第27話 平民の光魔法使い
ハーヴェー様が掲げる灯り用の魔石の青白い光がパチパチと音を立て、石造りの壁に長い影を落とす。
私たちは、地下図書室の隠し通路から続く、長く暗い階段を降りていた。
先頭を行くハーヴェー様、その後ろに少し足元の覚束ないミリアナさん。
そして、私とお姉様が手を繋いで続く。
空気はひんやりとしていて、どこか懐かしいような、古い土の匂いがした。
この先に、お母様がいた場所がある。そう思うだけで、胸が早鐘を打つ。
「……ハーヴェー様」
静寂を破るように、私は問いかけた。
ずっと気になっていたこと。
「どうして……お母様は、こんな隠された場所で訓練をしていたのですか?」
光魔法使いだったという母、アミィエル・レフィーナ。
彼女が魔法学園に通っていたのなら、堂々と学園の施設を使えばよかったはずだ。
わざわざ、こんな人目を忍ぶような場所を使う必要があったのだろうか。
ハーヴェー様は、歩みを止めずに背中で答えた。
「それは……彼女が『平民』だったからです」
「平民……!?」
私は、思わず驚きの声を上げた。
私の母が、貴族ではなく平民だったなんて。
(……そうだったんだわ。さっきの図書室で、ハーヴェー様がお母様のことをどれほど深く愛していたかを感じて、どうして二人は結ばれなかったのだろうって疑問に思っていたけれど……)
点と点が繋がり、私の胸の奥でストンと腑に落ちた。
次期大臣という国の重責を担う大貴族のハーヴェー様にとって、平民の娘との結婚は……どんなに愛していても、決して越えられない『身分』という絶対の壁だったのだ。
その言葉を聞いた瞬間、隣を歩いていたお姉様が、ハッとして小さく息を呑んだ。
「……平民と、由緒ある伯爵家……。アミア、あなたのお父様は、この国の厳しい身分制度の壁を乗り越えて、お母様との愛を貫かれたのね……」
お姉様は痛ましそうに目を伏せた。
「……あんなに高い壁を乗り越えて結ばれたのに……アミアがまだ一歳の時に、流行り病で亡くなってしまうなんて。ご夫婦として一緒にいられた時間は、ほんのわずかだったのね……」
あまりにも短く、残酷に引き裂かれた悲しい恋。
その痛みを自分のことのように憂い、お姉様は、先を歩くハーヴェー様たちに聞こえないほどの小さな声で、震えるように呟いた。
「……だから、やっぱりおかしいわ。それほどの覚悟で愛を貫いて、早すぎる別れに絶望したはずのお義父様が……いくら政略結婚とはいえ、突然別人のように冷酷になるなんて……」
「……いや、まさかお母様が何か……。いや、そんなわけあるはずがないわ……」
お姉様の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
先ほどの図書室で抱いた『突然人が変わるなんて不自然だ』という違和感。
それが、お父様とお母様の「身分違いの壁を越えるほどの深く強い愛」と「あまりにも短すぎた夫婦の時間」を知ったことで、さらに黒く膨れ上がってしまったのだ。
「大丈夫ですか? お姉様」
私は、お姉様の冷たくなった手をきゅっと握りしめて覗き込んだ。
「……ええ。大丈夫よ、アミア」
お姉様はハッとして、私を安心させるように無理に微笑んでみせた。けれど、その瞳の奥には、実の母を疑ってしまう自分への嫌悪と、得体の知れない恐怖が揺れていた。
(……二周目の今、お姉様はシャリアお母様がお父様に毒を盛って洗脳したという真実を、まだ何も知らない……)
聡明なお姉様が、過去の不自然さに気づいてお母様に疑念を抱くのは無理もないことだ。
けれど――私は、まだお姉様の心を壊したくなかった。
先日、自室で『作戦計画書』を書いたあの日。まだお母様の愛を疑っていなかったお姉様の純粋な笑顔を見て、私は誓ったのだ。優しいお姉様が傷つくことなく、真実を受け入れられる日が来るまで、私が支え続けると。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ハーヴェー様でさえ諦めるしかなかった、貴族社会における平民との結婚という途方もない絶壁。
アレトお父様は、貴族としての立場や周囲の激しい反対など全てを押し切ってでも、その壁をぶち壊し、お母様を生涯の伴侶として選んでくれたのだ。
(……お姉様の言う通りだわ。あんなに途方もない壁を壊して結ばれたのに、お父様とお母様が夫婦として一緒にいられた時間は、ほんのわずかだった)
(それなのに……お父様は心を壊されてしまった今でも、私が『レフィーナ』の姓を名乗ることだけは最後まで守り抜いてくれた。あんなに短く残酷に引き裂かれた恋だったのに、お父様の心には、まだお母様と私への愛が永遠のように残っているんだ……)
(……だから、いつか。私の『治癒魔法』が完全に目覚めて……お父様の脳を縛るあの忌まわしい毒を浄化し、救い出すことができたら)
(その時は、元に戻った優しいお父様に、直接聞いてみたい。ハーヴェー様にも越えられなかった身分違いの壁を越えて、お父様がお母様とどうやって出会い、あの短くも愛おしい時間の中で、どれほど深く愛し合っていたのかを――)
私は、お姉様の手をしっかりと握り返し、前を歩くハーヴェー様の背中に向かって、ぽつりとこぼした。
「……お父様は、お母様のことを『優しい人だったよ』としか教えてくれませんでした。……平民だったなんて、私、何一つ知らなかったんです」
父はきっと、母が平民であるという貴族社会の好奇の目から、幼い私を守るためにあえて語らなかったのだろう。
私のその言葉を聞いて、ハーヴェー様は静かに頷いた。
「……無理もありません。アレト殿も、幼いあなたを守りたかったのでしょう。それに……」
ハーヴェー様は、少し言い淀むように息を吐き、重々しく告げた。
「実は……彼女は、ただの平民ではなく、孤児だったのです」
「……え?」
私は、思わず声を上げた。
孤児――? 母さんが?
「五歳の頃、実のご両親を盗賊に殺され、城下町でパン屋を営むイフェル夫妻に引き取られました。そして、実の娘のように大切に育てられたのです」
「……っ」
私は息を呑んだ。
お母様も、幼くして両親を失っていたなんて。
五歳で両親を失って――私と、同じだ。私も五歳で優しい父の温もりを奪われ、公爵家で孤独になった。
(……知らなかった……)
「本来、平民は魔法学園には入れません。貴族の子息令嬢が魔力を磨き、社交を学ぶ場ですから」
「ですが――私が無理を通して、彼女を入学させたのです」
「ハーヴェー様が……?」
お姉様が驚いた声を上げる。
「ええ。あれは……そう、私がまだ若く、教師になりたてだった頃のことでした」
ハーヴェー様は、遠い過去を懐かしむように語り始めた。
「ある日の夕暮れ、私はふらりと城下町へ足を運びました。そこで偶然、路地裏から子供たちの泣き声が聞こえたのです」
「行ってみると――そこには、粗末な服を着た一人の少女がいました。彼女は小さな手から蛍のような『光』を生み出し、転んで怪我をした子供たちを笑顔にしていたのです」
『泣かないで。ほら、綺麗でしょう?』
「ライトブルーの長い髪に、透き通るような緑色の瞳。……その時、私は直感しました。この力は、こんな路地裏で埋もれさせていいものではない、と」
ハーヴェー様は、手にした魔光石を少し高く掲げ直した。
「光魔法は希少だ。私はその才能を伸ばしてあげたいと強く思いました。だから私は、父を通じて国王陛下に直訴し、異例の措置として彼女を魔法学園に入学させたのです」
「……そうだったんですね……」
私は胸が熱くなった。
母が学園に通えたのは、この人のおかげだったんだ。
しかし、ハーヴェー様の声は少し沈んだ。
「ただ――最初は、彼女を育ててくれたイフェル夫妻から猛反対されましてね」
「……反対……?」
「ええ。イフェル夫妻――彼らは彼女を本当の娘のように愛していた。だからこそ、『平民が貴族の中に入れば虐げられる』『王族に利用されるだけだ』と、彼女の身を案じて反対したのです」
私は、まだ見ぬイフェル夫妻の顔を思い浮かべた。
母を育ててくれた人たち。母を愛し、守ろうとしてくれた人たち。
(……いつか……会いに行きたい……)
母さんのこと、たくさん聞きたい。そして、お礼を言いたい。
「でも、彼女は自分の意志で決めたのです。ご両親に頭を下げて、『この光で、もっとたくさんの人を笑顔にしたい』と説得しました」
「そして、私も誓いました。『私の命に代えても、彼女を守ります』と」
「……そうして、彼女は魔法学園に入学することができたのです」
ハーヴェー様の声が、少し震える。
それは美しい思い出であると同時に、彼女を苦難の道へ導いてしまったという後悔の響きでもあった。
「ですが……イフェル夫妻の心配は、的中してしまいました」
「平民という出自。そして異例の編入。貴族の生徒たちにとって、彼女は異物でしかなかった」
言葉を選びながらも、ハーヴェー様は事実を告げた。
「彼女は……多くの令嬢や子息から見下され、心ない言葉を浴びせられることがありました。教科書を隠されたり、魔法の実技でわざと標的にされたり……」
――いじめ。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓がドクリと跳ねた。
隣を歩くネフェリアお姉様が、痛ましそうに私の手をぎゅっと握りしめてくれた。
今の彼女はまだ知らないけれど、一周目の未来で、彼女も全く同じ目に遭い、孤立し、心を壊されていった。
(……お姉様と……同じだ……)
母も、お姉様も。どうして理不尽な悪意はいつも、こんなにも優しくて気高い人ばかりを標的にするのだろう。
「しかし、彼女は折れませんでした」
ハーヴェー様の声に、強い力が籠る。
「どれだけ意地悪をされても、決して腐らず、誰かを恨むこともなく、ひたむきに魔法の練習を続けていました」
ハーヴェー様の話を聞きながら、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
(……一周目のお姉様も、そうだった……)
私が政治の道具にされないよう、一人で泥を被って王子の隣に立ち続けたお姉様。どれだけ陰湿ないじめを受けても、私を守るために決して逃げ出さず、理不尽に耐え抜いてくれた。
最後は悪意に心を壊されてしまったけれど……私への『愛』だけは、どんな洗脳でも絶対に焼き尽くせなかった。
優しい母。強いお姉様。
二人は、血は繋がっていなくても――大切な誰かを守るためなら、どんな孤独や痛みにも耐え抜くことができる。その気高く美しい魂の形が、そっくりだったんだ。
(……もしも)
ふと、叶わぬ想像が頭をよぎる。
もしも母に、私のような『死に戻り』の力があったら?
理不尽に虐げられた学園での日々をやり直せたかもしれない。
強大な治癒魔法のせいで過酷な戦場に送られる運命や……私とお父様を残して、二十一歳という若さで病に倒れなければならない悲劇さえ、覆せたかもしれない。
(……ううん、違う)
私は首を横に振った。
母には、やり直す力はなかった。だからこそ、その一度きりの人生を、歯を食いしばって懸命に生きたのだ。逃げずに、耐え抜いて、愛するお父様と共に私という命を遺してくれた。
お姉様も同じだ。やり直す術がない世界で、私のためにご自身の人生を全部使ってくれた。
(……母が無念のまま手放した未来を、私は絶対に手放さない)
私は拳を握りしめた。
母が持っていなかった、最強の武器が私にはある。
お姉様も、お父様も、アメリアさんも。
母が愛し、守りたかったであろう全てを――今度こそ、私が守り抜くんだ。
「……ここです」
ハーヴェー様が足を止めた。
階段の終わり。重厚な石の扉の前。
「だから私は、彼女をここへ連れてきたのです」
ハーヴェー様が、扉に手を触れる。
「『ここなら、誰にも邪魔されない。思う存分、練習しろ』……そう言ってね」
ギギギィ……と、重い音を立てて扉が開いていく。
中から流れ出してきたのは、古びているけれど、どこか澄んだ清浄な空気。
灯り用の魔石の光が、広い石造りの空間を照らし出す。
そこには、母さんが汗を流し、ハーヴェー様と共に魔法を高め合った、温かい時間の痕跡が残されていた。
「……ここが……」
私は、その空間に足を踏み入れた。
母さんの足跡を辿り、そして追い越すために。
地下の隠れ家で、私たちの特訓が今、始まろうと




