幕間1 全てを思い出したネフェリアと黒幕
地下牢の冷たい石床に倒れ込んだ瞬間、私の意識は闇に沈んだ。
どれくらい時間が経ったのだろう。
ゆっくりと、私は目を開けた。
「……ここは……」
視界に映るのは、鉄格子と石壁。冷たい空気が肌を刺し、湿った匂いが鼻をつく。
(……地下牢……私は……)
体を起こそうとして、手首に鉄の重さを感じた。
拘束具だ。魔力を封じるための、冷たく重い鉄の輪。
そして――
「……あ……」
記憶が、一気に蘇った。
卒業パーティー。レオニス様の冷たい声。婚約破棄の宣告。
そして――
「……私が……暴走……」
頭の中に、鮮明な映像が流れ込んでくる。
封じられていた記憶が、次々と解放されていく。まるで、壊れたダムから水が溢れ出すように。
***
夜の地下図書室。
一人で本を読んでいた私の前に、男が現れた。
執事服のような黒い正装。黒髪。穏やかで優しそうな表情。
「こんな夜遅くまで……お一人ですか?」
私は振り向いた。
「……あなたは……?」
「私はこの城で働く者です。夜の見回りをしておりまして」
城で働く者――そう言われて、私は疑わなかった。
この城には、たくさんの使用人がいる。全員の顔を覚えているわけじゃない。
それに――この時の私は、疲れ切っていた。
学園では、水魔法しか使えないと思われている。
他の生徒たちから見下され、バカにされている。
レオニス様は公務や学業で忙しく、私にかまってくれない。
孤独だった。
誰も――私を理解してくれなかった。
「……そうですか……」
私は、本に視線を戻そうとした。でも――
「あなたは……誰にも理解されず、孤独に耐えている」
男の言葉に、私は動きを止めた。
「……え……?」
「学園では、水魔法しか使えないと思われている。他の生徒たちから見下され、バカにされている」
「レオニス様は公務や学業で忙しく、あなたにかまってくれない」
全て、図星だった。
私は――誰にも言っていないのに。どうして、この人は知っているの?
「……あなた……どうして……」
「私は……ただ、あなたのことを理解したいだけです」
男は、優しく微笑んだ。その笑顔は――まるで、全てを受け入れてくれるような、温かい笑顔。
「あなたは……本当は、もっと強い力を持っているのでしょう?」
「……っ」
私の身体が、固まった。
そして、あの言葉。
「闇魔法……ですね」
私は息を呑んだ。
(……なぜ……あなたが……)
闇魔法――絶対に隠さなければならない、災厄の魔法。もしバレたら、処刑される。
お母様にも、絶対に隠せと言われている。
なのに――どうして、この人は知っているの?
「安心してください。私は誰にも言いませんよ。むしろ……私はあなたの味方です」
味方。
初めて言われた言葉。
私には――味方なんていなかった。レオニス様は冷たい。生徒たちは私を見下す。お母様は厳しい。
誰も――私を理解してくれなかった。
「あなたは間違っていない。闇魔法を持っているからといって、悪いわけではない。それを隠さなければならない世界が……間違っているんです」
涙が溢れそうになった。
(……初めて……そんなこと言ってくれる人が……)
「でもね――」
男は、わずかに声を低くした。
「あなたは……本当にこのままでいいんですか?」
「……え……?」
「誰にも理解されず、ずっと孤独に耐えて……本当の自分を隠し続けて……」
男の言葉が、胸に刺さる。
「……っ……」
「でも、もう限界なんじゃないですか?」
図星だった。
私は――もう限界だった。完璧な姉を演じて、闇魔法を隠して、婚約者として振る舞って。
でも――もう無理だった。
「……そう……かもしれません……」
私は、小さく呟いた。
「もう……限界……かもしれません……」
「そうですよね」
男は、優しく微笑んだ。
「では――あなたに、本当の力を見せてあげましょう」
「……本当の……力……?」
「ええ。闇魔法の……本当の力です」
男は、右手をかざした。
そして――
黒い炎が、現れた。
「……っ!?」
私は、息を呑んだ。
黒い炎――まるで、闇そのもののような、深く、暗く、美しい炎。
それは、男の手のひらの上で、ゆらゆらと揺れていた。
「……すごい……」
私は、思わず呟いた。
こんな美しい闇魔法を――見たことがない。
「これが……闇魔法の本当の力です」
男の声は、優しかった。
「あなたも……いつか、これくらいの力を持てるかもしれませんよ」
「……本当に……?」
「ええ。でも――そのためには、まず……」
男は、黒い炎を消した。
「……あ……」
突然の暗闇に、私は寂しさを感じた。
「まず……もう我慢しなくていいんです」
男の声が、優しく響く。
「……我慢……?」
「ええ。あなたは、ずっと我慢してきたでしょう?」
図星だった。
「完璧な姉を演じて……誰にも弱音を吐かず……いつも笑顔で……」
「でも、もう我慢しなくていいんです」
「……っ……」
涙が溢れそうになる。
「あなたを見下した人たちに……仕返ししてあげればいいんです」
その言葉が――心に染み込んでくる。
「……仕返し……」
「ええ。あなたを傷つけた人たちに……同じ痛みを味わわせてあげればいい」
男の声は、優しかった。まるで、私を解放してくれるような。
「もう……我慢しなくていいんです」
「もう……完璧な姉を演じなくていいんです」
「あなたは……あなたのままでいいんです」
その言葉が――
「……ああ……」
何かが――心の奥底から、溢れ出してきた。
怒り。憎しみ。嫉妬。絶望。
全て――ずっと押し込めていた、本当の気持ち。
(……そうだ……)
私は――ずっと我慢してきた。
完璧な姉を演じて。誰にも弱音を吐かず。いつも笑顔で。
でも――もう嫌だ。
(……なぜ……私ばかり……)
レオニス様は冷たい。生徒たちは私を見下す。お母様は私を道具としか見ていない。
(……誰も……私を見てくれない……)
そして――何かが――変わった。
心の奥底にあった、優しさが――消えていく。
代わりに――冷たさが、広がっていく。
「……ふふ……」
私は、笑った。
不思議だった。さっきまでの苦しさが――嘘のように消えていた。
「……どうですか?」
男が、優しく尋ねる。
「……楽に……なりました……」
私は、答えた。
本当だった。心が――軽くなっていた。
「それは良かった」
男は、微笑んだ。
「これからは……もっと自由に生きてください」
「……はい……」
私は、頷いた。
そして――男は、影の中へ消えていった。
私は――一人、地下図書室に残された。
でも――もう孤独じゃなかった。
心が――軽かったから。
***
――それから、学園での日々が変わった。
私は――生徒たちを見下すようになった。
「水魔法しか使えないくせに、私に逆らうの?」
そう言って、笑った。
いじめをした。
闇魔法を使っているところを、わざと見せた。
「これが……私の力よ」
そう言って、生徒たちを脅した。
全て、自分の意志だと思っていた。
(……これが……本当の私……)
そう思っていた。
でも――違った。
全て――あの男に操られていた。
私は――洗脳されていたんだ。
あの男に。
でも――私は気づかなかった。
自分が洗脳されていることに。
ただ――心が軽くなって、自由になったと思っていた。
そして――いじめを続けた。
闇魔法を使い続けた。
全て――自分の意志だと思って。
でも――
婚約破棄を宣告された時――
「……だったら、全部消えて」
私は、暴走した。
もう、全てがどうでもよくなった。
レオニス様も、生徒たちも、学園も――全部、消えてしまえばいい。
そう思った。
***
「……全部……思い出した……」
地下牢の中で、私は呟いた。
あの男――私を洗脳した。
黒い炎を見せて。
私の心の弱さを利用して。
そして――私は変わってしまった。
妹以外には――冷たくなった。
生徒たちをいじめた。闇魔法を使った。
全て――洗脳のせいだった。
でも――私は気づかなかった。
自分が操られていることに。
「……っ……ああああ……」
胸が張り裂けそうだった。思い出せば思い出すほど、恐怖が押し寄せてくる。
私は……何をしたんだ。大切な人たちを、どれだけ傷つけたんだ。
そして、学園での日々も思い出す。
水魔法しか使えないと思われ、見下された。
「公爵令嬢なのに、水魔法しか使えないなんて」
「王子の婚約者なのに、弱いわね」
バカにされた。見下された。
レオニス様は、いつも忙しく、私にかまってくれなかった。
政略結婚。愛情なんてない。そう、分かっていた。
でも――
(……辛かった……)
孤独だった。誰も理解してくれなかった。
そして、あの男が現れた。
「私はあなたの味方です」
その言葉に、すがってしまった。
黒い炎を――見てしまった。
そして、お母様。お母様の命令で、闇魔法を隠してきた。
「絶対に隠しなさい」
「バレたら、あなたは処刑される」
怖かった。でも、お母様の言うことは絶対だった。お母様に逆らえば――何をされるか分からない。
そして――16歳の時。
私が庭で闇魔法を練習しているところを、お母様に見られた。
「……ネフェリア……!」
お母様の冷たい声。
「……お、お母様……」
「闇魔法を……使っていたのね……」
お母様の赤い瞳が、私を睨む。
「……っ」
私は、何も言えなかった。
そして、お母様は――
「アミアに催眠薬を飲ませなさい」
「……え……?」
「あの子は、あなたが14歳の時に闇魔法で助けたことを覚えている。その記憶を消すのよ」
「そんな……!」
「やりなさい。さもないと、あなたは処刑される」
お母様の声は、冷たかった。まるで、私を道具としか見ていないような。
そして――私は、アミアに催眠薬を飲ませた。
「……アミア……」
妹の顔が浮かぶ。私が催眠薬を飲ませた。お母様の命令で。
「闇魔法がバレたのは、お前のせいだ」
お母様の冷たい言葉。
(……私の……せい……)
全て、私のせいだ。アミアを巻き込んだのも。洗脳されたのも。暴走したのも。
全て――
「……私が……弱かったから……」
心が弱かったから――あの男の誘惑に、負けてしまった。
そして――性格が変わってしまった。
でも――
「……アミアだけは……」
妹への思いだけは――消えなかった。
洗脳されても。性格が変わっても。
アミアへの愛だけは――ずっと、心の奥底に残っていた。
だから――アミアの前では、完璧な姉を演じ続けた。
「……アミア……」
妹の顔が浮かぶ。優しく、純粋で、私を信じてくれていた。
その子に、私は何をした。催眠薬を飲ませ、記憶を奪った。そして、完璧な姉を演じ続けた。
嘘を。ずっと。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙が溢れて止まらなかった。冷たい石床に額をつけ、私は声を殺して泣いた。
もう、取り返しがつかない。
婚約は破棄され、私は犯罪者として地下牢に閉じ込められ、きっと――処刑されるのだろう。
でも、それは仕方がない。私がやったことの報いだ。
(……せめて……アミアに……)
せめて、真実を伝えたい。私が洗脳されていたこと。
本当は、あの子のことを愛していたこと。14歳の時、闇魔法で助けたこと。16歳の時、お母様の命令で記憶を奪ったこと。
全て――全て、話したい。
そして――
(……ごめんなさい……)
謝りたい。別れを告げたい。それだけが、私の最後の願いだった。
「アミア……会いに来てくれるかな……」
冷たい闇の中で、私はただ祈るしかなかった。
***
――その時。
「やあ、ネフェリア・リィエル」
聞き覚えのある声。
私は顔を上げた。鉄格子の向こうに、男が立っていた。
黒髪、執事服のような正装。穏やかな表情。
しかし――
「……あなた……!」
地下図書室で会った男。私に黒い炎を見せた――
「覚えていてくれて光栄だよ」
男は不敵に微笑む。その笑顔は――さっきまでの優しい笑顔とは違う。冷たく、残酷な笑顔。
私は立ち上がり、鉄格子に近づく。
「あなたが……私に……黒い炎を……!」
「ああ、そうだよ。君を洗脳したのは僕さ」
あっさりと認める。まるで、罪悪感など微塵もないように。
私は拳を握りしめる。
「……なぜ……なぜ私を……!」
「なぜ? それは簡単なことさ」
男は肩をすくめる。
「君は……レオニス王子の婚約者だったからね」
「……婚約者……?」
「そう。君なら、レオニスに近づける。君を使えば、レオニスを殺せると思ったんだよ」
私は息を呑む。
「レオニス様を……殺す……?」
「ああ。僕は帝国から雇われた何でも屋でね。依頼内容は『レオニス王子の暗殺』だった」
男は淡々と語る。まるで、天気の話をするかのように。
「でも、僕には制約があってね。相手が悪いという理由がないと、殺せないんだ。王族をね」
「……っ」
「だから、君に洗脳魔法をかけて、心の弱さにつけ込んだ。君は誘惑に負けた。そして――性格が変わった」
男は楽しそうに笑う。
「あの黒い炎? あれは闇魔法じゃないよ。洗脳魔法さ」
「……嘘……」
「君は気づいていなかったね。自分が洗脳されていることに」
「……っ……」
「でも、残念ながら失敗したね。レオニスは氷魔法で防御した。君の闇魔法では、あの防壁は破れなかった」
男は楽しそうに笑う。
「まあ、計画通りにはいかなかったけど……それはそれで面白かったよ」
「……あなたは……!」
私は怒りに震える。しかし、男は気にした様子もなく続ける。
「それでね、君の義妹――アミア・ファミルのことなんだけど」
「……アミア……?」
私の表情が変わる。
「彼女は光魔法使いだろう?」
「……っ」
「光魔法使いはね、稀に治癒魔法を使えるようになることがあるんだ。それも、とんでもなく強力な治癒魔法をね」
男は冷たく笑う。
「僕としては、そういう可能性のある芽は早めに摘んでおきたいんだよ。邪魔だからね」
「まさか……アミアを……!」
「ああ、殺すつもりさ」
あっさりと。まるで、虫を潰すかのように。
「やめて……! アミアは何も悪くない……! お願い……アミアだけは……!」
私は鉄格子にすがりつく。拘束具で手首が痛むけど、そんなこと気にしていられない。
「悪くない? そうかもしれないね。でも、僕にとっては邪魔なんだよ」
男は肩をすくめる。
「それに……」
男は楽しそうに笑う。
「君の記憶を見させてもらったよ。アミアが13歳の時のことも、11歳の時のことも、全部ね」
「……っ!」
「光魔法使いは面白い特性を持っているんだ。『光は闇を照らす』――闇魔法が効かない。洗脳魔法も、催眠魔法もね」
男は不敵に笑う。
「だから、闇魔法では殺せない。でも、氷魔法なら殺せる」
「やめて……!」
「それに……君がこんなに必死になるなら、殺し甲斐があるってものさ」
「……っ……あなたは……悪魔だ……!」
「悪魔? いいね、その呼び方。気に入ったよ」
男は楽しそうに笑う。
そして――
「さて、そろそろお別れの時間だ」
男がゆっくりと手を前に出す。
「……何を……?」
「少し、眠ってもらうよ。そして、この会話のことは忘れてもらう」
「……まさか……また洗脳を……!」
「いや、洗脳じゃない。催眠魔法さ。一時的に記憶を封じるだけだよ」
男が近づいてくる。鉄格子の隙間から、手を伸ばす。
「やめて……!」
私は抵抗しようとするが、拘束具で魔力が封じられている。何もできない。
そして――男の手が、私の額に触れた。
「安心して。すぐに思い出せるようにしてあげるから」
男は優しく微笑む。でも――その笑顔は、優しさなど微塵もない。
「明日の朝、君の妹が会いに来るだろう。そして、君は彼女に全てを話す。洗脳されたこと、記憶を奪ったこと、全てをね」
「……っ」
「そして、君が処刑場へ完全に連れて行かれた時――その瞬間にね――この会話のことを思い出すんだ」
男は不敵に笑う。
「『アミアを殺す』ってね」
私の顔が青ざめる。
「でも、その時にはもう遅い。君は処刑場にいて、アミアは地下牢にいる。君は何もできない」
「そしたら、かなり絶望するだろう? 妹を守れなかった無力感。全てを話した後に、彼女が殺されると知る絶望。想像しただけで、楽しくなるよ」
「……あなた……本当に……悪魔だ……!」
「ありがとう。褒め言葉として受け取っておくよ」
男の手から、淡い光が溢れ出す。
「さあ、ゆっくり眠りな……ネフェリア・リィエル」
「……やめ……て……」
私の意識が、ゆっくりと遠のいていく。抵抗したい――でも、身体が動かない。
そして――視界が暗くなり、意識を失った。
***
ネフェリアが崩れ落ちるのを見て、男は満足げに微笑む。
「さて、これで準備は整ったかな」
男は影の中へ消えようとして――ふと立ち止まる。
「そういえば……」
男は楽しそうに笑う。
「君の妹、アミア・ファミルだけどね」
ネフェリアは意識を失っているが、男は語り続ける。
「最初は、すぐに殺すつもりだったんだよ。光魔法使いだからね。治癒魔法の可能性を潰すために」
「でも、それじゃあ面白くないと思ってね」
男は不敵に笑う。
「だから、こうして君を洗脳して、暴走させて、処刑されるように仕組んだんだ」
「君が処刑される瞬間――君の妹さんはどんな顔をするかな? 泣くかな? 叫ぶかな? 絶望するかな?」
「ああ、楽しみだ。本当に楽しみだ」
「それに……」
男は肩をすくめる。
「アメリア・カーフェーンも始末しないとね。氷魔法使いだから、治癒魔法の心配はないけど……まあ、想定外だったけど、いいか」
「目撃者は少ない方がいい」
男は不敵に笑いながら、影の中へ消えていった。
***
目覚め
どれくらい時間が経ったのだろう。
私は目を開けた。
「……ん……」
体を起こす。
(……私……また眠って……?)
頭がぼんやりしている。
(……何か……夢を見ていたような……)
でも、思い出せない。ただ、胸の奥に嫌な予感だけが残っている。
「……アミア……」
妹の顔が浮かぶ。
(……早く……会いたい……)
(……全てを……話さなきゃ……)
私は膝を抱え、再び朝を待った。
心の奥底に、封じられた記憶を抱えたまま。
明日、アミアが来てくれることを。そして、全てを話せることを。
「……アミア……待ってる……」
長い、長い夜だった。




