第一話 ネフェリアの凶報
トン、トン、トン。
扉を叩く音が、静かな夜に響いた。
私は窓辺から視線を外し、扉の方を向く。
「……誰だろう?」
こんな夜遅くに来客なんて、珍しい。いや、今まで一度もなかった。
私は白いレースがあしらわれた淡いブルーの寝巻き姿のまま、扉へ近づく。袖口と裾には繊細な刺繍が施されていて、貴族の娘らしい上品な仕立てだった。
ノブに手をかけて、ゆっくりと開ける。
そこに立っていたのは――
「アメリア様? どうしたんですか? 何かあったんですか?」
金髪と綺麗な水色の瞳を持つアメリア・カーフェーン。大臣の娘であり、私と同じ魔法学園に通う三年生。真面目で優しく、誰かのために何かをしてあげたいと常に考えている人。
お姉様の友人でもあって、たまに屋敷に遊びに来てくれることもあった。私にとっても、憧れの先輩だ。
だが今、その顔は青ざめ、息も荒い。白いブラウスに紺色のプリーツスカートという制服姿のまま、まるで何かから逃げてきたかのように。
普段はきちんと整えられている金髪も、少し乱れている。何があったんだろう?
「アミアさん……聞いてください……」
アメリア様の声は震えていた。普段の落ち着いた雰囲気はどこにもなく、ただ焦りと動揺だけが滲んでいた。
「今夜の卒業パーティーで……ネフェリアさんが事件を起こしたんです……」
「……え……?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
(……え……? 何を言ってるの……?)
頭が真っ白になる。お姉様が……事件?
「ネフェリアさんが……レオニス様に婚約破棄を宣告されて……その直後、暴走したんです。闇魔法で……周りの人を傷つけて……」
「そんな……」
胸が締め付けられる。お姉様が……婚約破棄……? 暴走……? 闇魔法……?
(嘘……でしょ……?)
信じられなかった。いや、信じたくなかった。
お姉様は完璧な人だ。優しくて、優雅で、誰からも憧れられている。婚約破棄なんて――暴走なんて――そんなこと、あるはずがない。
それに、闇魔法? お姉様は水魔法しか使えないはずなのに。
「本当なんです……私も信じられませんでしたけど……この目で見たんです……」
アメリア様の綺麗な水色の瞳には、恐怖と悲しみが混じっていた。
嘘をついているようには見えない。本当に――本当に、そんなことが起きたんだ。
「レオニス様は……ネフェリアさんが生徒へのいじめを行っていたこと、そして水魔法しか使えなかったはずなのに闇魔法を隠していたことを、罪として宣告しました……」
「お姉様が……いじめ……?」
信じられなかった。あの優しいお姉様が、誰かをいじめるなんて。
(……そんなはずない……お姉様は……)
でも――
その瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「……いっ……」
思わず額に手を当てる。何か……何か大切なことを忘れているような。でも、思い出せない。まるで、記憶の一部が霧の向こうに隠れているような。
「アミアさん!? 大丈夫ですか!?」
アメリア様が慌てて私の肩を支えてくれる。
「……だ、大丈夫です……ちょっと、頭が……」
痛みはすぐに引いた。けれど、胸の奥には妙な違和感だけが残った。
(……何だろう……この感じ……)
(……お姉様が……闇魔法……?)
(……いじめ……?)
(……そんなこと……あるはずない……)
でも――
「そして……闇魔法を使って……生徒たちを傷つけたんです……」
アメリア様の声は震えていた。
「黒い塊が……次々と生徒たちに襲いかかって……壁に叩きつけられたり、腕を負傷したり……」
「レオニス様も狙われましたけど……氷の壁で防いで……」
「私も……止めようとしたんですけど……」
アメリア様の目に、涙が浮かんでいた。
「……っ」
胸の奥が、ざわついた。
(……そういえば……)
最近のお姉様は、どこか違った。優しいけれど、どこか遠い。笑顔の奥に、何かを隠しているような。そんな違和感を、何度か感じていた。
私が13歳の頃から――お姉様と過ごす時間が減っていった。14歳でお姉様が魔法学園に入学してからは、さらに会えなくなった。
たまに会っても、お姉様はどこか疲れているように見えた。でも、私が「大丈夫?」と聞くと、いつも「大丈夫よ」と微笑んでくれた。
(……でも、私は気のせいだと思ってた……)
(……まさか……本当に……お姉様が何かを抱えていたなんて……)
(……私は……何も気づいてあげられなかった……)
「アミアさん……大丈夫ですか……?」
アメリア様が心配そうに私を見つめる。
「……はい……少し、驚いて……」
私は震える声で答えた。でも、本当は――心のどこかで、予感していたのかもしれない。
お姉様が、何かを抱えていることを。
「レオニス様の命令で……ネフェリアさんは今、地下牢に収監されています」
「地下牢……」
その言葉を聞いた瞬間、胸に針が刺さるような痛みが走った。
地下牢――冷たく、暗く、誰も救されない場所。罪人が閉じ込められる、恐ろしい場所。お姉様が、そんな場所に――
「そんな……お姉様が……地下牢に……」
涙が溢れそうになる。
でも、今は泣いている場合じゃない。お姉様に会わなきゃ。話を聞かなきゃ。
「アミアさん」
アメリア様が私の肩に手を置く。その温もりが、震える心を支えてくれた。
「……明日の朝、一緒に行きましょう。ネフェリアさんに会いに」
「……本当ですか?」
「はい。今は夜ですから、地下牢には入れません。でも、明日の朝になれば……」
「……ありがとうございます、アメリア様」
私は小さく頷いた。涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
(お姉様……待っててください)
(明日、必ず会いに行きますから)
アメリア様は静かに微笑み、私の手をそっと握ってくれた。
「今夜は休んでください。明日は……辛い一日になるかもしれません」
「……はい……」
アメリア様が部屋を出て、扉が閉まる。
部屋に一人残された私は、ベッドの端に腰を下ろした。
窓の外の星は、相変わらずきらきらと輝いている。けれど、その光はもう、何も温かく感じなかった。
(お姉様……どうして……)
胸の奥で何度も問いかけても、答えは返ってこない。
婚約破棄――暴走――闇魔法――いじめ――
どれも信じられない。お姉様は、そんな人じゃない。優しくて、完璧で、誰よりも輝いている人だ。
(……でも……)
(……もしかしたら……お姉様は……ずっと苦しんでいたのかもしれない……)
(……私が気づいてあげられなかっただけで……)
(……私は……何も知らなかった……)
涙が、ぽろぽろと溢れてきた。止められない。
「お姉様……お姉様……」
声を押し殺して、泣いた。誰にも聞かれないように。でも、涙は止まらなかった。
私はベッドに横になった。でも、眠れるはずがなかった。頭の中は、お姉様のことでいっぱい。
明日――地下牢に行く。お姉様に会う。そして、全部聞く。
どうして、婚約破棄されたのか。どうして、暴走したのか。どうして、闇魔法を使ったのか。
そして――どうして、私に何も言ってくれなかったのか。
(お姉様……)
ただ、静かに時間だけが流れていく。
長い、長い夜だった。




