1話
境界防衛第三隊の夜明けは、湿った霧とともに始まった。
夜明け前。
空はまだ群青色を保ち、太陽の気配は丘の向こうに沈んだままだ。
地面には低く霧が這い、草の先端に水滴が溜まっている。
吐く息は白く、鎧の内側まで冷えが入り込んでいた。
魔族領側、境界防衛第三線。
ここは「前線」でありながら、同時に「何も起こらないこと」を任務とする場所だ。
「……霧が濃いな」
兵士カイは、槍を地面に突き立てながら呟いた。
声を張ることはしない。
この場所では、静けさを乱す方が不安を呼ぶ。
「この時間帯は、いつもこんなもんだ」
隣に立つボルグが、肩をすくめる。
彼は盾役で、背は低いが体格がいい。
境界勤務は五度目だ。
「それより、昨日の通達……」
カイは言葉を切る。
――キメラ出現の可能性あり。
――単独、もしくは複数。
――魔獣ではない。
通達は簡潔だった。
余計な説明はなく、判断材料だけが並べられている。
「正直、眉唾だと思ってた」
カイは視線を霧の向こうへ向けた。
「失われた技術だろ?
旧戦争期に破棄されたって」
「記録上はな」
ボルグは否定も肯定もしない。
「だが、“存在した”のは事実だ。
だったら、“残ってる”可能性もある」
その言い方が、妙に現実的だった。
境界では、理屈よりも事実が優先される。
過去に一度でも起きたことは、再び起きうる。
見張り塔の上では、交代要員が双眼鏡を構え、
結界の数値を定期的に確認している。
魔力灯は最低出力。
過剰な威圧は、人間側を刺激する。
「……静かすぎる」
カイの言葉に、ボルグは即座に反応しなかった。
否定しなかったのは、同じ感覚を覚えていたからだ。
境界という場所は、常に「何か」がある。
鳥の声、獣の気配、風の流れ。
それらが消えた時こそ、異常だった。
霧が、わずかに揺れた。
最初は風かと思った。
だが、次の瞬間、地面が震えた。
微弱だが、確実な振動。
不規則で、重い。
「……来るぞ」
カイが呟いた直後、見張り塔から警告が鳴った。
「――接触反応あり!
大型生命体、複合反応!」
その声が響いた瞬間、霧の奥から影が現れた。
異様な輪郭。
獣の胴体に、鳥の翼。
首は二つあり、それぞれが別の方向を睨んでいる。
キメラ。
報告書で見た図と一致する。
だが、実物は想像以上に大きく、動きに迷いがない。
「迎撃準備!」
隊長の号令が飛ぶ。
魔力弾の詠唱が始まり、投槍が構えられる。
キメラは突進した。
魔力弾が命中し、片方の翼が裂ける。
だが、止まらない。
「効いてねぇ!」
「魔獣じゃない、動きが違う!」
キメラは地面を蹴り、再び跳躍した。
その瞬間、翼が広がる。
「――跳ぶな!」
誰かの叫び。
だが、間に合わなかった。
キメラは宙を裂き、境界線を越えた。
◇
同時刻、人間領側――
国境防衛第七隊。
こちらも夜明け前だった。
霧は同様に濃く、視界は悪い。
だが、緊張の質は違う。
「……来るぞ」
人間兵士ロルフは、矢を番えながら呟いた。
彼らにはすでに情報が回っている。
――魔族領側で、キメラが確認された。
――魔族が旧戦争技術を再利用している可能性あり。
「本気で、あんなもん使う気かよ……」
隣の兵が、吐き捨てるように言う。
霧の向こうで、影が跳んだ。
「――飛んだ!?」
次の瞬間、警告と同時に衝撃が走る。
キメラが着地する。
境界線の内側、人間領だ。
「魔族が越境させた!」
誰かが叫ぶ。
即座に矢と魔術が放たれる。
連携の取れた一斉射。
防衛訓練通りの動きだった。
だが――
「待て! あれ……」
ロルフの視線が揺れた。
キメラが、魔族兵に噛みついた。
盾役の魔族を叩き潰し、槍兵を爪で引き裂く。
「……敵味方、関係ない?」
混乱が走る。
だが、次の瞬間、キメラがこちらを向いた。
判断は、一瞬で下された。
「関係ない! 止めろ!」
キメラは制御されていない。
だが、それは――
「だからこそ、使ったんだ……!」
ロルフの胸に、怒りが込み上げる。
魔族は制御できない化け物を、境界に放った。
それが魔族兵を襲おうと、結果として越境し、
人間を殺す以上――
「魔族の責任だ!」
矢が放たれ、魔術が炸裂する。
戦場は一気に混乱へ傾いた。
魔族と人間が、同じ化け物を相手にしながら、互いを敵と認識していく。
最終的に、キメラは討伐された。
だが、地面に残ったのは、
魔族と人間、双方の死体だった。
誰が先に攻めたのか。
誰が命令を出したのか。
そんな問いは、この場では意味を持たない。
「……やっぱりだ」
ロルフは、血に濡れた地面を見下ろしながら呟いた。
「魔族は、戦争を始めた」
◇
少し離れた高台。
霧の向こうで、火と魔力が揺れるのを見つめながら、
赤い髪の女は、静かに息を吐いた。
「……思ったより、早いわね」
ヘラーナは、杯を持っていない。
ただ、状況を“見ている”。
魔族も、人間も、同じように殺されている。
その事実が、人間側にどう映るか――
彼女は、よく分かっていた。
「制御できない?
ええ、そうでしょうね」
それは否定ではない。
「でも、“使った”のは誰か」
ヘラーナは、霧の中で小さく笑った。
命令は出していない。
越境もしていない。
自分は、動いていない。
ただ、“境界の外に置いた”だけだ。
それをどう解釈するかは、見る側の問題だ。
「……さて」
ヘラーナは立ち上がる。
「これで、“何もしていない”は通らなくなった」
戦争は、まだ宣言されていない。
だが、引き返す理由も、確実に減っていた。




