第18話 闇と光の誓い
洞窟の奥から戻ると、お姉様はまだ昏々(こんこん)と眠っていた。
顔色は蝋のように白く、呼吸も浅い。魔力の枯渇による消耗は深いようだ。
私は採取したばかりの『スターリーフ(星葉草)』を取り出した。
二株のうちの一株。
青く発光する葉を、手近な石の上ですり潰す。本来は魔法的な調合をして秘薬にするのが一番だけど、今はそんな器具も知識もない。
すり潰して粘り気のある即席の軟膏にし、直接傷口に塗るのが最善だ。
「……お姉様、失礼します」
私はお姉様の腕をまくり上げた。
逃げる時に枝で切ったのか、赤い擦り傷がいくつもある。ピクニック用に仕立てられた美しいドレスも、今は泥や魔獣の返り血で無残に汚れ、あちこちが破れていた。
ひんやりと光る青い草の塊を、そっと傷口に塗っていく。
「ん……」
お姉様が小さく呻き、眉を寄せた。
傷口に塗られた薬草が、淡い光を放ちながら皮膚に染み込んでいく。
すると、見る間に赤みが引き、傷がふさがっていくのが分かった。
(……すごい……)
図鑑で読んだ通りの効き目だ。魔力回復の効果もあるはずだから、これで少しは楽になるはず。
私はもう一株のスターリーフをハンカチに包み直し、ワンピースのポケットの奥深くにしまった。
これは、いざという時の切り札になる。
手当てを終え、私はお姉様の隣に座った。
洞窟の入り口から、冷たい夜風が入ってくる。
私はお姉様の手を握り、自分の体温を伝えた。
どれくらい時間が経っただろう。
外は完全に闇に包まれ、虫の声だけが響いている。
「……う……ん……」
お姉様のまつ毛が震えた。
ゆっくりと、赤い瞳が開かれる。
「お姉様!」
「……アミア……?」
お姉様が、ぼんやりと私を見つめる。
「……ここは……?」
「洞窟です。森の奥で見つけて……魔獣からは逃げ切りました」
「そう……」
お姉様は身体を起こそうとして、ふらついた。私が慌てて支える。
「無理しないでください。まだ魔力が戻りきっていません」
「……ありがとう、アミア」
お姉様は自分の手を見つめた。
震える手。
「……私……何か……変なことを……」
お姉様の声が、恐怖に震え始めた。
記憶が戻ってきたのだ。
「……黒い……何かが……手から……」
「……あれは……何……?」
「お姉様……」
私はお姉様の手を両手で包み込んだ。
「……あれは、『闇魔法』です」
「……闇……魔法……?」
お姉様の顔から血の気が引く。
この国で、闇魔法がどういう扱いを受けているか。災厄の象徴。忌み嫌われる力。
聡明なお姉様なら、それを知らないはずがない。
「……私……そんな恐ろしい力が……」
「……どうして……」
お姉様の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……ごめんなさい……アミア……」
「……私……化け物だったのね……」
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、憎悪すべき記憶が蘇った。
一周目の最期。あのアメリアさんの亡骸の前で、嘲笑うように語った男――シャドウの言葉。
『結局のところ、君のお姉さんも僕と同じなんだよ。人殺しの力を持ち、世界に仇なす存在』
『ふん、道具じゃない、か。だが彼女は立派な呪われた凶器になったよ』
――ふざけないで。
怒りで、体が震えた。
あの男は、お姉様を「自分と同じ」だと言った。「呪われた凶器」だと言った。
そして今、お姉様自身も、自分を「化け物」だと蔑んでいる。
(……違う。お姉様は化け物なんかじゃない。シャリアに脅されて、帝国から密輸した物理的な毒薬『ヒプノ草』を私に飲ませるという重い罪を背負わされ……その罪悪感と孤独で無理やり心を縛られ、そこにシャドウが付け込んだだけの被害者だ。お父様だって、同じ薬で操られている……!)
(……お姉様の魔法は、私を守ってくれた優しい魔法なんだ……!)
私は、あの時叫んでも届かなかった言葉を、今、目の前のお姉様にぶつけた。
「違います!」
私は強く否定した。
「お姉様は……その力で、私を守ってくれました!」
「化け物なんかじゃありません! 私にとっての、英雄です!」
「……アミア……?」
「お姉様が闇魔法を使わなかったら、私は死んでいました。……お姉様のおかげで、私は今、生きています」
私は、恐怖で震えるお姉様の両手を、自分の小さな手でぎゅっと、祈るように温かく包み込んだ。
それはかつて、お姉様が私にしてくれたのと同じように。
――私が五歳の時のことだ。
優しかったお父様が再婚し、リィエル公爵家に連れてこられた私は、知らない大人たちの冷たい視線に怯え、使われていない客室の隅で膝を抱えて泣いていた。
『おうちに、かえりたい……お父様……』
そんな孤独に震える私を見つけてくれたのは、当時七歳だったお姉様だった。
『こっちに、こないで……っ! お姉様なんていらない!』
私が寂しさを爆発させて拒絶しても、お姉様は怒らなかった。最高級のドレスの裾が汚れるのも構わずに静かにしゃがみ込み、私の涙を拭ってくれたのだ。
『……寂しかったわね。大人の都合でこんな広いお屋敷に連れてこられて……怖かったわね、アミア』
そして、冷え切っていた私の両手を包み込み、春の陽だまりのような声で言ってくれた。
『ここが、あなたのお家よ。血が繋がっていなくても、あなたは今日から私のたった一人の、可愛くて大切な妹』
『私がずっと、あなたを守ってあげる。だから、もう一人で泣かなくていいのよ』
そう言って抱きしめてくれた時の、甘い花の香りと温かな体温。あの日、私の心に張っていた冷たい氷は、音を立てて溶けていったのだ――。
「あの日……お姉様は私に『ずっと守ってあげる』と約束してくれましたよね」
私は、お姉様の目を真っ直ぐに見つめた。
「だから……自分を責めないでください」
「どんな力を持っていようと、お姉様は私の……独りぼっちだった私を救ってくれた、世界で一番大切なお姉様です」
「誰が何と言おうと、お姉様は……私の自慢の、優しいお姉様です!」
お姉様は、見開いた赤い瞳から、せき止めていたような大粒の涙をぽろぽろとこぼした。
「……アミア……。あの日のこと……覚えていて、くれたの……?」
「はい。お姉様が抱きしめてくれた時の温かさを、忘れたことなんてありません」
「……っ……ありがとう……ありがとう、アミア……」
お姉様は震える声で何度も呟きながら、やがて安心したように力が抜け、私の肩にすっと頭を預けた。
温かい涙が、私の服を濡らす。
少し落ち着いてから、私は意を決して口を開いた。
さっきの戦いで、お姉様も見ていたはずだ。私が放った光を。
だから、隠す必要はない。むしろ、共有することで安心させたい。
「……それに、お姉様」
「……私にも、同じ秘密があります」
「……え?」
お姉様が顔を上げる。
「レッドウルフと戦った時……見ていましたよね?」
私は、右手を前に出した。
集中する。魔力はまだ回復しきっていないけれど、小さな灯りくらいなら。
「……ライト」
ポッ、と小さな光の玉が、私の掌の上に浮かんだ。
洞窟の闇を、優しく照らす蛍のような光。
「……あ……」
お姉様が目を見開く。
「……やっぱり……あの時の……」
「はい」
私は頷いた。
「まぐれじゃありません。……私、光魔法が使えるんです」
「お姉様が『闇』なら……私は『光』です」
「そう……あなたが、私を援護してくれたのね……」
お姉様が、私の光を見つめる。
その瞳には、驚きよりも、深い納得の色が浮かんでいた。
そして、どこか安堵したように呟いた。
「光と、闇……」
「……私だけじゃ、なかったのね」
「はい。私たちは……同じです」
私は微笑んだ。
お姉様の孤独を、これで消せる。
お姉様は、私の顔を真剣な眼差しで見つめ直した。
「アミア……あなたは知っている?」
「この国に伝わる、古い伝承を」
「……ええ」
私は小さく頷いた。
私が学園で「なり損ない」と嘲笑われていた理由。だから、その伝承のことは幼い頃から嫌というほど聞かされて育ってきた。
「光と闇の魔力を持つ者は……『百年に一人』しか現れないと言われているわよね」
「そう。そして、その二つの力は……常に『対』になって現れると」
お姉様は、私の手をぎゅっと握った。
「たぶん、私たち姉妹がその『百年に一人』よ」
「……」
私は息を呑んだ。心臓が冷たく波打つ。
お姉様は私たちがその「百年に一人の対」だと言った。けれど、私は一周目の死の間際、あの男から聞かされた言葉を思い出していた。
『君のお姉さんは、百年に一人の闇魔法使いだ。そして僕もそうだ』
『世界はバランスを取りたがる。闇が生まれれば、光も生まれる。君こそが、僕らと対になる百年に一人の光魔法使いだ』
(……待って)
私は、背筋が冷たくなるのを感じた。
(……お姉様は、私と二人だけで『光と闇の対』だと思っている。でも、現実は違う。この時代には、お姉様とシャドウという『二人』の闇魔法使いが存在している。百年に一人のはずの伝承の理は、完全に壊れている……!)
(……だからこそ、強大すぎる二つの『闇』の対極の存在として、バランスを取るために私という『光』が生まれたというの……?)
「でも、これはとても危険なことよ」
お姉様の声が震える。
十四歳の少女が抱えるには、あまりにも重すぎる事実。
「歴史書にもある通り、闇魔法は国を滅ぼす災厄の象徴よ。『光』は国宝として囲われ、自由を奪われる。でも『闇』は……存在自体が否定され、見つかれば即座に社会から抹殺されるか、兵器として利用される……」
(……知っています、お姉様……)
私は心の中で、血を吐くような思いで同意した。
(……一周目では、本当にその通りになった……)
(……お姉様は闇魔法を隠すために『水魔法一つしか使えない出来損ない』のフリをして、学園で冷たい泥水をかけられ、誰にも助けてもらえない孤独な迫害にたった一人で耐え続けなければならなかった……)
(……そして、そのボロボロになった心の隙間をシャドウに付け込まれ、無魔法で心を黒く塗りつぶされて……誰よりも優しかった魂を『凶器』へと歪められてしまった……)
(……最後には大勢の好奇の目に晒されながら断罪され、大罪人として重い鎖に繋がれ……あまつさえ、私が殺されたという絶望を処刑台の上で強制的に思い出させられながら、断頭台の露と消えた……!)
私たちが「光と闇」という百年に一人の力を持ってしまったせいで。
そして――犠牲になったのは、お姉様だけじゃない。
この呪われた運命は、私たち二人だけでは終わらなかった。
脳裏に、あの金髪の少女の姿が蘇る。
アメリア・カーフェーンさん。
地下牢で、お姉様に代わって「気づけなくてごめんなさい」と泣いてくれた人。
そして――
『危ない!』
私を庇って、シャドウの氷刃に貫かれた人。
私の腕の中で、血に染まりながら微笑んだ、最期の顔。
『……あなたと……出会えて……よかった……』
『……親友に……なれて……嬉しかっ……た……』
(……アメリアさん……)
お姉様が「闇」で、私が「光」だったから。
私たちがその運命に翻弄されたせいで、関係のないアメリアさんまで巻き込み、殺してしまった。
お姉様の言う「危険」は、ただの想像じゃない。
私たちが一度辿った、大切な親友さえも犠牲にする血塗られた現実だ。
それに加えて、シャドウが最期に語った真実――『光魔法には死者蘇生の可能性があるから、脅威として殺す』という言葉。
私の力は、お姉様の言う「国宝」どころか、闇に生きる者たちにとっては「抹殺対象」なのだ。
この秘密は、あまりにも重い。
でも、だからこそ隠し通さなければならない。二度とあんな悲劇を繰り返さないために。
「アミア、約束して」
「……はい」
「私の闇魔法のこと……そして、あなたの光魔法のこと」
「……誰にも言わないで」
「お母様にも……誰にも。……二人だけの秘密よ」
「……」
私は深く頷いた。
(……お母様に、秘密を……)
シャリアは、私にとっては継母だけれど、お姉様にとっては実の母親だ。
自分の力を、産んでくれた母親にさえ隠さなければならない。
シャリアに知られれば、「闇」は兵器として利用され、「光」は籠の鳥にされる。お姉様は本能的にそれを悟り、実の親を欺くことを選んだのだ。
その決断が、どれほどお姉様の心を傷つけているか。
でも、それこそが私たちが生き残る唯一の道だ。
私は、お姉様の目を見て、一周目の記憶を噛み締めながら言った。
「はい、約束します」
「お姉様の秘密は、私が守ります」
「だから……私の秘密も、お姉様が守ってください」
「ええ、もちろんよ」
お姉様が、優しく微笑んだ。
その笑顔は、不安の中にも、確かな絆を感じさせるものだった。
「……ありがとう、アミア」
「私……あなたと姉妹になれて、本当によかった……」
その言葉に、私はハッとした。
一周目の地下牢。別れの間際にお姉様がくれた言葉が重なる。
『血は繋がっていないけど……本当の妹以上に……大切だった……』
あの時、冷たい鉄格子越しに言われた言葉。
あの時、私はお姉様を抱きしめたかったけれど――無情な鉄格子に阻まれて、冷たい指先が触れることしかできなかった。
でも、今は違う。
「……お姉様」
私は、隣に座るお姉様の体に腕を回し、力いっぱい、ぎゅっと抱き寄せた。
「アミア……?」
驚くお姉様の背中に腕を回す。
温かい。生きた体温。力強い鼓動の音。
(……ここには、私たちを隔てる鉄格子なんてない……)
地下牢の冷たい石床の上じゃなく、今はこうして、遮るもののない場所で直接抱きしめ合えるのだ。
「血の繋がりなんて、関係ありません」
「私たちは……誰よりも深い『秘密』で繋がった、本当の姉妹です」
「……っ……そうね……」
お姉様も、私の背中にそっと腕を回し返してくれた。その声が、愛おしさに潤んでいる。
私たちは、暗い洞窟の中で寄り添い合った。
外は冷たい夜。
でも、ここには二人分の体温がある。
「……明日になったら……帰れるかしら」
「きっと、シャリアお母様たちが探してくれています」
私は言った。心の中では、シャリアへの警戒心を最大限に高めながら。
(……この秘密は……絶対に守り抜く)
(……シャリアにも、シャドウにも、絶対に渡さない)
やがて、お姉様の規則正しい寝息が聞こえてきた。
疲労と安心感で、眠りに落ちたようだ。
私は、お姉様の寝顔を見つめ、握りしめた手を確認した。
一度目は離れ離れになってしまった手。
二度目の今夜は、決して離さない。
私は、お姉様の温もりを感じながら、静かに誓った。
この夜のことは、一生忘れない。
星明かりの下で交わした、二人だけの秘密の誓い。
これが、私の二度目の人生における、本当の「秘密の盟約」の始まりだった。
私も、いつしか深い眠りへと落ちていった。
ポケットの中の『スターリーフ』が、微かな温もりを伝えていた。




