第15話 アミアの計画
強く決意したものの、握りしめた拳の指先はまだ微かに震えていた。
シャリアの前で演じた「無垢な子供」の仮面。それを剥がした下の素顔は、まだ恐怖に引きつっている。
(……怖かった……)
心臓が痛いほど早鐘を打っている。
あんな怪物の前で、平然と笑顔を作り続けることがこれほど消耗するとは。
でも、ここで崩れ落ちるわけにはいかない。
私は深呼吸をして、勉強机に向かった。
引き出しを開け、真っ白な羊皮紙とインク瓶、そして羽根ペンを取り出す。
「……忘れないように……」
私は小さく呟いた。
一周目の記憶。今は鮮明に覚えているけれど、人間の記憶は脆い。時間が経てば、細部から霞んでいってしまうかもしれない。
それに、頭の中だけで考えていては、あまりにも巨大な敵の存在感に押しつぶされそうになる。
書き出そう。
私が知っていること。これからやるべきこと。
未来を変えるための、私だけの作戦計画書を。
私は震える手をもう片方の手で押さえ、ペンを握りしめた。
『1. 魔獣襲撃事件(明日)』
まず、一番上に大きく書いた。
これは、明日決着がつく。
私が絶対に迷子にならず、お姉様の側を離れなければ、お姉様が一人で闇魔法を使う機会は訪れない。
結果として、お姉様が自分の力を恐れる心の傷も、シャリアに弱みを握られる未来も回避できるはずだ。
これが全ての悲劇の「引き金」だ。絶対に引かせてはいけない。
『2. シャリアの調査(ヒプノ草とジェック様失踪の謎)』
私は、憎むべき継母の名前を思い浮かべながらペンを走らせた。
一周目の地下牢で、お姉様は泣きながら教えてくれた。シャリアは休戦中のアセレリア帝国から違法な毒草『ヒプノ草』を密輸していると。
そして、死の直前にあの暗殺者が答え合わせをしてくれた。
『魔法を使った暗示なら、光の加護を持つ君には弾かれたかもしれない。だが、あれは単なる毒だ。物理的な脳の機能不全までは、光の加護でも防げない』と。
そう、シャリアの最大の武器は「魔法」ではなく、加護をすり抜ける物理的な「毒」だ。
ならば、その証拠は物理的に屋敷の中に存在するはず。
シャリアが『仕事』だと言ってよく籠もっている地下室。あそこが怪しい。
不在の日を狙って調査し、証拠(薬や調合記録)を確保する。
(……それに、もう一つ)
私は、一周目の最期にアメリアさんから聞いた「ある情報」を思い出し、ペンを進めた。
『十一年前のお姉様の実のお父様、ジェック・リィエル様のご失踪。元・魔法兵団の副団長が、シャリアの関与を疑って今も調べているらしい』
シャリアを完全に追い詰めるためには、この過去の疑惑も重要なカードになるはずだ。ヒプノ草の証拠と共に、何か手がかりがないか探らなければ。
『3. お父様の救出(浄化薬と治癒魔法)』
薬で心を縛られているお父様を救わなければならない。
あの断罪の時、レオニス王子は言っていた。『王宮に保管されている最高位の浄化薬を手配し、解毒を行わせる』と。
つまり、お父様を救うには王室の「浄化薬」を手に入れるか、あるいは毒を浄化できる高度な「治癒魔法」が必要になる。
(……でも、十一歳に戻ったばかりの今の私の力じゃ、お父様を救えない……)
私は唇を噛み締めた。今の私には、まだ薬を打ち破るほどの治癒魔法を使う力なんてない。焦って下手に手を出せば、お父様を救うどころかシャリアに全て気づかれてしまう。
だから、自分自身の魔法の力が育つか、確実な準備が整うまでは慎重に動かなければならない。
『4. レオニス王子との婚約阻止』
次の問題。これが一番、政治的で厄介だ。
一周目では、ネフェリアお姉様が十六歳、私が十三歳の春。お姉様が学園に入学してわずか三日目に、シャリアと王家の密約によって強引に婚約が発表された。
これを阻止するには、私一人では力が足りない。
(……アメリアさん……)
脳裏に、あの方の顔が浮かぶ。
大臣の娘であり、正義感の強いアメリア・カーフェーン。
もし、未来で再び友人に戻れたなら。彼女の力を借りられれば、王家との不当な契約に介入する手立てが見つかるかもしれない。
『5. 帝国の暗殺者シャドウ(魔眼と無魔法、謎の移動能力)』
ペン先が、怒りで震える。
最後の敵。全ての元凶。緑色の髪に、道化師のような笑みを浮かべる帝国の暗殺者、シャドウ。
あいつの能力は、反則のように厄介だ。
死の直前、あの暗殺者は自慢げに語っていた。
対象の過去の記憶を強制的に覗き見て弱点を探る『右の魔眼』。
対象が隠している魔法の属性を一目で見抜く『左の魔眼』。
そして、精神を完全に支配する『黒い炎の洗脳』と、お姉様から私との再会の記憶すら奪った『記憶を封じる催眠』という、二つの未知の【無魔法】。
そして――得体の知れない直接攻撃の力。
地下牢の階段でアメリアさんが殺された時、影から透明な冷たい刃が吐き出された。詠唱も、魔力の気配も全くなかった。砕けた刃は水滴にならず、黒い影のようにドロリと溶けて消えていった。
さらに私を襲った時、私が放った炎は、その刃に触れた瞬間、音もなく吸い込まれて消えた。
(……あれは一体、何だったの……? 今の私には、あの攻撃の正体が全く分からない……)
さらに、あいつの最も不気味な力は、その「影」を通じた異常な移動能力だ。物理的な壁や距離を無視して、影から影へと潜伏し、移動する異常な力。
(……あれも、洗脳や催眠と同じく、未知の『無魔法』の一種なのだろうか……?)
まともに戦えば勝ち目はない。でも――私には勝機があるかもしれない。
私の中にある光の力が、あの悪魔の視線や精神支配から私の魂を守ってくれる可能性がある。今はまだ分からないけれど、この力を育てれば、いつか必ずあいつの魔法を弾き返せるはずだ。
あいつ自身が言っていた。十六歳だった私の過去を『右の魔眼』で覗こうとしたが、謎の光に邪魔されて一切見ることができなかったと。右の魔眼は観察するだけだから『光の加護』の対象外のはずなのに、何かが私の魂を守っているのだと。
(……でも)
ふと、不安がよぎる。
その絶対的な『光の加護』は、十一歳の今の私にも完全に備わっているのだろうか?
それが「十五歳の魔力選定の儀」を経て育つ力だったとしたら。今の未覚醒の状態で奴の魔法を受ければ、防ぎきれないかもしれない。
私は、奴の魔法を恐れずに戦える唯一の存在だ。けれど、慢心は死に直結する。この力を、一刻も早く育てなければ。
『6. 自身の力(光と火)と、幻級魔法の徹底秘匿』
私はペンを置き、立ち上がった。
計画を実行するためには、何よりも「力」が必要だ。
一周目では、十五歳になった私は『魔力選定の儀』で「光魔法のなり損ない」と「微弱な火魔法」の持ち主だと判定された。
けれど――それは真実ではない。
シャドウが恐れたように、私の光魔法の先には、傷を癒やし毒を消す「治癒魔法」、そして死者蘇生すら可能にすると言われる伝説の【幻級魔法】が眠っている。
現に私は、死の淵で時を巻き戻すという奇跡を起こしてここに戻ってきたのだから。
(……でも、絶対にバレてはいけない……)
もし私が幻級魔法の可能性を秘めていると知れれば、シャドウには「最大の脅威」として真っ先に狙われ、王族(レオニス様)には「国益の道具(聖女)」として幽閉されてしまう。
だから、徹底的に無能な『なり損ない』を演じ切る。
(……確かめなきゃ……)
私は窓辺へ歩み寄った。
窓を開け放つと、冷たい風が頬を撫でる。
着替えたばかりの白いブラウスの袖を少し捲り上げ、私は外に向かって手のひらをかざした。
身体の中にある魔力の源泉を探る。
(……光よ……そして、炎……!)
心の中で強く念じる。指先に、神経を集中させる。
――ズンッ。
身体の奥底が、微かに熱を帯びた。
目を開けても、まだ手のひらには何も起きていない。けれど、確かに私の中に二つの魔力の「種」が眠り、脈打っているのを感じ取ることができた。
「……ある……」
私は、自分の小さな掌を見つめた。
私の中に眠る「光」。これは、将来的にシャドウの精神支配や魔眼を防ぐ力になるはずだ。今はまだ引き出し方が分からない未熟な種だけれど、育てていかなければ。
そして――もう一つの「火」。
(……火も、私の中に確かにある……)
これは、私の正体を隠すための「偽装」になる。
――いや、それだけじゃない。
一周目では、私の炎はあの透明な刃に吸い込まれて消えた。けれど、もし極限まで火力を高めれば、あの得体の知れない冷気を溶かし、相殺できるかもしれない。
(……これは、武器になる……)
お母様を欺くための「嘘」の力。けれどそれは、宿敵シャドウを倒すための「真実」の力でもある。
「……よし……」
私は机に戻り、力強く書き加えた。
「毎日魔法訓練。光魔法(精神防御と治癒)と火魔法(対冷気の刃・偽装用)を鍛える。幻級の可能性は絶対に秘匿する」
私は書き上がったメモの全体を、もう一度見つめ直す。
明日の『1.魔獣襲撃事件』での迷子回避を皮切りに、『シャリアの調査』『お父様の救出』『婚約の阻止』『シャドウの撃退』……やるべきことは山積みだ。
「……完璧だわ……」
私は紙を小さく折りたたみ、誰にも見つからないように引き出しの奥底、天板の裏側に貼り付けて隠した。
長い戦いになる。茨の道だ。
でも――絶対に諦めない。
全員を守る。未来を変える。
その時――。
コンコン。
扉をノックする音が聞こえた。
「アミア? いる?」
鈴を転がすような、愛しい声。
張り詰めていた空気が、一瞬で和らぐ。
私は、慌てて表情を緩め、扉へ向かった。
「はい! います!」
扉を開けると――そこには、お姉様が立っていた。
公爵令嬢らしい、淡い水色の清楚なドレスに着替えた彼女が、私を見てふわりと微笑む。
「明日のピクニック、楽しみね」
赤い瞳が、嬉しそうに輝いている。
一点の曇りもない、十四歳の笑顔。
まだ、お母様の愛を疑っていない、純粋な笑顔。
「……はい」
私も、心からの笑顔で答えた。
「私も……とっても楽しみです」
「ふふ、そう言ってくれると嬉しいわ」
お姉様が、私の頭を優しく撫でてくれる。
その手の温もりが、私の決意をより強固なものにする。
「明日は、一緒にたくさん遊びましょうね。お母様も一緒だし、きっと素敵なお出かけになるわ」
「……はい」
私は、強く頷いた。
(……お姉様……)
その笑顔を、その期待を、決して裏切らせない。
悲劇の引き金なんて引かせない。
そしていつか、優しいお姉様が傷つくことなく、真実を受け入れられる日が来るまで――私が支え続ける。
(……絶対に……守る……)
それから、私とお姉様は部屋でしばらくお喋りをした。
明日のピクニックのこと。どんなお菓子を持っていくか。どんな服を着ていくか。
他愛のない、けれど一周目では二度と戻らなかった幸せな時間。
お姉様は、本当に楽しそうだった。
まだ、洗脳されていない。まだ、孤独に苦しんでいない。
この笑顔を――私の命に代えても守り抜く。
私は、お姉様の笑顔を見つめながら、心の中で静かに、けれど激しく誓った。
そして――夜が来た。
窓の外に広がる闇を見つめながら、私は静かに目を閉じる。
明日は――全ての運命が分岐する『魔獣襲撃事件』の日。




