費。聞こえのいい名前がついているが、要するに名目を変えた手数料だ。
実質的な負担は変わらない。
いや、むしろ——長期契約の縛りが加わっている分、悪化している。
三年間の専属契約。途中解約には違約金。これを飲めば、ヴェルデン商会はゲイル商会なしでは何もできなくなる。
「素晴らしいご提案ですね」
わたしは口を挟んだ。オルヴァンの目がこちらに向く。
微笑みは崩さない。けれど、瞳の奥がわずかに鋭くなった。
「ただ、一点だけ確認させてください。この運送費の算出根拠を、書面でいただけますか。保管料と検品料についても、算出方法を明記したものがあれば助かります」
一瞬の沈黙。
部屋の空気が張り詰めた。カイルがわたしを見ている。トーマも奥から目だけで様子を窺っていた。
オルヴァンの微笑みは崩れなかった。けれど、指先が手袋の縁をわずかに撫でた。
癖だ。不意を突かれた時に出る、小さな仕草。
「もちろん。後日お届けしますよ」
「ありがとうございます。経理として、記録は正確に残しておきたいので」
「ご熱心ですね。辺境でそこまで丁寧な経理は珍しい」
褒め言葉の形をした牽制だった。
わたしは微笑み返した。こういうやり取りなら、中央で三年間鍛えられている。
会談が終わり、オルヴァンが去った後。
馬車が通りの角を曲がるまで、誰も口を開かなかった。
カイルが振り返った。
「あの条件、悪いのか」
「見た目は改善されています。仕入れ値だけ見れば一割の減額。でも、構造は同じです」
わたしは机の上に紙を広げ、ペンで数字を書いた。
「付帯費用を全部足すと、実質的な支払額は現行とほぼ同じ。その上、三年間の専属契約で縛られる。これを受けたら、別の仕入れ先を探すことすらできなくなります」
「……つまり」
「新しい罠です。しかも前より巧妙な。仕入れ値の引き下げという餌で、長期の従属を買おうとしている」
カイルは腕を組み、低く唸った。顎を引いて、わたしの書いた数字を睨んでいる。
「あの男、お前が帳簿を見てることに気づいてる」
「ええ。だから来たんだと思います」
わたしの存在を確認しに。そして、手遅れになる前に手を打とうとしている。
経理の目がある商会は、今までのように言い値で取引を続けてはくれない。だから、契約で縛る。
「牽制か」
「はい。わたしたちが何かを掴む前に、契約で動きを封じたかったんでしょう」
トーマが奥から出てきた。手に湯気の立つ茶碗を三つ載せた盆を持っている。
「坊。あの男の手土産は食うなよ。何が入っとるか分からん」
「……毒は入ってないと思いますけど」
わたしが言うと、トーマはぶすっとした顔で茶碗を机に置いた。
「毒じゃなくても、あの手の人間の贈り物は借りになる。借りは利子がつく」
なるほど。この老番頭は、数字は苦手でも、人を見る目は確かだ。
◇
その夜、宿舎の裏庭で風に当たっていると、足元に何かが触れた。
最初は落ち葉かと思った。
けれど、落ち葉は動かない。
見下ろすと、小さな、丸い毛玉がいた。
淡い緑色の毛並みに、大きな黒い目。手のひらに乗るほどの大きさ。
その生き物が、わたしの足首にすり寄っている。
温かい。ふわふわしている。
「……なに、この子」
しゃがんで手を伸ばすと、毛玉はためらいなく掌に乗ってきた。
驚くほど軽い。けれど確かに温かくて、小さな心臓の鼓動が伝わってくる。
毛玉が目を閉じて、わたしの手の中で丸くなった。
その仕草があまりにも無防備で、胸の奥がきゅっと締まった。
翌朝、ルチアが目を丸くした。
「ポムだ! 森の精霊獣! 人に懐くの、すっごく珍しいんだよ!」
「精霊獣?」
「うん! 辺境の森に棲んでる不思議な生き物。悪い人には絶対近づかないの。人に懐くのは何年に一度あるかないかだって、おばあちゃんが言ってた」
ポムと呼ばれた毛玉は、わたしの肩に乗ったまま離れようとしない。
温かくて、柔らかい。少し震えると、毛玉がきゅうと身を寄せてくる。
まるで、大丈夫だよ、と言っているように。
トーマが眼鏡の奥でポムをしばらく見つめ、小さく頷いた。
「精霊獣が懐くのは、心根のまっすぐな者だけだ。——昔、先代の旦那様にも一匹、ついておった。旦那様が亡くなった時、森に帰っていったが」
それはトーマなりの、信頼の表明だったのかもしれない。
先代の主人と同じ資質を、この毛玉が見出したのだとしたら。
カイルは少し羨ましそうにポムを見て、指を伸ばした。
ポムはぷいと顔を背けた。緑の毛がふわりと膨らむ。
「……俺には懐かないんだな」
「日頃の行いではないですか」
口から自然と出た軽口に、自分で少し驚いた。
中央にいた頃は、冗談なんて言う余裕がなかった。
カイルは目を丸くして、それから声を出して笑った。
商会の中に笑い声が響くのは、珍しいことらしい。トーマまで口元を緩めていた。
「お前、冗談も言えるんだな」
「たまには」
ポムが肩の上でまるくなる。
その温もりを感じながら、わたしは思った。
この場所に、少しだけ馴染み始めている。
けれど同時に分かっている。
オルヴァンは引き下がらない。わたしが帳簿を読めると知った以上、次の手を打ってくるはずだ。
あの男の微笑みの裏にあるものを、わたしは知っている。追い詰められた獲物は放さない。それがあの手の人間だ。
その夜、机に向かって書類を整理していると、ルチアが駆け込んできた。
息を切らしている。頬が紅潮していた。
「リーネさん、大変! 明日の市場、突然ゲイル商会が出店するって! うちの仕入れ先が何軒か、取引をやめるって言ってきた!」




