1話 妹とは恋愛できない
「……ん」
泥の中を這いずりまわるような、手足が上手く動かせない感覚。
「……ちゃん」
それを掬い上げるように、意識が徐々に覚醒していく。
目覚めてはいるが、瞼は鉛のように重く、中々俺の視界は開かない。
「お兄ちゃん、起きて」
ようやく開けた視界に映り込む、柔らかな表情を浮かべた制服姿の女性。
ベッドで寝ている俺を見下ろし、身体を揺すって起こしてくれる。
腰の辺りまで伸びた艶やかな黒髪の毛先が、俺の鼻頭に微かに触れ、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
ようやく目覚めた俺に満足したのか、ぱっちりとした大きな目を細めて太陽のような笑顔を見せてくれた。
「やっと起きた。早く起きないと学校遅刻しちゃうから、早く一緒に朝ごはん食べよ!」
「……あ、うん。ありがとう」
女性の名前は姫野 華。
窓から差し込む朝の光が、華のサラサラとした黒髪を輝かせ、より一層美しく見せた。
俺と付き合っている……いや、付き合っていたというべきなのかな?
いわゆる、彼女? 元彼女?
そんなあやふやな華の関係相手であるのが、俺、河野 結城。
合鍵をあげているので、それを使って俺の家に入ってきたんだろう。
まだ高校生の華だが、ときおり登校前にわざわざ立ち寄っては、朝食を作ってくれる。
華が食事の準備をするためにキッチンに向かおうと、くるりと軽快に踵を返したとき、制服のスカートが風を孕んでふわりと広がった。
一週間前の俺なら、このシチュエーションに狂喜乱舞して喜んでいただろう。
なにせ女子高生の彼女に朝起こしてもらうなんて、「それなんてエロゲ?」状態だ。
「お兄ちゃん、あんまり時間がないからパンとかで大丈夫?」
「もちろん。作ってくれてありがとう」
付き合っていたときと変わらぬ華のその態度に、未だ夢の中にいるのではと思ってしまう。
なんせ俺たちは先週別れたばかり。別れを切り出したのは俺なのだが、華はそれを拒否。
この場合って、いまだ交際を続けていると言えるのだろうか?
そんな付き合っているのか付き合っていないのか不思議な関係。
俺は身体を起こし、すぐ近くに置かれたローテーブルの前に座っていると、キッチンで朝食の準備をしている華から小言が飛んできた。
「お兄ちゃん、先に歯磨きと顔洗っておいでよ」
「……ふぁーい」
あくびを噛み殺しながら気の抜けた返事をした俺は、頭をかきながら洗面所に向かった。
大学の進学をきっかけに始めた一人暮らし。
一Kの室内は、一人では住むには十分で、二人でいると少し手狭な間取り。
洗面所に入ると、コップに入った赤と青の歯ブラシ。それは華と付き合っていたときに置かれたままにされた私物。
自分用の青い歯ブラシを手に取り、歯を磨いて軽く洗顔。
部屋に戻った俺は、もう一度ローテーブルの前に座り直したあと、キッチンで食事の準備をしてくれている華に視線を向ける。
……んー、なんて甘美な光景なんだろう。
制服のスカートから伸びたすらりとした長い脚。
新雪のような白い肌は、触れると壊れてしまうのではと思えるほど清廉さが感じられる。
あまりの美しさに、華自身が輝きを発しているように思えた。
情欲剥き出しの視線を無遠慮にぶつけていると、俺の視線に気付いたのか、華がこちらを見て口角を上げた。
「……エッチ」
そう呟いた華だが、その表情はどこか嬉しそうで、声は弾んでいるように聞こえる。
なにをやっているんだ俺は……。
別れを切り出したくせに、相手は華なのに。そんな邪な気持ちを彼女に向けるのはおかしい。
「お待たせー、ご飯できたよ」
ローテーブールの上に敷かれた二枚のランチャンマット。
その上に置かれた皿には、たまごロールパンとウィンナーが挟まれたホットドック。
「お兄ちゃん、食べよ食べよ! いただきます」
ローテーブルを挟んで向かいに座った華が、ピンク色の薄い唇を大きく開け、たまごロールパンに齧りついた。
「うーん、美味しい!」
たまごロールパンに舌鼓を打ち、華はころころと表情を変える。
夢中になって食事をする姿を見ていると、こちらも幸せな気分になり、自然と俺の顔は緩んでいく。
「……あんまりジッと見られると、恥ずかしいんだけど」
俺の視線に、恥ずかしそうに顔を少し俯かせる華。
「幸せにそうに食べるなー、て思って」
「それなら私だってお兄ちゃんが食べてるところじっと見てやるんだから!」
華の視線がじっと俺に注がれる。
……う。確かにこんな風に見られていると食べづらい。
さきほどまでじっと見ていた手前、その行為に注意しにくい。
なので仕方なく、その視線を無視するようにホットドッグをもしゃもしゃと食べるが、見られているという恥ずかしさで味なんて全然わからない。
「あはは、お兄ちゃんの顔が真っ赤になってる。可愛いー」
「ごめんごめん、俺が悪かった。こんなに食べづらいとは」
「わかればよろしい」
白旗を上げた俺に満足したのか、華は再度、たまごロールパンを食べ始める。
俺もさっさと食べてしまうか。
このままゆっくり食べていると、華が学校に遅刻してしまう。
「お兄ちゃん、ほっぺたにケチャップ付いてるよ」
慌てて食べたからだろうか。華は自分の頬を指差し、ケチャップが付いていることを指摘してくれた。
「こっち?」
「逆ぎゃく。こっちだよ」
華が身を乗り出して、俺の頬に手を伸ばしてくる。
白魚のような指が頬に触れた。その指先に乗ったドロリとした赤い液体。
それを躊躇することなく、華は自らの口に放り込んだ。
「えへへ」
恥ずかしそうに頬を染め、照れ笑いを浮かべた。
「お兄ちゃん、子どもみたい」
「あはは、確かに。取ってくれてありがとう」
「食べ終わった後は、口元も拭いてあげよっか?」
華は口角を吊り上げ、いたずらっぽく笑う。
その表情と提案に、俺は苦笑しながらゆっくりと首を振った。
「魅力的な提案だけど、そこまでしてもらったら子どもじゃなくて赤ちゃんだよ」
ちなみに、さきほどから華は俺のことを「お兄ちゃん」と呼んでいるが、彼女に対して兄妹プレイを強要しているわけではない。
でも、呼称は強要をしている。
なぜならそれが正しいから。華は俺の「妹」だからだ。
俺にとって華は、彼女であり、「妹」でもある。
血の繋がった、血を分けた兄妹である。




