第13話 絶望の惨劇からのリスタート
絶対的な闇と、死の冷気。
私の意識は、深い沼の底へと沈んでいくようだった。
痛い。お腹が焼けるように熱く、そして凍えるように冷たい。
息ができない。肺が動きを止め、心臓の鼓動が弱まっていく。
(……私……死ぬ……)
意識が、遠のいていく。
視界は既にない。聴覚も遠い。
ただ、腕の中に抱いているアメリアさんの冷たい感触と、耳の奥に残るお姉様の絶叫だけが、私をこの世に繋ぎ止めていた。
(……もし……)
消え入りそうな命の灯火の中で、か細い想いだけが燃え残る。
(……もう一度……やり直せるなら……)
(……お姉様を……守りたい……)
(……アメリアさんも……守りたい……)
あんな、理不尽な死なんて認めない。
シャドウという悪意に、私たちの人生を弄ばれたまま終わりたくない。
(……シャドウ……絶対に……許さない……)
暗闇が、さらに深くなっていく。
全身の感覚が失われ、私は「無」へと溶けていく。
そして。
私の意識は、完全に途切れた。
***
世界が歪んだ。
理が砕け、時が逆流する。
アミアの意識は、時間の奔流と暗闇の中を漂っていた。
(……ここは……?)
真っ暗な空間。何も見えない。何も聞こえない。
ただ、温かく、どこか懐かしい何かが、魂だけになった私を包んでいた。
(……光魔法……?)
私の中に眠っていた、未熟だと言われた光魔法の力。
それが今、意思を持ったように脈動し、私を守ろうとしている。
砕け散った時間の欠片を集め、死の淵から私を蘇らせようとしている。
そして――。
光が、眩く弾けた。
***
「――っ!」
私は、弾かれたように飛び起きた。
「はあ……はあ……はあ……ッ」
息が、荒い。酸素を求めて喉がひきつる。
心臓が、早鐘のように激しく肋骨を叩いている。
まるで、深い水底から急浮上して、水面を割った瞬間のように。
身体中が、嫌な汗でびっしょりと濡れていた。薄いブルーの寝巻きが、背中に張り付いて気持ち悪い。
手が、震える。視界が明滅する。
(……夢……?)
いや――違う。
あれは、夢なんかじゃない。あんなに鮮明な痛みと絶望が、夢であるはずがない。
本当に――私は、死んだんだ。
冷たく湿った地下牢の螺旋階段で。
シャドウが放った無数の氷の刃に身体を貫かれて。
自分の血の海に沈んで。
アメリアさんを――失って。
「……っ……」
涙が、溢れそうになる。
アメリアさんの最期の言葉が、耳にこびりついて離れない。
『……あなたと……出会えて……』
『……よかった……親友に……なれて……嬉しかっ……た……』
その声――死の間際でも、優しくて、温かかった声。
もう二度と――聞けないと思っていた声。
そして――お姉様の、あの時の絶望の顔。
地下牢の鉄格子の向こうで別れた時の、私を案じて泣いていたお姉様。
彼女は今頃、私が死んだとも知らずに処刑台へ――。
「……いや……っ……ぁ……」
私は、震える両手で顔を覆った。
嗚咽が漏れる。涙が止まらない。
全て、本当にあったことだ。私は間違いなく、あの場所で死んだはずだった。
……でも。
ふと、決定的な違和感に気がついた。
(……ここ……どこ……?)
私は、涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
周りを見回す。
見覚えのある、懐かしい部屋。
でも――地下牢じゃない。
冷たい石の床でも、血の匂いが充満する階段でもない。
柔らかいベッドの上。日向の匂いがする温かい毛布。
部屋を見回す。
右側には――大きな窓。朝の柔らかい光が差し込んでいる。
その横には――木製の、大きなクローゼット。
ベッドの目の前には――勉強机と、姿見の鏡。
(……この部屋……)
見覚えがある。
リィエル公爵家にある――私の部屋。
父が再婚して、七年前にこの屋敷に来てから、ずっと暮らしている私の城。
でも――いつの記憶だろう。
私は死んだはずなのに。
「……え……?」
私は、ゆっくりとベッドから降りた。
素足が、ふかふかとした柔らかい絨毯に触れる。
ふと、視界に入った自分の手を見る。
小さい。
細い指。
あどけない、幼い手。
十六歳の私の手じゃない。
(……まさか……)
心臓が、激しく跳ねる。
私は、ふらつく足で鏡の前へ歩いた。
一歩、また一歩――ゆっくりと。
そして――姿見の鏡を覗き込んだ。
「……っ!」
息を呑んだ。
鏡の中にいたのは――間違いなく、私だ。
でも――十六歳の私じゃない。
もっと、ずっと幼い。
十六歳の頃は腰まで伸ばしていたはずのライトブルーの髪が、今は切り揃えられたように肩までの長さしかない。
顔も幼い。透き通った緑色の瞳は同じだけれど、頬はふっくらとしていて、あどけない子供っぽさが残っている。
身長も低い。平均的な背丈にすら届いていない。
そして、薄い寝巻きの上からでも分かる体型。
十一歳という年齢にしては少し発育が良いのか、胸元には少女特有の、蕾のような慎ましくも柔らかなふくらみが見て取れた。
それは間違いなく、私が『十一歳だった頃』の身体だ。
(……これ……私……?)
私は、鏡に映る自分をじっと見つめた。
到底、信じられなかった。
けれど、これは現実だ。鏡は嘘をつかない。
恐る恐る、自分の頬に指を触れる。
柔らかい。温かい。確かに血が通っている。……私は、生きている。
震える喉から、声を出してみる。
「……あ……」
高い声。幼い声。
(……私……十一歳に……戻ってる……?)
指先が、小さく震えた。
鏡に映っているのは、間違いなく十一歳の私。
まだ、全てが起きる前だった。
魔法学園に入学する前。
お姉様が洗脳され、暴走してしまう前。
アメリアさんと出会い、そして死別する前の――何も知らない、あの頃の私だ。
(……死に戻り……?)
心の中で、物語のような言葉を呟いた。
あの光が、時を巻き戻したの?
(……もう一度……やり直せるって……こと……?)
涙が、じわりと溢れそうになる。
でも――今は、泣いている場合じゃない。
確認しなきゃ。本当に、過去に戻ったのか。
その時――。
コンコン。
扉をノックする音が聞こえた。
「アミアお嬢様、起きていらっしゃいますか?」
優しい声。
聞き覚えのある、とても懐かしい声。
「……はい」
か細い声で答える。
扉が開き、メイド服を着た女性が入ってきた。
茶色の髪を後ろで緩く結んだ、穏やかで優しそうな垂れ目の女性。
「おはようございます、アミアお嬢様」
その声は、柔らかかった。
「……リリナさん……」
その名前を、口にする。
リリナ。私が公爵家に来たばかりの幼い頃、ずっとお世話をしてくれていたメイド。
でも――確か、私が十四歳の時に別の屋敷へ異動になったはずだ。
それから、一度も会っていなかった。
(……リリナさんがここにいる……)
それが、ここが「十四歳より前」、つまり十一歳の世界だという動かぬ証拠。
本当に、戻ったんだ。
「アミアお嬢様? お顔色が優れませんが……大丈夫ですか?」
リリナさんが、心配そうに近づいてくる。
「だ、大丈夫です……少し、夢を見ただけで……」
「そうですか……。では、お着替えをお手伝いいたしましょうか?」
「あ、ありがとうございます……でも……」
私は、リリナさんを見た。
一番大切なことを、確かめなければならない。
震える声で、尋ねる。
「……あの……お姉様は……?」
「はい、ネフェリアお嬢様なら、隣のお部屋にいらっしゃいますよ」
リリナさんが、当然のように優しく答える。
「今、お着替え中だと思いますが――」
「……っ!」
私はもう我慢できなかった。
すぐ隣の部屋に、お姉様がいる。
――生きているのだ。
「アミアお嬢様!?」
リリナさんの驚いた声を背に、私は部屋を飛び出した。
素足のまま、廊下を走る。
絨毯の感触が、足の裏に伝わる。
隣の部屋――お姉様の部屋へ。
扉の前で、立ち止まる。
心臓が、口から飛び出しそうなくらい激しく跳ねている。
(……お姉様……)
(……本当に……いるの……?)
手が、震える。
もし、開けて誰もいなかったら。
もし、これが死が見せる幻覚だったら。
私は、震える手で扉をノックした。
トントン。
「……お姉様……?」
か細い声で、呼びかける。
しばらく――沈黙。
数秒が、永遠のように感じる。
ガチャリ。
そして――扉が開いた。
そこには、赤い髪の少女が立っていた。
燃えるような色彩。宝石のような赤い瞳。
十六歳の時のように長くはない。私と同じ肩までの長さに切り揃えられている。
十四歳……まだあどけなさは残るが、既に完成された美貌を持つ顔立ち。
身長は、私より少し高いくらい。ついさっきまで見ていた、あの目を見張るような長身ではなく、まだ成長の途中だ。
身にまとっているのは、薄い水色の、ゆったりとした寝間着。
胸元まではしっかりと布で隠されているけれど、その輪郭は私と同じく、年相応の、初々しくも柔らかなふくらみを感じさせた。
でも――間違いない。
首も繋がっている。
生きている。
「……あれ、どうしたのアミア。まだ着替えてないの?」
お姉様が、不思議そうに私を見た。
その声――優しくて、温かい声。
地下牢で聞いた、あの掠れた声じゃない。元気な声だ。
その瞬間。
私の脳裏に、時を渡る光が見せた「あの世界の最期」が、奔流となって流れ込んだ。
私が地下牢で死んだ後、地上で何が起きたのか。
光魔法が、私に「変えるべき未来」を見せたのだ。
――幻視が走る。
処刑台の上。拘束されたお姉様。
そこへ、蒼白な顔の衛兵が駆け寄る。
『地下牢で……アメリア・カーフェーン様が……死亡しておりました……!』
『アミア・レフィーナ様は……死亡されました……』
その報告を聞いた瞬間のお姉様の顔。
絶望。後悔。慟哭。
『アミア……! アミア……!』
『ごめんなさい……! ごめんなさい……!』
『私のせいで……!』
なりふり構わず泣き叫ぶお姉様。
そして――無慈悲な宣告。
『……執行せよ』
振り下ろされる銀色の斧。
鮮血。
転がり落ちる、大好きだった人の首。
『……これで……終わりだ……』
――光が見せた残酷な幻が終わる。
目の前には、五体満足で、綺麗な姿のままのお姉様がいる。
首も繋がっている。生きている。
「……お姉様……」
私は、涙を流しながら――お姉様に飛びついた。
「……え!? アミア!?」
お姉様が、驚いた声を上げる。
でも、すぐに私を受け止めてくれた。
「どうしたの!? 何かあったの!?」
私は、お姉様の胸で泣いた。
子供のように、声を上げて泣いた。
その温もりに触れた瞬間、脳裏に「あの時」の記憶が蘇る。
――地下牢の、冷たい鉄格子の前。
別れの時。
『血は繋がっていないけど……本当の妹以上に……大切だった……』
涙ながらにそう言ってくれたお姉様。
私はあの時、お姉様を抱きしめたかった。
最後にその温もりを感じて、「私も愛しています」と伝えたかった。
でも――できなかった。
冷たい鉄格子が、私たちを阻んだから。
両手には重い手錠が嵌められていたから。
伸ばした手は空を切り、無慈悲な衛兵に引き裂かれたから。
『抱きしめようとした、その時』――世界は終わってしまった。
(……でも、今は……)
私は、腕に力を込めた。
そこにあるのは、冷たい鉄じゃない。
温かい背中。トクトクと脈打つ鼓動。
遮るものは、何もない。
「アミア……?」
お姉様が、困ったように、でも優しく私の背中を撫でてくれる。
その手の温もりが――これが本物の現実だと教えてくれる。
(……届いた……)
(……やっと、抱きしめられた……)
お姉様は、生きている。
まだ、洗脳されていない。
まだ、暴走していない。
まだ、処刑されていない。
お姉様は……地下牢で言っていた。
『私は優しくなんかない』『全部演じていた偽物だ』って。
でも、違う。
今、私を抱きしめ返してくれるこの腕は、こんなにも温かい。
私を心配してくれるこの声は、こんなにも優しい。
これが、本当のお姉様だ。
(……もう……)
私は、お姉様の服を握りしめ、心の中で強く誓った。
(……誰も……失わせない……)
(……お姉様も……一度目で親友になってくれた、アメリアさんも……)
あんな、理不尽な死なんて絶対に認めない。私が、全部変えてみせる。
(……絶対……私が守る……)
そして――もう一つ。
脳裏に、憎悪すべき男の顔が浮かぶ。
(……シャドウ……)
鮮やかな緑色の髪。道化師のような三日月型の不気味な笑み。毒蛇のような冷たい目。
『僕のことはそうだな……マリオネット・シャドウとでも呼んでくれたまえ』
あの嘲るような声が、耳に残っている。
『そうだよ。邪魔だったから消した。それだけのことさ』
アメリアさんを殺した男。
お姉様を洗脳して、破滅させた男。
私を殺した男。
(……あなたに会ったら……)
私は、お姉様の背中で拳を握りしめた。
(……絶対に捕まえて……)
(……二度と、誰の未来も奪わせない……)
(……あなたの悪意を、私が終わらせる……)
復讐じゃない。
これは、大切な人たちを守るための戦いだ。
あんな悲劇は、もう二度と起こさせない。
今度こそ――全てを変える。
お姉様を救う。
アメリアさんを守る。
シャドウを倒す。
そして――奪われた未来を――私たちの手で取り戻す。
私は、お姉様をさらに強く抱きしめた。
壊れないように。二度と離さないように。
温かい。
生きている。
本物だ。
(……絶対……守る……)
心の中で、もう一度、強く誓った。
(……今度こそ……)




