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断罪された社畜令嬢、追放先でスローライフしていたら才能が覚醒しました  作者: 渚月(なづき)


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第2話 辺境の風は冷たくて温かい

馬車を降りた瞬間、冷たい風が頬を叩いた。

中央とは空気が違う。澄んでいて、少し痛い。


ヴェルデンの街は小さかった。

石畳は古く、ところどころ欠けている。建物は低く、壁には蔦が絡んでいた。

華やかさの欠片もない。中央で見慣れた金箔の看板も、色とりどりの旗もない。


けれど、通りを歩く人々の足取りは確かだった。

誰もうつむいていない。それだけで、中央とは違うと分かる。


荷台を押す男が威勢よく挨拶を飛ばし、パン屋の前では子どもたちが笑い声をあげていた。

わたしは一瞬、足を止めた。こういう素朴な光景を、ずいぶん長いこと見ていなかった気がする。


「ヴェルデン商会は、この先ですか」


道端で木箱を運んでいた赤毛の少女が振り向いた。

そばかすだらけの丸い顔。大きな目がきらきらしている。


「商会? あ、もしかして新しい人?」


「……経理の募集を見て来たのですが」


「わあ、ほんと!? カイルさーん! 人が来たー!」


少女は木箱を放り出して走っていった。

中身の林檎がごろごろと転がるのを、わたしは反射的に拾い集める。


こういう場所なのか。

戸惑いはあった。けれど、不快ではなかった。



商会の建物は、予想よりさらに小さかった。

看板の文字はかすれて半分読めない。扉は開けるたびに軋む。

中央の商会なら、見習いが真っ先に直すような細々としたことが、ここでは放置されている。


けれど中に入って、わたしの目は別のものに釘付けになった。


帳簿の山だ。


棚に押し込まれ、机に積み上げられ、一部は床にまで散らばっている。

埃を被った台帳の背表紙が、もう何ヶ月も開かれていないことを語っていた。


「ああ、すまない。散らかってて」


奥から現れたのは、日に焼けた青年だった。

濃い茶髪を無造作にかきあげている。

商人というより、畑仕事の帰りのような格好をしている。

腕まくりした袖から見える腕は逞しく、頬には薄く土埃がついていた。


「カイル・ヴェルデン。一応、ここの代表だ」


差し出された手は大きくて、荒れていた。

帳簿を繰る手ではない。荷を運び、土を掘る手だ。


「リーネ・アシュベルです。経理の求人を見て参りました」


握手を交わす。力加減は丁寧だった。見た目ほど大雑把ではないのかもしれない。


カイルはわたしをじっと見た。

その目は大雑把な外見に似合わず、鋭い。何かを見定めるような視線だ。

商人の目だ。人を見る時に、肩書よりも先に人間そのものを見る目。


わたしは視線を逸らさなかった。

ここで怯んだら、最初の印象が決まってしまう。


「アシュベル……中央の子爵家の?」


体が強ばった。もう噂が届いているのか。

没落した家の、追い出された娘。そう見られるのだろう。

わたしは背筋を伸ばした。ここで怯めば、この先もずっと怯え続けることになる。


「はい。ただ、家はもうありません」


「そうか」


それだけだった。

哀れみも、好奇心も、声に混じらない。

中央なら、ここで根掘り葉掘り聞かれるか、あるいは露骨に態度が変わる。


カイルはただ頷いて、積み上がった帳簿の山を手で示した。


「帳簿が読めるなら、ありがたい。見ての通りだ。俺もトーマも、数字は苦手でな」


苦笑する顔に、取り繕った様子はなかった。


「正直に言うと、うちは金がない。給金は高くない。辺境の暮らしは不便だ。冬は厳しい。娯楽もほとんどない。それでもいいなら」


条件を正直に並べる姿勢に、わたしは少し驚いた。

中央の商会では、好条件を並べて人を引き込み、後から本当の条件を突きつけるのが常だった。


「構いません」


即答していた。

考える必要がなかった。数字と向き合える場所があるなら、それでいい。

少なくとも、嘘の条件で釣られるよりはずっと清々しい。


カイルは少し驚いた顔をして、それから笑った。

目尻に皺が寄る。屈託のない笑い方だった。


「じゃあ、明日から頼む。……ルチア、客人に部屋を」


「はーい!」


さっきの赤毛の少女が飛んできた。ルチアというらしい。

転がった林檎のことはもう忘れているようだ。


「リーネさんだっけ? こっちこっち! 部屋、ちょっと狭いけど窓からの景色はいいよ!」


腕を引かれるまま、二階へ連れていかれる。

この子は人との距離感が独特だ。初対面の人間の腕を、こんなに自然に掴める人は珍しい。


階段を上がりながら、ちらりと下を見た。

カイルがトーマと何か話している。トーマは渋い顔をしていた。

「よそ者を入れるのか」とでも言っているのだろう。


カイルが何か答えた。聞こえなかったが、トーマが黙ったところを見ると、簡単には覆せない言い方だったのだろう。

この商会の力関係が少し見えた。カイルは大雑把に見えて、譲らないところは譲らない人間らしい。


案内された部屋は確かに狭かった。

ベッドと小さな机。それだけ。

壁のしっくいは少しひび割れていて、天井の梁が剥き出しになっている。


けれど、窓を開けると、遠くに緑の山並みが見えた。

夕陽に染まって、稜線が金色に光っている。

風がカーテンを揺らした。土と草の匂いがした。


息を吸い込む。胸の奥が、少しだけ緩んだ。


「きれい……」


自分の口から出た言葉に、少し驚いた。

ここ数年、景色を「きれい」と思ったことがなかった。


「でしょ?」


ルチアが得意げに笑う。


「ヴェルデンはね、何もないけど、空と山だけは自慢なの」


何もない場所。

わたしにはちょうどいい。

何もないということは、何もかも失った人間にとって、案外やさしいことなのかもしれない。


ルチアが部屋の隅を指差した。


「あ、そこの引き出し、ちょっと固いから気をつけてね。あとベッドの脚が一本短いの。本を挟んであるから動かさないで」


「……了解」


完璧な部屋ではない。けれど、誰かが使えるように整えてくれた痕跡がある。

引き出しには乾燥した花が入っていた。虫よけだろう。ルチアが入れてくれたのかもしれない。


荷物を下ろして、カバンの中から帳簿用の筆記具を取り出す。

ペンとインク壺と、使い慣れた定規。わたしの全財産みたいなものだ。


明日から仕事だ。あの帳簿の山をまず整理しなければ。

量は多いが、嫌ではなかった。むしろ、体の奥から力が湧いてくるのを感じる。

数字と向き合う時間だけは、わたしを裏切らない。


階下から視線を感じた。

振り返ると、窓の下に白髪の老人が立っていた。背の曲がった痩せた体に、分厚い眼鏡。

トーマ。カイルが名前を出していた、古参の番頭だ。


その眼鏡の奥の目は、値踏みするように冷たい。

歓迎の色はなかった。当然だ。どこの馬の骨とも知れない没落令嬢が、いきなり経理を任されるのだから。


味方ばかりではない。ここでも。


わたしは窓を閉めて、小さな机に向かった。

ルチアが持ってきてくれた温かいスープを一口だけ飲み、メモ帳を開く。


まずは、あの帳簿の山を頭に入れなければ。

何が記録されていて、何が記録されていないのか。


数字を追う手が、自然と動き出す。

これだけは、誰にも奪えない。


——けれど翌朝、帳簿の最初のページを開いた瞬間、わたしの指が止まった。

数字が、合わない。


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