第2話 辺境の風は冷たくて温かい
馬車を降りた瞬間、冷たい風が頬を叩いた。
中央とは空気が違う。澄んでいて、少し痛い。
ヴェルデンの街は小さかった。
石畳は古く、ところどころ欠けている。建物は低く、壁には蔦が絡んでいた。
華やかさの欠片もない。中央で見慣れた金箔の看板も、色とりどりの旗もない。
けれど、通りを歩く人々の足取りは確かだった。
誰もうつむいていない。それだけで、中央とは違うと分かる。
荷台を押す男が威勢よく挨拶を飛ばし、パン屋の前では子どもたちが笑い声をあげていた。
わたしは一瞬、足を止めた。こういう素朴な光景を、ずいぶん長いこと見ていなかった気がする。
「ヴェルデン商会は、この先ですか」
道端で木箱を運んでいた赤毛の少女が振り向いた。
そばかすだらけの丸い顔。大きな目がきらきらしている。
「商会? あ、もしかして新しい人?」
「……経理の募集を見て来たのですが」
「わあ、ほんと!? カイルさーん! 人が来たー!」
少女は木箱を放り出して走っていった。
中身の林檎がごろごろと転がるのを、わたしは反射的に拾い集める。
こういう場所なのか。
戸惑いはあった。けれど、不快ではなかった。
◇
商会の建物は、予想よりさらに小さかった。
看板の文字はかすれて半分読めない。扉は開けるたびに軋む。
中央の商会なら、見習いが真っ先に直すような細々としたことが、ここでは放置されている。
けれど中に入って、わたしの目は別のものに釘付けになった。
帳簿の山だ。
棚に押し込まれ、机に積み上げられ、一部は床にまで散らばっている。
埃を被った台帳の背表紙が、もう何ヶ月も開かれていないことを語っていた。
「ああ、すまない。散らかってて」
奥から現れたのは、日に焼けた青年だった。
濃い茶髪を無造作にかきあげている。
商人というより、畑仕事の帰りのような格好をしている。
腕まくりした袖から見える腕は逞しく、頬には薄く土埃がついていた。
「カイル・ヴェルデン。一応、ここの代表だ」
差し出された手は大きくて、荒れていた。
帳簿を繰る手ではない。荷を運び、土を掘る手だ。
「リーネ・アシュベルです。経理の求人を見て参りました」
握手を交わす。力加減は丁寧だった。見た目ほど大雑把ではないのかもしれない。
カイルはわたしをじっと見た。
その目は大雑把な外見に似合わず、鋭い。何かを見定めるような視線だ。
商人の目だ。人を見る時に、肩書よりも先に人間そのものを見る目。
わたしは視線を逸らさなかった。
ここで怯んだら、最初の印象が決まってしまう。
「アシュベル……中央の子爵家の?」
体が強ばった。もう噂が届いているのか。
没落した家の、追い出された娘。そう見られるのだろう。
わたしは背筋を伸ばした。ここで怯めば、この先もずっと怯え続けることになる。
「はい。ただ、家はもうありません」
「そうか」
それだけだった。
哀れみも、好奇心も、声に混じらない。
中央なら、ここで根掘り葉掘り聞かれるか、あるいは露骨に態度が変わる。
カイルはただ頷いて、積み上がった帳簿の山を手で示した。
「帳簿が読めるなら、ありがたい。見ての通りだ。俺もトーマも、数字は苦手でな」
苦笑する顔に、取り繕った様子はなかった。
「正直に言うと、うちは金がない。給金は高くない。辺境の暮らしは不便だ。冬は厳しい。娯楽もほとんどない。それでもいいなら」
条件を正直に並べる姿勢に、わたしは少し驚いた。
中央の商会では、好条件を並べて人を引き込み、後から本当の条件を突きつけるのが常だった。
「構いません」
即答していた。
考える必要がなかった。数字と向き合える場所があるなら、それでいい。
少なくとも、嘘の条件で釣られるよりはずっと清々しい。
カイルは少し驚いた顔をして、それから笑った。
目尻に皺が寄る。屈託のない笑い方だった。
「じゃあ、明日から頼む。……ルチア、客人に部屋を」
「はーい!」
さっきの赤毛の少女が飛んできた。ルチアというらしい。
転がった林檎のことはもう忘れているようだ。
「リーネさんだっけ? こっちこっち! 部屋、ちょっと狭いけど窓からの景色はいいよ!」
腕を引かれるまま、二階へ連れていかれる。
この子は人との距離感が独特だ。初対面の人間の腕を、こんなに自然に掴める人は珍しい。
階段を上がりながら、ちらりと下を見た。
カイルがトーマと何か話している。トーマは渋い顔をしていた。
「よそ者を入れるのか」とでも言っているのだろう。
カイルが何か答えた。聞こえなかったが、トーマが黙ったところを見ると、簡単には覆せない言い方だったのだろう。
この商会の力関係が少し見えた。カイルは大雑把に見えて、譲らないところは譲らない人間らしい。
案内された部屋は確かに狭かった。
ベッドと小さな机。それだけ。
壁のしっくいは少しひび割れていて、天井の梁が剥き出しになっている。
けれど、窓を開けると、遠くに緑の山並みが見えた。
夕陽に染まって、稜線が金色に光っている。
風がカーテンを揺らした。土と草の匂いがした。
息を吸い込む。胸の奥が、少しだけ緩んだ。
「きれい……」
自分の口から出た言葉に、少し驚いた。
ここ数年、景色を「きれい」と思ったことがなかった。
「でしょ?」
ルチアが得意げに笑う。
「ヴェルデンはね、何もないけど、空と山だけは自慢なの」
何もない場所。
わたしにはちょうどいい。
何もないということは、何もかも失った人間にとって、案外やさしいことなのかもしれない。
ルチアが部屋の隅を指差した。
「あ、そこの引き出し、ちょっと固いから気をつけてね。あとベッドの脚が一本短いの。本を挟んであるから動かさないで」
「……了解」
完璧な部屋ではない。けれど、誰かが使えるように整えてくれた痕跡がある。
引き出しには乾燥した花が入っていた。虫よけだろう。ルチアが入れてくれたのかもしれない。
荷物を下ろして、カバンの中から帳簿用の筆記具を取り出す。
ペンとインク壺と、使い慣れた定規。わたしの全財産みたいなものだ。
明日から仕事だ。あの帳簿の山をまず整理しなければ。
量は多いが、嫌ではなかった。むしろ、体の奥から力が湧いてくるのを感じる。
数字と向き合う時間だけは、わたしを裏切らない。
階下から視線を感じた。
振り返ると、窓の下に白髪の老人が立っていた。背の曲がった痩せた体に、分厚い眼鏡。
トーマ。カイルが名前を出していた、古参の番頭だ。
その眼鏡の奥の目は、値踏みするように冷たい。
歓迎の色はなかった。当然だ。どこの馬の骨とも知れない没落令嬢が、いきなり経理を任されるのだから。
味方ばかりではない。ここでも。
わたしは窓を閉めて、小さな机に向かった。
ルチアが持ってきてくれた温かいスープを一口だけ飲み、メモ帳を開く。
まずは、あの帳簿の山を頭に入れなければ。
何が記録されていて、何が記録されていないのか。
数字を追う手が、自然と動き出す。
これだけは、誰にも奪えない。
——けれど翌朝、帳簿の最初のページを開いた瞬間、わたしの指が止まった。
数字が、合わない。




