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魔王と、その従者  作者: 喜哀楽
開戦と思惑
20/22

1話

境界防衛第三隊の夜明けは、湿った霧とともに始まった。


夜明け前。

空はまだ群青色を保ち、太陽の気配は丘の向こうに沈んだままだ。

地面には低く霧が這い、草の先端に水滴が溜まっている。

吐く息は白く、鎧の内側まで冷えが入り込んでいた。


魔族領側、境界防衛第三線。

ここは「前線」でありながら、同時に「何も起こらないこと」を任務とする場所だ。


「……霧が濃いな」


兵士カイは、槍を地面に突き立てながら呟いた。

声を張ることはしない。

この場所では、静けさを乱す方が不安を呼ぶ。


「この時間帯は、いつもこんなもんだ」


隣に立つボルグが、肩をすくめる。

彼は盾役で、背は低いが体格がいい。

境界勤務は五度目だ。


「それより、昨日の通達……」


カイは言葉を切る。


――キメラ出現の可能性あり。

――単独、もしくは複数。

――魔獣ではない。


通達は簡潔だった。

余計な説明はなく、判断材料だけが並べられている。


「正直、眉唾だと思ってた」


カイは視線を霧の向こうへ向けた。


「失われた技術だろ?

 旧戦争期に破棄されたって」


「記録上はな」


ボルグは否定も肯定もしない。


「だが、“存在した”のは事実だ。

 だったら、“残ってる”可能性もある」


その言い方が、妙に現実的だった。


境界では、理屈よりも事実が優先される。

過去に一度でも起きたことは、再び起きうる。


見張り塔の上では、交代要員が双眼鏡を構え、

結界の数値を定期的に確認している。

魔力灯は最低出力。

過剰な威圧は、人間側を刺激する。


「……静かすぎる」


カイの言葉に、ボルグは即座に反応しなかった。

否定しなかったのは、同じ感覚を覚えていたからだ。


境界という場所は、常に「何か」がある。

鳥の声、獣の気配、風の流れ。

それらが消えた時こそ、異常だった。


霧が、わずかに揺れた。


最初は風かと思った。

だが、次の瞬間、地面が震えた。


微弱だが、確実な振動。

不規則で、重い。


「……来るぞ」


カイが呟いた直後、見張り塔から警告が鳴った。


「――接触反応あり!

 大型生命体、複合反応!」


その声が響いた瞬間、霧の奥から影が現れた。


異様な輪郭。

獣の胴体に、鳥の翼。

首は二つあり、それぞれが別の方向を睨んでいる。


キメラ。


報告書で見た図と一致する。

だが、実物は想像以上に大きく、動きに迷いがない。


「迎撃準備!」


隊長の号令が飛ぶ。

魔力弾の詠唱が始まり、投槍が構えられる。


キメラは突進した。

魔力弾が命中し、片方の翼が裂ける。


だが、止まらない。


「効いてねぇ!」


「魔獣じゃない、動きが違う!」


キメラは地面を蹴り、再び跳躍した。

その瞬間、翼が広がる。


「――跳ぶな!」


誰かの叫び。


だが、間に合わなかった。


キメラは宙を裂き、境界線を越えた。





同時刻、人間領側――

国境防衛第七隊。


こちらも夜明け前だった。

霧は同様に濃く、視界は悪い。

だが、緊張の質は違う。


「……来るぞ」


人間兵士ロルフは、矢を番えながら呟いた。

彼らにはすでに情報が回っている。


――魔族領側で、キメラが確認された。

――魔族が旧戦争技術を再利用している可能性あり。


「本気で、あんなもん使う気かよ……」


隣の兵が、吐き捨てるように言う。


霧の向こうで、影が跳んだ。


「――飛んだ!?」


次の瞬間、警告と同時に衝撃が走る。


キメラが着地する。

境界線の内側、人間領だ。


「魔族が越境させた!」


誰かが叫ぶ。


即座に矢と魔術が放たれる。

連携の取れた一斉射。

防衛訓練通りの動きだった。


だが――


「待て! あれ……」


ロルフの視線が揺れた。


キメラが、魔族兵に噛みついた。


盾役の魔族を叩き潰し、槍兵を爪で引き裂く。


「……敵味方、関係ない?」


混乱が走る。


だが、次の瞬間、キメラがこちらを向いた。


判断は、一瞬で下された。


「関係ない! 止めろ!」


キメラは制御されていない。

だが、それは――


「だからこそ、使ったんだ……!」


ロルフの胸に、怒りが込み上げる。


魔族は制御できない化け物を、境界に放った。


それが魔族兵を襲おうと、結果として越境し、

人間を殺す以上――


「魔族の責任だ!」


矢が放たれ、魔術が炸裂する。


戦場は一気に混乱へ傾いた。


魔族と人間が、同じ化け物を相手にしながら、互いを敵と認識していく。


最終的に、キメラは討伐された。


だが、地面に残ったのは、

魔族と人間、双方の死体だった。


誰が先に攻めたのか。

誰が命令を出したのか。


そんな問いは、この場では意味を持たない。


「……やっぱりだ」


ロルフは、血に濡れた地面を見下ろしながら呟いた。


「魔族は、戦争を始めた」





少し離れた高台。


霧の向こうで、火と魔力が揺れるのを見つめながら、

赤い髪の女は、静かに息を吐いた。


「……思ったより、早いわね」


ヘラーナは、杯を持っていない。

ただ、状況を“見ている”。


魔族も、人間も、同じように殺されている。


その事実が、人間側にどう映るか――


彼女は、よく分かっていた。


「制御できない?

 ええ、そうでしょうね」


それは否定ではない。


「でも、“使った”のは誰か」


ヘラーナは、霧の中で小さく笑った。


命令は出していない。

越境もしていない。

自分は、動いていない。


ただ、“境界の外に置いた”だけだ。


それをどう解釈するかは、見る側の問題だ。


「……さて」


ヘラーナは立ち上がる。


「これで、“何もしていない”は通らなくなった」


戦争は、まだ宣言されていない。


だが、引き返す理由も、確実に減っていた。

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