3話
魔王城の執務区は、久しぶりに“騒がしかった”。
怒号が飛び交っているわけではない。
剣が抜かれ、鎧が擦れ合う音が響いているわけでもない。
それでも、確実に騒がしい。
報告のために行き交う足音が途切れず、扉の開閉が断続的に続く。
魔力灯は最低限の明度に抑えられているはずなのに、光がやけに落ち着かない。
通路を抜けるたび、空気の流れが微かに変わるのが分かった。
執務区に漂っているのは、緊張ではない。
切迫とも、少し違う。
――判断待ちの空気だ。
誰かが決断するのを待っている。
だが、誰もそれを口に出さない。
ウィルは机に片手をついたまま、広げられた地図を見下ろしていた。
境界線。
人間領と魔族領を分かつ、あの曖昧で、だが確かに存在する線。
その周辺に、いつの間にか小さな印が増えている。
どれも目立たない。
色も薄く、記号も簡略化されている。
「衝突未確認」
「交戦断定不可」
「現地報告精査中」
付記された文字は、どれも判断を先送りするための言葉だ。
「……始まってはいない」
ウィルは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
声は低く、感情は含まれていない。
事実確認に近い独白だった。
始まってはいない。
だが、終わってもいない。
それどころか、戻ることすら許されない地点に、
いつの間にか立たされている。
「隊長」
背後から控えめに声がかかる。
振り返ると、連絡役の魔族が一礼していた。
装飾の少ない鎧。
だが胸元に刻まれた紋章は古く、魔王城に長く仕えてきた種族のものだ。
「北西の集落から、代表が到着しました」
ウィルは、目を閉じるでもなく、ため息もつかなかった。
「……またか」
短く、事実だけを受け取る。
「穏健派です。これまで戦争には参加していませんでしたが……」
「分かっている」
遮るように、だが乱暴ではなく言う。
「“参加していなかったからこそ”、今ここに来た」
連絡役は、否定しなかった。
むしろ、その言葉に安堵したように小さく頷く。
この数日で、同じ報告を何度聞いたか分からない。
魔族領の奥深くで独立して暮らしてきた集落。
強大な力を持ちながら、戦争とは距離を取ってきた種族。
魔王城の方針には従っていたが、直接的な関与を避けてきた者たち。
彼らが、今になって動き始めている。
魔族同士で争う気はない。
表現は違っても、意味は同じだった。
――守ってほしい。
それは懇願ではない。
要求でもない。
判断を、預けに来たのだ。
「通せ」
ウィルは、視線を地図から外さずに命じた。
連絡役が一礼し、部屋を出ていく。
入れ替わるように、通路の奥から聞き慣れた足音が近づいた。
「増えてるわね」
アリエルだった。
いつもなら、もう少し軽い調子で入ってくる。
だが今日は違う。
尾の動きは抑えられ、表情も冗談を許さない。
「ああ」
ウィルは短く応じる。
「しかも、みんな強い」
それは誇張ではない。
彼女の視線の動きが、それを物語っている。
「自分たちの集落だけなら守れる力はある。でも、“戦争”になったら別――そういう顔してる」
戦争という言葉を、誰も軽く扱えなくなっている。
「戦争になる前に、動いてる」
ウィルは地図から目を離し、アリエルを見る。
「正しい判断だ」
「……それ、慰め?」
「評価だ」
即答だった。
アリエルは一瞬だけ言葉を失い、やがて肩をすくめる。
「ほんと、こういう時だけ理性的よね、みんな」
理性的だからこそ、危険を察知する。
理性的だからこそ、選択肢を残そうとする。
「人間側は?」
アリエルが話題を切り替える。
「まだ“侵攻”とは言っていない」
ウィルは淡々と答える。
「キメラによる被害、境界付近の不安定化。
防衛行動の延長――そういう建前だ」
「でも、兵は動いてる」
「動いている」
否定しない。
「彼らにとっては、“正当防衛の準備”だ」
アリエルは舌打ちしかけて、途中で止めた。
「……最悪のパターンね」
「最も現実的な、だ」
その時、再び扉が開いた。
入ってきたのは、見慣れない魔族だった。
背は低いが、魔力の密度が異様に高い。
戦装束ではない。
だが、身体そのものが戦闘用に最適化されていると分かる。
「ウィルラーツ殿」
慎重な口調。
だが、恐れはない。
「我々は、戦を望んでいない」
聞き飽きた言葉だ。
だが、ウィルは遮らない。
「だが、境界が崩れれば、我々も無事では済まない」
「承知している」
ウィルは正面から応じた。
「魔王様は、動かれないと聞いた」
「今はな」
ウィルは正直に答える。
「だから、ここに来た」
魔族は一礼した。
「我々は、あなたの判断に従う」
その言葉の重さは、即座に理解できた。
それは庇護を求める宣言であり、同時に、独立を一部放棄する宣言でもある。
「……引き受ける」
ウィルは即答しなかった。
一拍置き、視線を巡らせてから言った。
「だが、条件がある」
魔族が顔を上げる。
「魔族同士で、先に刃を向けるな」
「過激派を?」
「挑発に乗るな」
ウィルは言葉を選ぶ。
「内側が割れた瞬間、外は止められなくなる」
魔族は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頷く。
「理解した」
それだけ言い、部屋を後にする。
アリエルは、その背中を見送りながら呟いた。
「……もう、“城”の仕事じゃないわね」
「最初からそうだった」
ウィルは答える。
「魔王城は国じゃない。連合体だ」
守るべきは、線ではない。
関係だ。
「魔王様には?」
「まだ、伝えない」
アリエルが眉を上げる。
「いいの?」
「伝える」
ウィルは言い直す。
「だが、“起きてから”だ」
魔王が動けば、世界が揺れる。
だからこそ、動かない。
だが、世界が先に揺れ始めている。
「……抱え込むわね」
「役目だ」
ウィルは、静かに地図を畳んだ。
境界は、まだ越えられていない。
戦争も、まだ始まっていない。
だが――
守るべきものは、もう増えている。
それを放り出す選択肢は、最初からなかった。




