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約束の星空

作者: ゼン

 



 かつて、小さな格子窓の向こうに見た空を。


 柵越しに、二人で分けた固すぎるパンの味を。


 あの日、交わした約束を。



「ねえ、覚えてる?」




 ☆☆☆




 スティカルン帝国の現王、クロード・ジェイ・スコーソンは、かつてヴァルハロン国の捕虜として牢に捕らえられていた。

 足を鎖で繋がれ、兵士に鬱憤の捌け口と言う名の暴力を受けた十二歳から十五歳までの四年間は屈辱的な日々だった。


 ただ、そんな日々の中、心休まる瞬間があった。

 それは見張りと世話係の目を盗み、三日おきにクロードに会いに来る女の子の存在だ。

 彼女は、サイズの合わない紺色のドレスの上に裾がほつれた薄手の外套を着て、籠を片手に会いに来た。


 籠の中には消毒液と綺麗な布があり、彼女はクロードが受けた傷を慎重すぎるほど丁寧に手当てした。

「ガーゼや包帯は兵士に気付かれるからできないの、ごめんね」と申し訳なさそうに言うあの子の声はいつも泣いているようだった。


 籠には食べ物と飲み物も入っていた。

 普段は一人分に満たないくらいのパンと水の量だったが、数か月に一~二度、甘味や肉の挟まったパンを嬉しそうに持ってきてくれた。

 その食事が彼女自身の一日分だったと気付いたときの胸の痛みを、クロードはいまも鮮明に覚えている。


 牢には小さな格子窓が付いており、そこから空が見えた。

 格子越しだが、あの空よりも美しい空をクロードは知らない。


 クロードは少女に星座を教えた。


 強い光を放つ中央の星が特徴で、旅人に正しい方向を示す、オライオン座。

 伝説の黄金の都市を象徴する、エルドラド座。

 旅人にとって富と冒険を象徴する、リュミナス座。

 星々が集まって形成されるオーロラ座。

 ほかにも、ゼファー座、ヴォルケーノ座、ミスティック座。


 いつか、ここから見えない星空を一緒に見に行こう──そう言ったクロードの言葉に、彼女は花が開くように笑った。無邪気に、心から楽しそうに。


 その時、クロードは初めて彼女の名前を教えてもらった。


 春に咲く、小さな花が房のように集まり、花弁が四つに分かれて開く花と同じ名を持つ少女の名前は──



「──リラ」


 目が覚めると、見慣れた悪趣味な天井画があった。


 亡き父の趣味で描かれた、見るたびに気が滅入る天井画を放置していたが、やはり塗りつぶすべきだったなと思いながら、クロードは寝台から身を起こした。


 鳥の声だけで、時間が分かる。

 まだ早朝だが、目が覚めたら起きると決めている。


 クロードは寝室に使用人を入れるのを厭う。

 着替えは人の手を借りずにするし、ベッドシーツも自分で変える。もちろん掃除も。

 仕事は寝室に持ち込まず、続き扉から通じる執務室で行う。寝室だけは腹心の部下すら入室を許さない。

 これは彼が十八歳を迎えた年に王に即位した日から変わっていない。


 執務室に入ると、すでにイライアスがクロードを待ち受けていた。

 イライアスは、幼馴染兼右腕である。


「おはようございます、陛下」


 にこやかに笑うイライアスの笑顔は、今日も今日とて胡散臭い。

 信頼はしているが、この笑顔に対する感想はおそらく、いや、生涯変わることがないとクロードは確信している。


「おはよう」

「分かっていると思いますが、本日は執務はありません。それと、すぐに婚礼衣装に着替えてもらいますよ」


 イライアスが早口で捲し立てたのは、クロードが「急ぎの書類は?」と言いかけたのを察したからだろう。


「……分かってる」

「いいえいいえ。分かっていませんでしたよ。本日は陛下の結婚式ですと何度も何度も申しましたのに」

「分かってる分かってる。ただ……分かるだろ?」

「分かりませんねえ。二回も繰り返すあたり図星ですよねえ?」


 イライアスが片頬だけでニヤリと笑う。


 なんて不遜極まりない右腕だろう、と思う一方、素の自分を見せられる数少ない人物でもあるので、本気で厭ってはいない。


「お前こそ、『いいえいいえ』『何度も何度も』と言っていた」

「分かりました分かりました、わたくしめが悪うございました。ほら、さっさと着替えますよ──式は三時間後です。あっ、今、三時間()あると思いましたね? 違いますからね? 三時間しか()ないんです。まったく。あなたの考えなんてお見通しですよ? ほらほら、急いでください」

「はいはい」



 長く対立してきたスティカルン帝国とヴァルハロン国。隣国でありながら、野心と資源をめぐる争いが積もり、やがて戦火を招いた。


 その戦いが始まったのは二十年前。

 発端は、スティカルン帝国の王がヴァルハロンへ侵攻し、それを阻止しようとヴァルハロン王が迎え撃ったことだった。

 戦火は広がり、戦線は幾度も塗り替えられ、都市は焼かれ、数えきれぬ命が奪われた。


 そしてついに、二十年目。両国の王は和平交渉を開始し、長引く戦争で疲弊した民を守る為に協議を重ねた。

 その結果、和平条約が結ばれることとなった。条約の一環として、ヴァルハロン国の姫がスティカルン帝国の王へ嫁ぐことが決められたのだ。


 二十年の戦いを経た国の姫を、民が素直に受け入れるはずもない。

 焼かれた都市や失われた命の記憶はなお鮮明で、人々の眼差しは彼女を『敵』としか映さないだろう。

 その視線には、クロードも加わる。

 かつて自らを捕虜とした国の王女を、愛することなど決してない。


 それでも、この結婚を受け入れた。十年前、牢の闇から自分を逃がしてくれた少女、リラの為に。


 ……あの子は、無事に逃げられただろうか?


 捕虜であるクロードを助ける為、イライアスを含む少数部隊が牢に突入した。

 その直前、リラは通路に姿を現し、兵士たちを引きつけて駆けていった。小柄な背が闇に消え、兵士たちも後を追う。

 わずかな隙にクロードは拘束を解かれた。


『こっち!』


 かつて彼女が小声で教えてくれた隠し通路が、まさか本当にあるとは思わなかった。

 兵士たちを撒いて戻ってきたリラが、血の気の引いた顔でクロードの手を取る。二人はその入口まで走った。


『私は大丈夫! あなたは逃げて……!』


 その声は震えていたが、瞳には強い決意が宿っていた。


 クロードは迷った。彼女を置いて行っていいのか、と。


 だが、その眼差しがすべての逡巡を断ち切り、クロードは通路へと身を投じた。


 闇を抜けた瞬間、肺を満たしたのは、二年ぶりの自由の匂いだった。


 立っていたのはイライアス。


 言葉を交わすより早く抱き合い、失われた年月をその温もりで確かめ、仲間たちと共に祖国への帰路についた。


 自由の風が頬を撫でても、胸の奥にはなおリラの声が残っていた。その痛みを抱えたまま戻った国では、玉座の王も第一王子も病に伏し、国は荒れ果てていた。


 荒れ果てた国では、人々の祈りが一つに集まった。


 そして、その声が呼び戻したのは、捕虜の地獄から生還し、なお志を曲げなかった第二王子──クロードであった。



 ☆



 教会の祭壇にて対面した花嫁は、花嫁らしからぬ黒のドレスと黒のベールをかぶっていた。

 婚礼衣装としては異例だが、それはヴァルハロン側が強硬に指定してきたものだ。

 分厚い黒のベールは輪郭すら覆い隠し、クロードには年齢も表情も窺えなかった。


 和平の象徴であるはずの婚礼で、このような異例の装いが許されたのは、スティカルン側が和平を優先し、渋々その要求を受け入れたからだ。

 クロードも和平の場を荒立てたくなく、あえて問い質さなかった。


 厚いベールで終始顔が隠されていることに違和感は覚えたが、政治の場で深く踏み込む気にはならない。


 感情も表情も見えない花嫁は、誓いの言葉を言う瞬間ですら側にヴァルハロン国の介添え人を付け、まるでこの結婚が不服であると言っているようだった。


 いや、実際、不服だったのだろう。


 ずいぶんと侮られたものだと思いながら、クロードは冷たい青の瞳で黒衣の新婦を見下ろす。


 甘やかされ、傲慢に育った女だと蔑みの気持ちが沸き、関心を払う価値すらないと心のどこかで切り捨てていた。


 もはや、彼女の態度などどうでもいい。


 この花嫁とは子は成さないと会議で決定している。


 そもそも、この花嫁はヴァルハロン国がどうしてもと言って寄越してきただけで、こちらは女よりも土地が欲しかった。


 あちらが土地よりも価値がある宝を渡しますと言って、無理やりに渡してきた花嫁は、ヴァルハロン国にとっては宝だろうが、クロードにとってはただの荷物でしかない。


 だから式を終えた夜──初夜に、言ったのだ。


「俺はあなたを愛するつもりはない。あなたも俺を愛さなくていい」


 クロードが宣言する前に「よろしくお願いします」と言った女の声は思ったよりも可憐なものだった。


 可憐だなんて女に対して思ったことなどほとんどなかったというのに、どうしてだろうと思ったが、次の瞬間には、媚び売り女の手管に嗤った。


「……え」


 いかにも、ショックを受けたような声。大した役者である。


「冷遇するつもりはない。使用人でも愛人でもヴァルハロン国から何人でも連れてきてもいい。部屋も希望通りの場所に移動してもいい。予算以内ならドレスも宝石も何でも買っていい。ただし、子は孕むな。もし──」

「承知いたしました、陛下」


 ヴァルハロン国の姫──数時間前に妻になった女、エウフェミアーナ・オブ・ディクスは、クロードの言葉を遮った。


 その声は、諦めの色をまとっていた。




 ☆☆☆




 結婚から五年目の冬。初雪が降った日。


 その報せは、夜半に届いた。

 形だけの妻──ヴァルハロン国の姫、エウフェミアーナが急逝したと。


「面倒な」

 クロードは思わず低く呟いた。


 たった五年でエウフェミアーナが死ねば、ヴァルハロン国が騒ぐ。

 それが面倒だった。


 式の後、義務感から何度か食事に誘ったこともあった。

 だが十数回も続けて断られてからは、義理で誘う気すら失せた。

 以後は互いに干渉せず、ただ書類上の夫婦として過ごしてきた。


 公務には一切出たがらず、屋敷の外に足を踏み出すこともない。

 それなのに流行のアクセサリーは欲しがり、甘い菓子を取り寄せるよう命じる──そんな我儘ばかりを言い、しかもその報告のすべてをヴァルハロンから連れてきた侍女を通して伝えられていた。


 クロードが直接言葉を交わすことはほとんどなく、ただ疎ましい存在として扱うしかなかった。


 最初から、ただの政略の駒。


 だから、死んだところで何の感情も湧くはずがない。


 ただ、死因を言い淀む彼女付きの使用人たちの態度が気になった。

 侍医の名を問うても誰も答えない。診察の記録もない。

 何が原因かと訊いても、「私どもも分かりませぬ」と震えた声ばかり。


 クロードは、何度目かの溜め息を吐き、妻だった女の死に顔を見に行くことにした。

 途中、彼女付きの使用人たちに止められたが、それを押しのけ彼女の部屋に向かった。

 止めに入ったのも全員ヴァルハロンの者で、帝国の使用人は一人も見当たらない。その偏りが、説明のつかないざらつきを残した。


 部屋はどんよりと暗い北側の部屋だった。


 クロードは首を傾げた。部屋は妻の好きな場所にしていいと伝えていた。

 報告も南側の『百合の間』と上がっていた。それなのに、案内されたのは北側。


 なぜ食い違うのか──この時のクロードには分からなかった。


 後になって分かったのは、ヴァルハロンの侍女たちが金品や王妃宛ての贈り物を横流しし、虚偽の報告を上げていたことだった。

 贅沢に暮らしているかのように見せかけ、実際には彼女を北側の冷たい部屋に閉じ込めていたのだ。


「一体どういうことだ?」


 振り向くと、使用人頭の女がカタカタと震え、そのまま失神した。


「この女が起きたら尋問しろ。至急、侍医を呼べ。遺体には触れるな。記録を取れ」

「はっ」


 クロードは舌打ちをして、奥に進む。


 一度も入室したことのない妻の寝室はやはりどんよりとしていて、埃っぽかった。

 何やら腐った食べ物の匂いもする。



 妻は、五年前同様に分厚いベールをしたまま硬そうな寝台に横たわっていた。


 ベールを外すと、冷たくなった妻の顔がクロードの目の前に晒された。


 胸の奥にざらつくような違和感が走る。


 どこかで、見たことがある──既視感?


 その理由は分からない。ただ強く心を掻き乱す。


 痩せた頬、額と首に残る痣……。

 視線を逸らそうとして、それでもどうしても耳の後ろで止まった。


 そこにあったのは、三つ並んだ小さなほくろ。


『私にも耳の後ろに星座があるの。ほら、見て?』


  牢の格子窓から差し込む光の下、リラは髪をかき上げた。


『ああ、本当だ、トリニティ・ガーディアンズがあるな』


 トリニティ・ガーディアンズは、三つの星が連なる『三連の守護者』と呼ばれる星座で、古くから誓いを護り、時をめぐらせると伝えられていた。


「……リ、ラ?」


 かすれた声で呼びかけても、彼女はもう何も応えない。


 クロードの頭の中で、過去の記憶が一気に蘇る。


 小さな格子窓から見た星空。

 三日おきに訪れた少女の優しい手。

 傷の手当てをしてくれた指先。

 分け合った甘味を頬張って幸せそうに笑う顔。


『いつか、二人で星を見に行こう』


 そう約束した日の、あの笑顔。


 ……どうして。


 どうして気付かなかった?


 彼女が黒のドレスと分厚いベールを選んだ理由も、誓いの言葉ですら介添え人をつけていた理由も。


 ……着せられていた?


 痣や傷を隠す為に?


 そして、監視されていた?


 沈黙を強いる為に?


 答えは、今、目の前に転がっていた。


 リラは、ヴァルハロン国に捨てられたのだ。


 ヴァルハロン国にいるもう一人の姫は先月、自国の侯爵家に降嫁していた。

 あれこそが、本当の末の姫だったのではないか?


 昔から囁かれていた、ヴァルハロン国王が『市井の女』を宮に囲っていたという噂。

 彼女は平民の出で、教養もなく、ただ生まれつき人の目を惹くほどの美貌を持っていたという。王が一時の気の迷いで手をつけたその女。


 もしそれが真実なら、リラはその女の──愛妾の娘。


 目眩を感じた。


 リラは『不要な姫』として自由を奪われ、『宝』という名目で敵国に差し出され、そして死んだ。使用人たちに虐待され、誰からも守られることなく。

 腕の細さを見れば、食事もまともなものを与えられていなかったことは明白だった。


 心の奥にあった「あの子は無事に逃げられただろうか?」という長年の問いが、最悪の形で答えを突きつける。


 初夜の夜、使用人は彼女の側にいなかった。あれが、最初で最後のチャンスだった。


 あの時、ベールを上げていれば。

 拒まれても、食事の誘いを続けていれば。

 彼女の部屋を訪れていれば。


「……っ!!」


 喉の奥から声にならない何かが漏れる。

 だが、それすら押し殺すように、クロードは歯を食いしばった。


 泣く資格などない。


 彼女がどんな気持ちで、この五年を過ごしたのか。

 どんな想いで、自分の前に立ち、沈黙を貫いたのか。


 そして、どんな気持ちでこの世を去ったのか。


 クロードは何一つ知らない。

 知ろうとしなかった。

 知る機会はいくらでもあったのに、愚かにも手放した。


 掌から零れ落ちた命は、宝は、もう二度と戻らない。


 誰かが「陛下?」と不安げに声をかけてきた。

 だが、クロードは応えなかった。

 いや、応えられなかった。


 血が滲むほど拳を握りしめ、クロードは彼女の名を掠れた声で呼んだ。


 返事は返ってこなかった。




 ☆☆☆




 夜空を見上げると、無数の星々が闇を照らしていた。


 その美しい光景が心に深い安らぎをもたらすも、それは同時に彼女が隣にいないことを実感させる。


 美しい星空を一緒に見たかった。

 心の中で呟く。


 彼女と過ごした日々の記憶が蘇り、胸に温かな感情と同時に後悔が広がる。

 涙が頬を伝うが、その手で拭い、再び夜空を見上げる。


 クロードは本日、退位した。


 新たにスティカルン帝国の王に即位したのはイライアスの息子。

 血の繋がりはないが、クロードがこの世で一等信じられる男の子供であり、さらに母方の家系は王家の分家に連なっていた。

 形式上の正統性はそれで整い、反対の声も出はしたが次第に収まった。


 側妃にはリラが亡くなった翌日に暇を出した。

 子は幸いなことにいない。そうなるように、クロードが強く望み、押し通した。

 当然反対の声はあった。

 だが、クロードは王の権威を振りかざし、かつてないほど強硬な姿勢を取った。


 異論は認めない、と。


 そう言い切った時の廷臣たちの顔は、今でも鮮明に思い出せる。

 彼らが何を言おうと、この決定だけは覆させるつもりはなかった。


 あの後──リラが亡くなってきっかり三年後。ヴァルハロン国は、スティカルン帝国の属国となった。


 ヴァルハロン国は、庶子を宝と偽り、和平の証として差し出した。

 その娘には『リラ』という名を捨てさせ、嫁入りの際に『エウフェミアーナ』という姫らしい長名を押し付けた。


 表向きには正嫡の姫を差し出した体裁を取り繕ったが、王家から祝福の言葉はなく、婚礼に立ち会ったのも使用人ばかりだった。


 ヴァルハロンにとって、彼女は最初から不要な駒にすぎなかったのだ。


 リラの訃報に、王家は悲嘆を装いながらも、抗議も弔問も寄越さなかった。

 王家の無関心は、スティカルン帝国を侮るに等しい。


 クロードはその屈辱を逃さず、再戦を仄めかして圧力をかけ、ついにヴァルハロンを属国の地位へと追い込んだ。


 今はヴァルハロン国は、ヴァル領と名を変え、王家は監視の下で名ばかりの領主の座に身を置かせている。


 復讐にしては生温い結末だ。


 本当は、旧ヴァルハロン国の王族を処刑してやりたかった。

 だが、それは新たな復讐を生むことになる。

 それに、彼女は、それを望まない気がした。


 クロードは目を閉じた。


 瞼の裏には、あの三つ星。


 リラが見上げて、嬉しそうに笑った星。


 守護の星。


 もしあれが時をめぐらせるのなら、どうか一度でいい。

 もう一度、光の下で彼女に会わせてほしい。


 償いでも復讐でもなく、ただ、彼女を──


「……リラ」



 毒を口にした刹那。世界が崩れ落ち、すべての音が遠のいた。

 そして、視界が音もなく砕け散った。


 喉を焼く苦味が逆流し、肺を裂くような咳が迸る。

 耳鳴りが轟音のように頭を満たし、視界は白と黒の閃光で弾け飛んだ。

 骨が砕けるほどの痙攣に全身が跳ね、血と唾と涙が口から溢れる。


 そのすべてが遠ざかり、意識が深い闇に引きずり込まれた。


 そして次に瞼を開いた時、目の前にあったのは久しく目にする趣味の悪い寝室の天井画だった。


 何が、起こったのだろう。


 息を荒げながら、寝台の上で身を起こす。


 周囲を見渡せば、窓の外は薄明るく、鳥がさえずっていた。


 髪をかき上げると、手の平に当たる肌に張りを感じた。

 慌てて手を見ると、皺がない。

 そして、最近腕にできた傷が消えていた。


 酷い不眠のせいで慢性的に感じる頭の痛みも感じない。

 視界も信じられないほどクリアだ。書類仕事が捗ることは間違いないだろう。


 しかし、この状況は理解できない。


 何が何だか分からないまま部屋を見渡せば、違和感しか感じないのだ。


 立ち上がり、鏡を見ると、そこに映っているのは青年だった。

 二十年以上前の自分に酷似している……いや、間違いなく自分である。


 クロードは混乱した。

 訳が分からない。


 シャツを羽織っただけで隣の執務室に入ると──


「おはようございます、陛下」

「……………………イ、ライ、アス?」


 若き日の右腕が胡散臭い笑みを浮かべていた。

 クロードの背筋を、冷たい汗が伝う。


 自分はこの光景を知っている。


 この言葉、この朝、この流れ。

 確かに経験したものだ。

 間違いない。


 これはリラとの結婚式の朝だ。


「分かっていると思いますが、本日は執務はありません。それと、すぐに婚礼衣装に着替えてもらいますよ」


 イライアスはいつも通りの調子で言う。


「イライアス」

「なんです?」

「……間に合う……俺は、間に合うんだよな!?」

「? 一体何の話で──」

「間に合うんだ!!」


 クロードは荒い息をつき、続ける。


「すぐにヴァルハロン国の姫に会う! 式の前に!!」


 イライアスは 一瞬、目を丸くした。


「は、はあ? 何言ってるんですか?」


 当然の反応だった。


 クロード自身も、昨日までの自分なら絶対にしなかったことだと分かっている。

 だが、迷っている暇はない。

 リラが、またあの黒衣の花嫁として冷たい瞳を向けられる前に──


「式まで、あと三時間しかない!」

「えっ、あっ、ちょっと! 陛下ぁ!?」


 クロードは急ぎ、寝室を飛び出した。


 彼が向かう先は花嫁の部屋。



 リラのもとへ。




 ★★★




 黒のドレスは重かった。

 裾を引きずるほど長く、歩くたびに絡みつく布地はリラを押しつぶす檻のよう。

 分厚いベールが顔を覆い、視界は曇る。喉がひどく渇いていた。


「エウフェミアーナ様」


 背後で、介添え人──否、監視役の女が低く囁いたのは、リラに与えられた新たな名前だった。

 儚くなった母が好きだった花の名前は、平民に多い名前だからと嫁入りの際に変えられた。


「ヴァルハロン国王は慈悲をくださったのです。あなたのような出来損ないに機会を与えたのですよ」


 声色は柔らかいのに、紡がれる言葉は攻撃的だ。

 返事をせずにいると、乱暴に腕を引かれた。


「光栄に思ってくださいね。国王の恩を仇で返すような真似をすれば──」


 その時だった。廊下の向こうから何かが駆ける音が聞こえた。次いで扉が荒々しく押し開けられ、冷えた空気が流れ込む。


「──リラ!」


 呼びかけと同時に、黒髪の男が飛び込んできた。護衛すら従えず、ただ一人、息を切らして。


 スティカルン帝国の王──クロード・ジェイ・スコーソン。


 十年前、捕虜だった男の子。

 リラに星座を教えてくれた、初恋の人。


 その彼が、今、自分の名を呼んだ。


 リラの胸が、痛いほどに跳ねる。

 まるで、忘れかけていた心臓の音が一気に蘇ったようで、息が少し苦しい。


「クロード……?」

 かすれた声が、唇から零れた。


 まさか、彼が自分に気付いてくれるなんて。


 ──あの頃、リラは誰かと話したかった。

 三日に一度だけ、見張りの隙を縫って牢を訪ねたのは、それだけの理由。


 誰も自分を見ようとしない世界で、彼だけが言葉をくれた。星を読んでくれた。笑いかけ、名を呼んで、約束をくれた。


 あの時間が、リラにとって唯一『生きている』と感じられる瞬間だった。

 だけど、あの幸せな感覚は、もう二度と味わうことはないと思っていた。


 なのに、名を捨てさせられた今、奇跡のようなことが起きている。


 夢なら、覚めないでほしい。

 それか、寝ている間に死んでしまいたい。


「リラ」

「……っ、エ、エウフェミアーナ様でございます!」

 女の声を遮るように、クロードが低く言った。

「どけ」


 監視役の女がまた何かを言おうとしたが、クロードは目もくれない。まっすぐにリラへ歩み寄り、ベールを掴んで恭しく払った。


 視界が開け、光が差し込んだ。


 クロードの蒼い瞳が、自分だけを映す。『リラ』を見ている。


 長い長い時間を越えて、再び向けられたその視線に、リラの胸の奥が張り裂けるほどに熱くなる。


 ずっと、ずっと、会いたかった。

 あの日から、どれほどの夜を超えて、この人を思っただろう。


 クロードは息を吐くと、ゆっくりと手を伸ばし、リラの頬を撫で、涙の雫をその指先がすくい取る。


 驚愕に固まる女たちといつの間にかいた彼の側近であろう男が声を上げるのを余所に、クロードは短く息を吐き、静かに言う。


「すぐに着替えを用意しよう、君に黒は似合わない」


 低く、優しい声が降る。

 それだけで、リラの胸が、痛いほどに締めつけられた。


 クロードは微笑み、続ける。


「……会いたかった。ずっと、ずっと、会いたかった」




 結婚式は、一時間遅れて始まった。


 リラの黒いドレスは、式の直前に純白のものへと変えられた。

 それを見たクロードは「よく似合う」と言い、それから申し訳なさそうに「ありものでごめん」と言った。


 初めて袖を通す美しい白のドレスを着た鏡に映る自分は、別人のようで、どこか現実感がなかった。

 けれど、隣に立つクロードの手が、しっかりと自分の手を取る。その温もりは、確かに現実だった。


 誓いの言葉を交わす瞬間、クロードがリラを見た。

 彼の瞳が「大丈夫」と語るように、穏やかに細められる。

 だから、リラは震える唇を噛みしめ、小さく頷いた。

 彼の隣に立つ今、この胸の奥を満たしているものが、確かにそれだと分かる。

 誓いの口付けを交わした時、幸せすぎて眩暈がした。


 クロードが額に唇を落とし、小さく囁く。


「必ず幸せにすると、誓う」


 優しく、温かく、あの日、牢の中で星を語り合った夜のように。


 リラは、初めて知った。

 涙は、必ずしも悲しい時に流すものではないことを。




 ☆☆☆




 夜空は深い静寂に包まれ、星々が瞬いていた。

 地平線の果てまで広がる闇を縫うように、無数の光が細やかにきらめく。


 その中でも、ひときわ強く光を放つ星があった。


 旅人の道標となるオライオン座。

 三つの星が連なり、人々を見守る守護の星──トリニティ・ガーディアンズ。

 彼らは、変わらずそこにいる。

 十年前も、昨日も、そして今日も。

 どれほどの時が流れようとも、星々はただ空に在り続ける。

 きっと、これからも。

 未来の果てまで。



「……圧巻だな」


 クロードはゆっくりと息を吐いた。隣にいるリラも、同じ空を見上げている。

 風がふわりと彼女の髪を揺らし、その横顔を優しく撫でた。


「ねえ、覚えてる?」


 リラが小さく笑う。


「ん? 何を?」

「あの牢の小さな格子窓から見えた空」

「ああ、覚えてるよ」

「今日の星空と、どっちが綺麗?」

「うーん……」


 クロードは目を閉じた。


 狭い窓の向こう、切り取られた夜空。

 その星々に、たった一つの夢を託したあの日。

 けれど、あの夜よりも、今の空のほうがずっと美しい。


 目を開けると、星の光がリラの瞳の奥で揺れていた。


「この星が一番綺麗かな」

「気障だね、ふふふ!」

「本当のことだよ」


 クロードがそう言うと、リラが花が咲いたようにパッと笑った。


 夜空は広い。

 どこまでも、どこまでも続いている。


 この星々が輝く限り、今日という日は終わらない。


 満天の星を仰ぎ、やがて互いの瞳へと視線を戻す。


 星明かりの下で、二人は顔を寄せ合い、唇を重ねた。




 ◇




 スティカルン帝国王クロードと后リラの婚姻は、両国の戦を終息せしめ、和平を確立したと記録されている。


 この事蹟は後世において恋愛劇『白き花嫁』の題材となり、宮廷および市井に広く流布した。


 また、王が政務の合間にも后の居室を訪れ、「后の笑顔こそ国の安寧」と述べたという記録が残る。

 その愛情深さゆえ、臣下たちは密かに王を『愛妻王』と称え、国民の間では夫妻をかたどった星形の護符が国の守りとして長く伝えられた。




【完】

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