第14話 シャリア・リィエル
部屋に戻り、リリナさんに着替えを手伝ってもらった。
鏡の前で、白いブラウスと紺色のスカートに身を包んだ自分を見る。
寝間着姿の頼りない子供から、リィエル公爵家の令嬢としての姿へ。
背筋が伸びる。
準備を整えて廊下に出ると、着替えを終えたお姉様が待っていてくれた。
お姉様と一緒に、廊下を歩く。
まだ少し、涙の跡が残っている。頬が突っ張るような感覚があるけれど、心は不思議と落ち着いていた。
隣には、温かいお姉様がいる。それだけで、私は強くなれた。
お姉様は、私のひどい泣き顔について何も聞かず、ただ優しく私の小さな手を握り、歩幅を合わせてくれていた。
その手の温もりが、これが夢ではなく現実だと教えてくれる。
「さあ、朝食にしましょう。お母様もお待ちよ」
お姉様の声は、春風のように温かかった。いつもの、大好きな優しい声。
「……はい」
私は、小さく頷いた。
階段を降りて、一階へ。リィエル公爵家の広い廊下を歩く。
赤い絨毯。白い漆喰の壁。高い窓から差し込む朝の光が、埃の粒子をキラキラと照らしている。
懐かしい。この廊下を、何度歩いたことだろう。
一周目では――退学を命じられ、絶望の中で去った場所。もう二度と見ることができないと思っていた景色。
でも――今、ここにある。時間は巻き戻ったのだ。
そして――朝食の部屋、正餐の間へ辿り着いた。
重厚な扉の前で、一瞬だけ足がすくむ。
この中に、あの人がいる。
(……大丈夫。私は、何も知らない子供よ)
自分に言い聞かせ、お姉様の後ろについて中へ入る。
広い部屋の中央に、長いマホガニーのテーブルが置かれていた。
貴族らしい、猫脚の豪華な椅子が並んでいる。
そして――テーブルの上座、一番奥の席に、一人の女性が優雅に座っていた。
燃えるような赤い長髪。宝石のような赤い瞳。
陶器のように白い肌と、完璧に整った美貌。
シャリア・リィエル――リィエル公爵夫人。
お姉様の実母であり、私の義母。
お父様の姿はない。きっと昨日からずっと、地下の工房に籠もったままなのだろう。シャリアのヒプノ草で心を縛られ、ただ魔道具を作るだけの機械のように扱われているのだから。
そして――この女こそが、私の記憶を奪い、お父様を洗脳し、家族を壊した全ての元凶。
「おはよう、ネフェリア、アミア」
シャリアが、優しく微笑んだ。
その笑顔は――完璧だった。
慈愛に満ち、非の打ち所がない、絵画の中の聖母のような微笑み。
でも――今の私には見える。その笑顔の裏に張り付いた、氷のような冷徹さが。
(……この人が……)
私の胸の奥底から、ドス黒く冷たい怒りが湧き上がる。
(……再婚前は私を愛してくれていたお父様の心を、薬で縛り付けた……)
(……私の記憶を無理やり奪い、そして何より――あの優しいネフェリアお姉様に、私へ催眠薬を飲ませるよう命令し、お姉様を人形のように操って人生を壊した……!)
テーブルクロスの下で、拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込む痛みで、理性を繋ぎ止める。
殺してやりたいほどの憎しみ。
でも――表情には出さない。出してはいけない。
今の私は、何も知らない十一歳の子供なのだから。
(……もう……この人を……母親だなんて思えない……)
(……私たち家族を壊したあなたを……絶対に許さない……!)
(……でも、今は悟られてはいけない。無知で従順な娘の仮面を被るのよ……)
私は、笑顔を作る。従順で、無垢な少女の仮面を。
「おはようございます、お母様」
お姉様が、スカートをつまんで優雅にカーテシーをする。
「……おはようございます、お母様」
私も、遅れてお辞儀をした。
声は――穏やかに。表情は――少し甘えるように。
シャリアの赤い瞳が、私を捉える。
蛇が獲物を品定めするような視線。でも、彼女は私の演技に気づいていないようだ。
「ふふ、二人とも元気そうね。顔色が良くて安心したわ」
シャリアが、満足げに微笑む。
(……この笑顔……)
一周目では、この笑顔を信じていた。
厳しいけれど、美しい自慢の母親だと思っていた。
でも――全部、嘘だった。まやかしだった。
「さあ、座りなさい。スープが冷めてしまうわ」
シャリアが促す。
私とお姉様は、それぞれの席に着いた。
お姉様はシャリアの右隣。私はその隣。
メイドたちが音もなく料理を運んでくる。
焼きたてのパンの香り、野菜たっぷりのスープ、彩り豊かなサラダ、瑞々しい果物。
どれも最高級の食材を使った、豪華な朝食。
「いただきます」
私たちは食事を始めた。
カチャ、カチャ、と銀食器が触れ合う音だけが響く、静かな食卓。
パンを一口ちぎって口に運ぶ。
美味しいはずなのに、砂を噛んでいるようだった。味がしない。
頭の中は、これからのことで埋め尽くされていた。
(……シャリアを……いつか……必ず……)
(……お姉様を苦しめた罪を……償わせる……)
でも――それは、まだ先の話。
今は力を蓄え、情報を集め、生き延びなければならない。
疑われたら、その時点で終わりだ。また記憶を消されるか、もっと酷い目に遭うかもしれない。
その時――シャリアが優雅に紅茶を飲み、口を開いた。
「そういえば、ネフェリア、アミア」
シャリアが、機嫌良さそうに微笑む。
「明日は天気も良さそうね。久しぶりに三人でピクニックに行きましょうか」
「え、ピクニック……ですか?」
お姉様が、驚いたように顔を上げる。
「ええ。城下町の近くにある『精霊の森』が良いわね。この時期は花が綺麗だし、空気も美味しいわ」
シャリアは、楽しそうに続ける。
「もちろん、メイドと護衛の兵士も同行させますから、安全ですわ。たまには息抜きも必要でしょう?」
「……本当ですか、お母様?」
お姉様の顔が、パッと花が咲いたように明るくなった。
「お母様も一緒に……ピクニックに行けるんですか……!」
お姉様は――本当に嬉しそうだった。
何も知らない。シャリアの本性も。その提案が、どんな悲劇を招くかも。
ただ――敬愛する母と、可愛い妹と一緒に過ごせることを、純粋に喜んでいる。
(……お姉様……)
胸が痛む。
あんな仕打ちを受けたのに、まだこの人は、母親の偽りの愛を信じている。
そして――シャリアの視線が、私に向けられた。
「アミアも、楽しみでしょう?」
「……え?」
私は、フォークを持ったまま固まった。
ピクニック。
明日。
城下町近くの森。
カチリ、と頭の中で何かが噛み合う音がした。
(……まさか……)
一周目の記憶。
地下牢で、お姉様が泣きながら語ってくれた真実。
『あなたが、 十一歳のお誕生日を迎える一週間くらい前のことよ。……覚えてる? 王国の城下町の近くの森へピクニックに行って、魔獣に襲われたあの日のこと』
『私が……闇魔法であなたを助けた』
そうだ。
明日だ。
明日が、その日だ。
一周目では、私は森で何かに夢中になって迷子になり、魔獣に襲われた。
そしてお姉様が、私を助けるために禁忌の闇魔法を使ってしまった。
それが、お姉様の心の傷の始まりであり――あの女に弱みを握られるきっかけとなった、「最初の悲劇」。
(……行きたくない……)
本能が警鐘を鳴らす。
危険だ。行けば、また同じことが起こるかもしれない。魔獣が出る森なんて。
でも――。
「アミアも、一緒に行きましょうよ」
お姉様が、私の顔を覗き込んで言った。
「きっと楽しいわよ。三人でお出かけなんて、久しぶりじゃない」
お姉様の笑顔――十四歳の、まだ闇を知らない、曇りのない笑顔。
優しくて、温かくて、私を愛してくれている笑顔。
本当に――私と一緒にピクニックに行けることを、心から喜んでくれている。
(……お姉様……)
私は、迷った。
拒否すれば、回避できるかもしれない。
でも、こんなに楽しみにしているお姉様の期待を裏切ることになる。
「……私は……」
私は、震える声で言った。
「……行きたく……ないです……」
「え?」
お姉様が、驚いた顔をした。その瞳に、不安の色が浮かぶ。
「どうして? 体調が悪いの?」
「……その……」
言葉に詰まる。魔獣が出るから、未来を知っているから――なんて、言えるはずがない。
「……森は……虫とかいるし……怖いから……」
私は、子供らしい理由を捻り出して、小さく呟いた。
「そう……」
お姉様は、少し残念そうに眉を下げた。
でも――すぐに気を取り直して、優しく微笑んだ。
「大丈夫よ、アミア」
お姉様の手が、私の手に重ねられる。
「私がいるから。虫が来ても、私が追い払ってあげる。ちゃんと、アミアのこと守るから」
その言葉に、胸が締め付けられた。
守る。
お姉様は――本当に、私を守ってくれた。一周目でも。自分の身を危険に晒して、闇魔法を使ってまで。
「それに――」
シャリアが、優雅に口を拭いながら言葉を添える。
「さっきも言いましたけれど、衛兵も同行させますし、メイドもおります。何かあれば、すぐに対応できますわ。リィエル家の娘が、森ごときを怖がるなんて情けないわよ?」
「安心なさい、アミア。お母様もついているわ」
シャリアの瞳には、「断ることは許さない」という冷ややかな光が宿っていた。
公爵家の絶対の命だと言わんばかりの圧力。
「……っ」
逃げられない。
運命が、強制的に私をあの森へ連れて行こうとしている。
その時、ふと閃いた。
(……待って……)
魔獣事件の原因は、何だった?
一周目の私は、森で何かに気を取られて迷子になった。
そして、「一人になったところを」魔獣に襲われた。
お姉様は私を探しに来て、「誰も見ていない場所で」闇魔法を使って助けてくれた。
(……そうだ……)
私は、顔を上げた。
(……私が……迷子にならなければいいんだ)
もし、私が絶対にお姉様のそばを離れなければ? もし、護衛やメイドの目の届く範囲にいれば?
あの日、私たちの叫び声を聞いて駆けつけてくれた衛兵たちは、魔獣を倒せるだけの十分な実力を持っていた。
私が一人で森の奥へ迷い込みさえしなければ。護衛の目の届く場所にいれば――たとえ魔獣が出たとしても、彼らが安全に対処してくれるはずだ。
そうすれば、お姉様が誰にも見せられない闇魔法を使う必要はなくなる。
お姉様が闇魔法を使わなければ、心の傷も生まれない。
この女に弱みを握られることもない。
私の記憶を消す必要もなくなる。
(……そうすれば……悲劇の連鎖を、ここで断ち切れるかもしれない)
回避するんじゃない。
立ち向かって、結果を変えるんだ。
(……そうだ……)、
私は、決意した。
逃げているだけじゃ、何も変わらない。
(……明日……ピクニックに行こう……)
(……でも……絶対に迷子にならない……)
(……片時もお姉様の側を離れない……)
(……そうすれば……大丈夫……)
私は、顔を上げて二人を見た。
「……分かりました」
私は、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……一緒に……行きます」
「本当!?」
お姉様が、嬉しそうに笑った。その笑顔は――まるで、雲間から差す太陽のように明るかった。
「よかった! きっと楽しいわよ、アミア! お弁当、リリナに頼んで好きなものを入れてもらいましょうね」
お姉様の笑顔――本当に、嬉しそうな笑顔。
私は――この笑顔を守りたい。絶対に、曇らせたくない。
「ふふ、仲が良くて何よりね」
シャリアが、満足げに微笑んだ。
その笑顔を見て――私の心の中で、再び冷たい怒りが燃え上がる。
(……この女は……)
(……何も知らない顔をして……お姉様を利用して……)
(……一周目では、このピクニックをきっかけに……お姉様を追い詰めた……)
(……あんな思いを……もう二度と……お姉様にさせない……)
テーブルの下で、スカートを強く握る。
(……もう……母親だなんて……思えない……)
でも――表情には出さない。
私はにっこりと笑って、従順な娘の顔を作った。
(……今は……耐える……)
(……いつか……必ず……この借りは返してやる……)
心の中で、強く誓った。
そして――朝食が終わった。
「ごちそうさまでした」
私は、ナプキンを置いて席を立った。
「アミア、部屋に戻るの?」
お姉様が、優しく尋ねた。
「……はい。少し、明日の準備をしようと思って」
「そう。じゃあ、また後でね」
お姉様が、手を振って微笑んだ。
「……はい」
私は、一礼して朝食の部屋を出た。
重い扉が閉まるまで、笑顔を崩さなかった。
廊下を歩く。誰もいないのを確認して、表情を消す。
階段を上り、二階へ。
そして――自分の部屋へ。扉を開けて、中に入り、鍵をかける。
ベッドに座り込むと、どっと疲れが出た。
深いため息をつく。
(……シャリア……)
私は、拳を握りしめた。
(……表には出さない……でも……絶対に許さない……)
(……お姉様を苦しめた罪……私のお父様と、私の記憶を奪った罪……)
(……いつか……必ず……償わせる……)
でも、今は復讐よりも優先すべきことがある。
明日のことだ。
(……明日……ピクニック……)
私は、窓の外を見た。
青い空。白い雲。平和な朝の庭。
ここから見える景色は、一周目と何も変わらない。
でも――私は知っている。この平和は――薄氷のように脆い。
一つの選択の過ちで、簡単に崩れ去ってしまう。
(……絶対に……迷子にならない……)
(……お姉様の側を……離れない……)
そうすれば、お姉様は手を汚さずに済む。
そうすれば、最初の悲劇を回避できる。
(……そうすれば……未来は……変わる……)
私は、自分の胸に手を当てた。
そこには、一周目では持っていなかった「覚悟」がある。
守らなきゃいけない。この未来を。お姉様を。
そして、まだ出会っていないけれど、大切な親友――アメリアさんを。
「……絶対に……」
私は、小さく呟いた。
「……今度こそ……」
「……全員……守ってみせる……」
窓の外の空は――どこまでも高く、澄んでいた。
嵐の前の静けさのような空の下で。
私の二度目の人生の――本当の戦いが、今、始ま




