第17話 闇の発現ダークショット
「……まだ……いた……」
お姉様が、絶望に震える声で呟いた。
レッドウルフを倒して安堵したのも束の間。
木々の陰から現れた黒い影――マッドウルフは、じっと私たちを見つめている。
異常な狂乱の薬によってギラギラと赤く充血した目。ナイフのように鋭い牙からは、おびただしい量の涎が滴り落ちている。
先ほどのレッドウルフよりも一回り大きく、そして圧倒的に凶暴な気配を纏っていた。
グルルゥ……ッ!
低い唸り声と共に、黒い獣が地面を蹴った。
「水の弾丸!」
お姉様が反射的に水魔法を放つ。
しかし、マッドウルフは影のように身を翻し、それを軽々と回避する。速い。レッドウルフとは比べ物にならない。
私も、震える手を前に出した。残りの魔力を振り絞る。
(……死の淵で目覚めた、十六歳の私の魔力。それを、十一歳のこの幼い身体で無理やり引き出した反動が来ている……!)
「光の弾丸!」
指先から放たれた光の弾丸が空を切る。
マッドウルフは空中で軌道を変え、私の魔法すらも避けてみせた。
「……っ!」
着地と同時に、マッドウルフが再び跳躍する。
私たちが防ぐことしかできない中、茂みが再び大きく揺れた。
ガササッ!
現れたのは、もう一体のマッドウルフ。
いつの間にか回り込まれていたのだ。
「……っ! 二体……!?」
お姉様が、悲鳴のような声を上げる。
(……まずい……!)
絶望が背筋を駆け上がる。
一体だけでも手一杯なのに、二体同時なんて。
私たちの魔力はもう底をつきかけている。
示し合わせたかのように、二体の魔獣が動き出す。
一体がお姉様へ。
もう一体が――私へ。
「光の弾丸!」
私は、最後の力を振り絞って光魔法を放つ。
けれど、放たれた光はあまりに弱々しく、マッドウルフの顔を僅かに焦がした程度で霧散した。
効かない。
マッドウルフは怯むことなく、嘲笑うように牙を剥き出しにした。
狙いは――私の喉笛か、肩か。
黒い塊が、私に覆いかぶさる。
「アミア!」
お姉様の絶叫が響く。
私は動けなかった。魂に刻まれた魔力も、幼い身体の体力も完全に空っぽで、指一本動かせない。
死の感触が、目の前に迫る。
――その瞬間。
「いやああああっ! アミアあああ!」
お姉様の、己の魂を削るような叫び声が森に木霊した。
空気が爆ぜた。
水でも、光でもない。すべての光を飲み込む、濃密で絶対的な『闇』の魔力。
お姉様が突き出した両手から、漆黒が溢れた。
詠唱すらない。私を助けたいという悲痛な願いが、無意識のうちにお姉様の限界を超えた魔力を引き出したのだ。
(……闇の弾丸……!)
放たれた黒い弾丸は、空間を抉るような速度で直進した。
まず、お姉様の目の前に迫っていたマッドウルフの頭部を一瞬で消し飛ばす。
そして黒い弾丸は止まらない。その絶大な威力は衰えることなく――私に飛びかかっていたもう一体の横腹をも一直線に貫通した
「ギャウッ!」
断末魔の叫び。
ドサッ、ドサッ。
二体の巨大な魔獣が、糸が切れたように崩れ落ちる。
一瞬の静寂。
「……っ……」
私は、息を呑んでその光景を見ていた。
(……闇魔法……)
(……お姉様が……闇魔法を……)
目の前で、黒い霧となって消えていく魔力の残滓。
それは、一周目の記憶にあるものと全く同じ。私を守るために放たれた、恐ろしくも強大な力。
(……一周目と同じだ……未来が……変えられなかった……)
お姉様に、あの忌まわしい闇魔法をまた使わせてしまった。
私が迷子にならなければ。私の光魔法がもっと強くて、すべての魔獣を倒せていれば……お姉様にこんな恐ろしい十字架を、再び背負わせずに済んだのに。
(……ごめんなさい、お姉様。私のせいで、また……)
深い後悔が胸を締め付ける。
でも――。
(……一周目と、同じなんだ)
私は、震えるお姉様の背中を見つめた。
お姉様は、この力が見つかれば「死刑」になるかもしれないという恐怖よりも、私の命を守ることを一瞬の迷いもなく選んでくれたのだ。
目の前で霧散していくドス黒い魔力。世間では『災厄』と忌み嫌われるその力は、私にとっては、己の命と名誉を犠牲にしてまで私を救ってくれた『お姉様の深く優しい愛』そのものだった。
お姉様は――震える自分の両手を見つめていた。
指先から、黒い煙のようなものが立ち上り、消えていく。
「……これ……何……?」
お姉様の声が、未知への恐怖に震えている。
「……私の……手から……黒い……」
顔からは血の気が失せ、唇は青ざめている。
自分の中から出てきた得体の知れない力に、困惑し、激しく怯えている。
「……何が……起きたの……?」
「お姉様……!」
私は、お姉様に駆け寄ろうとした。
でも――。
グラリ。
お姉様の身体が大きく揺れた。
「お姉様!?」
そのまま、糸が切れたように地面へ崩れ落ちる。
気を失っていた。
「お姉様! お姉様!」
私は這うようにして駆け寄り、お姉様を抱き起こした。
「お姉様……!」
呼びかけても、反応はない。
目は閉じられ、顔色は悪い。ただ、胸は規則正しく上下している。
(……魔力を使いすぎたんだ……)
(……闇魔法は強力すぎる。覚醒したばかりの身体には負担が大きすぎた……)
私は――意識のないお姉様を強く抱きしめた。
涙が溢れそうになる。でも、泣いている場合じゃない。
周囲には魔獣の死骸。強烈な血の匂い。
この匂いに釣られて、他の魔獣が来るかもしれない。
それに――シャリアたちがいつ来るか分からない。
もし今、この惨状を見られたら、「闇魔法の痕跡」に気づかれてしまう。
(……逃げなきゃ……)
(……どこか……安全な場所へ……)
私は歯を食いしばり、立ち上がった。
十四歳のお姉様の身体は、十一歳の私には重すぎる。
でも、置いていくなんて絶対にできない。
「……よいしょ……っ!」
私はお姉様の腕を自分の小さな肩に回し、泥に塗れながら、引きずるようにして歩き出した。
あんなに綺麗だった青と赤のドレスは、すでに土と魔獣の返り血で黒く汚れきっている。
一歩、また一歩。
足が震える。息が切れる。
でも、止まるわけにはいかない。
森の奥へ。魔獣の気配がない方向へ。
どれくらい歩いただろう。
太陽が傾き、森の中に長い影が落ち始める頃。
前方の岩肌に、ぽっかりと空いた穴を見つけた。
「……あそこなら……」
小さな洞窟。
入り口は狭いが、中は雨風をしのげそうだ。
私は最後の力を振り絞り、お姉様を洞窟の中へと運び込んだ。
「……はあ……はあ……」
私はその場にへたり込んだ。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
洞窟の中は薄暗く、ひんやりとしていた。
外の気配を遮断する静寂。ここなら、魔獣に見つかる心配も少ないだろう。
「……お姉様……」
お姉様を、乾いた地面の上にそっと寝かせる。
顔色は白く、呼吸も浅い。魔力を使い果たして気絶しているだけだとは思うけれど、逃げる時に擦りむいたのか、腕や足には細かい傷もいくつか見えた。
私は、周囲を見回した。
洞窟の奥へと続く闇。
ふと、その奥から、微かな光が漏れているのに気づいた。
(……光……?)
外の光ではない。青白く、静かな輝き。
私は立ち上がり、ふらつく足で奥へと進んだ。
岩の隙間を抜けると、そこには小さな空間が広がっていた。
天井の岩の割れ目から、わずかな月明かりのような光が差し込んでいる。
そして――その中心にある湿った岩肌に、それはひっそりと生えていた。
「……これは……」
星の形をした、青い葉を持つ草。
薄暗い洞窟の中で、それ自体がぼんやりと発光している。
見覚えがある。
公爵家に来てから、たまたま書庫で読んだ植物図鑑に載っていたものだ。
――『スターリーフ(星葉草)』。
確か、とても上質な回復薬の原料になると書かれていた。
肉体の傷や怪我をたちどころに癒やす力があるけれど、滅多に見つからない幻の草だと。
「……二つ……」
私は目を凝らした。
そこには、寄り添うようにして二株だけ、その草が生えていた。
それ以外には見当たらない。本当に、偶然ここにあったようだ。
「……こんなところに……」
私は震える手で、その草に触れた。
ひんやりとしていて、指先から微かな魔力が流れ込んでくるのを感じる。
(……これがあれば……)
お姉様の傷を治してあげられるかもしれない。
体力を回復させる助けになるはずだ。
(……でも、精神には効かない……)
図鑑にはそう書いてあった。
この草はあくまで肉体の傷を治すもので、精神に作用するものではない。
シャリアが使った帝国の毒は、脳という肉体に直接作用して『精神や記憶』を支配するもの。だから、この草の力でお父様の洗脳を解いたり、記憶を取り戻したりすることはできない。
(……それでも、お父様やお姉様の『心』までは絶対に支配させない。そのために……)
今は、目の前で傷ついているお姉様を助けることが先決だ。
私は、慎重にその二株を採取した。
根を傷つけないように、土ごとハンカチに包み、ワンピースの深めのポケットへと大事に仕舞い込んだ。
「……お姉様……待っていてください」
私は青く輝く二つの希望を胸に抱き、お姉様が眠る洞窟の入口へと戻っていった。
外はもう、完全に夕闇に包まれようとしていた。




