1話
魔王城は、単なる城ではない。
黒石と黒鉄で組まれた巨大な城塞の内側に、軍も行政も生活も飲み込み、
その外側へ向けて、城下の街が広がっている。
単一国家というより、魔王城を核にした多種族の連合体。
その中心に、最終決裁権だけを持つ魔王が座っている。
「魔王が動かない」のではない。
動けば、それ自体が世界を傾ける。
だから日常の統治は、魔王直属の権力機関――四天王が担う。
種族代表ではない。
軍であり、行政であり、治安であり、外交窓口だ。
そして今、その「治安」のために現場を見に行く用事があった。
ウィル・ラーツは外套を羽織り、執務区を出た。
中枢区から城下へ抜ける通路は、天井が高い。
大型種や飛行種がぶつからないよう、最初から高さを優先して作られている。
照明は火ではなく魔力灯で、燐光が黒い石壁の継ぎ目を淡くなぞっていた。
階段を降りると、匂いが変わる。
金属の焼けた匂い。
薬品の匂い。
獣脂と血の匂い。
そこに、酒と香草の甘さが混じる。
城下区は混在だ。
人型も、人型でない者も、同じ道を行き交う。
翼を持つ者は上空の通路を渡り、地を歩く者は黒石の舗装路を進む。
建築様式も統一されていない。
石壁に寄り添うように木造が継ぎ足され、
半地下街に穴居の区画がつながり、
塔群が高所を好む種族の通り道になっている。
秩序はある。
だが、人間の都市のように整えられた秩序ではない。
必要に合わせて増え、譲り合い、折り合い、
結果として形になっただけだ。
専門区画の一角を通ると、低く唸るような音が腹に響いた。
魔導炉区だ。
排熱路が地下に張り巡らされているため、地面が微かに暖かい。
黒鉄の柵越しに、炉の口から漏れる光が瞬いた。
さらに進めば、薬草と消毒の匂いが強くなる。
医療・研究区――ジャックの管轄だ。
研究棟の扉が開くたび、金属器具の触れ合う音が外へ漏れる。
兵站・倉庫区の角では、酒樽の搬入を巡って口論が起きていた。
誰が責任者かは、見なくても分かる。
アリエルの「影響」が強い区画だ。
ウィルは視線だけで合図を送る。
兵が空気を読んで動き、口論はそれ以上膨らまなかった。
過激派がどう、という話ではない。
日常の摩擦だ。
魔王城は連合体で、四天王はそれを回す。
回っている限り、血を流す理由もない。
ただし――回っているように見えるのは、
負荷がまだ表に出ていないだけだ。
外縁区へ向かう。
監視塔と検問所が増え、駐屯地の土の匂いが濃くなる。
ここから先は、街の「外」ではない。
街の「縁」だ。
難民や多種族の一時保護区が設けられている。
保護はする。だが無条件ではない。
危険度、敵対関係、生活適応性を精査する。
最初は外縁で留め、問題がなければ城下へ移す。
それが基本方針だった。
今日の対象は、樹人族。
報告によれば数は27名、さらに魔力の消耗が激しい者がいると言っていた。
外縁区の入口で、護衛の兵が一礼する。
「隊長。樹人族は指定区画に収容済みです。争いはありません」
「代表者は?」
「名乗りはリエナ。年長者です。会話は可能です」
「案内しろ」
兵が先導し、柵の内側へ入る。
区画は、意図的に開けてあった。
樹人族は根を持つ。
閉じた部屋より、空と土と水が必要になる。
黒石の地面は一部だけ剥がされ、土が露出している。
浅い水路が引かれ、地下の水脈から冷たい水が流れ込んでいた。
樹人族の女たちは、静かにそこにいた。
上半身は人間の女性と変わらない。
肌は淡く、髪は葉脈のような筋を含んで揺れる。
腰から下は根と幹が絡み合う木質で形作られ、
動くたびに葉が擦れて、かすかな音を立てた。
疲労は隠せない。
根の一部が乾き、色を落としている者もいる。
それでも、怯えはなかった。
ウィルが歩み寄ると、一人が前へ出た。
背は高くないが、立ち姿に迷いがない。
「あなたが……魔王城の、責任ある方ですか」
「私はウィルラーツ、四天王の一人だ。状況を確認しに来た」
「リエナと申します。私たちの代表として話します」
ウィルは頷いた。
「怪我は?」
「傷はありません。ただ、根の乾きがいくつか。移動が長く、水が足りませんでした」
「水路は増やせる。日照は――ここが限界だが、遮蔽物は減らす」
リエナは一瞬、目を伏せた。
「……ありがとうございます」
礼は言う。
だが、それで終わらない表情だった。
「質問しても、よろしいでしょうか」
「答えられる範囲でなら」
「……また、争いになりますか」
ウィルは、すぐには答えなかった。
「我々としては望んでいない。魔王城の方針も同じだ」
「では、なぜ……」
「こちらも一枚岩じゃない」
穏やかな者も、戦を望む者もいる。
制度上の派閥ではない。
だからこそ、曖昧さが摩擦になる。
「……止められないのですか」
「命令違反、越境、無許可攻撃は制裁できる。
だが“許容範囲での挑発”はな......」
ウィルは視線を外へ向けた。
ここに彼女たちがいるのは偶然ではない。
原因の一端は、こちらにある。
情でも、善意でもない。
連合体としての必然だった。
「……あなたは、怖くないのですか」
「怖いから、現場がいる」
短く、だが偽りのない言葉だった。
「魔王様が動けば、世界が揺れる。だから、我々がいる。」
区画を離れかけた時、視界の端で尾が揺れた。
柵の外、荷運びの魔族に混じって、アリエルが立っている。
樹人族の様子を、先に見ていたのだろう。
腕を組み、表情は珍しく軽くない。
「……まーた、重たい顔してる」
からかうような口調だったが、声音は落ち着いていた。
「全部、聞いてた?」
ウィルの問いに、アリエルは肩をすくめる。
「見てただけよ。聞くまでもないでしょ」
「追い出された理由も、受け入れた理由も」
ウィルは答えなかった。
否定もしない。
「人間が備え始めたのは、こっちの在り方のせい。それを選んだのは、魔王様じゃないけど――」
アリエルは、言葉を切る。
「責任がゼロってわけでもない」
「……ああ」
短い返事だった。
「過激派は?」
「不満は出るわ。戦えない相手が増えた、ってね。でも、越えさせないでしょ。あなたが」
ウィルは視線を落とした。
「越えさせない」
そのために、判断を置く。
どこまで許し、どこから制裁するか。
「……制裁の基準が増えるな」
「増えるわね」
アリエルは、少しだけ真面目な顔をした。
「でも、減るよりマシでしょ。基準がなくなった時は、もう誰も止められない」
ウィルは一拍置いて、息を吐いた。
「……忙しくなる」
「ええ」
今度は、いつもの笑みだった。
「でも、嫌いじゃないでしょ?」
ウィルは肩をすくめる。
「これも仕事だからな」
魔族領は、受け入れることで形を保っている。
そして受け入れた分だけ、守るべき者も増える。
世界はまだ動いていない。
だが、動き出した時に「止められなかった」と言わないために、ウィルは今日も現場に立つ。




