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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第1章 緑の指輪
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第4話

 ようやく出血が止まったアスターは、バケツの縁へ雑巾を二枚かけ、もたつきながら階段を上がった。他の仕事に手をつける前に、不本意に垂らした赤い模様を拭きとらねば。そう考えたアスターだったが、確かに滴ったはずの血痕は、大きな目をいくら凝らしても見当たらなかった。


「見間違い? でも、そんなはずは……」


 慎重に後ずさり、角部屋へ通じる扉の前まで続く、短い道筋を辿ってみる。やはり、つい先ほど汚したばかりだと記憶している床板のどこにも、それらしい朱色は存在しない。


 脳内が疑問符で満たされたまま顔を上げたアスターは、正面に鎮座する客室の扉を眺めた。半刻ほど前に部屋へ案内した、無愛想な男性のことが頭によぎる。


――あたしの代わりに、拭ってくれた?


 右耳を扉に沿わせてみても、目立った物音は拾えない。ためらいがちに三度行ったノックに対してすら、中からの反応はなかった。


「し、失礼します」


 右手でバケツを持ち、左手で軋む真鍮のドアノブを回せば、廊下と部屋とを隔てていた扉は容易に開く。安宿の中では家具が最も充実している一室は、その広さも他の部屋とは違っていて、狭苦しい印象は受けない。壁に沿って置かれた長机では、揃いの木椅子に腰かけた男が、羽毛を取り去った羽根ペンで手帳に何かを書きつけている。使用人を視線だけで一瞥した彼は、気怠げな声で「何か用かい」とだけ尋ねた。


「あの……。旦那さまが、廊下を綺麗にしてくださったんですか」

「……その大仰な呼び方、どうにかならんのかね」


 浅い溜め息をつきながら、彼は、左手の人差し指でこめかみを掻いている。


「ローリエだ。そっちで呼んでくれた方が、俺も気付ける」

「そんな、お名前でなんて! それが許されるのは、家族とか、同郷とか、長い付き合いの方だけでしょう?」


 アスターは、青くした顔を左右へ振った。その素振りのせいで、せっかく整えた前髪が乱れつつあることに気が付いてからは、慌てて毛先の向きを直し始めている。頬の曲線に黒い束が再び擦れて、少女の動きは落ち着いた。


「あ、あとは、目上の人から下々に、とか……。とにかく、旦那さまに気安くしようものなら、あたしは女将さんになじられます」


 雄牛の角を削って作られたインク壺に、ペン先が潜る。容器の縁で余分なインクを削ぎ落したローリエは、手元の作業を再開した。筆記用具の他、机上へ積み重ねられた本たちは、彼が革袋に詰めてきたものだろうと察せられる。本の表紙へしたためられたタイトルを、アスターが解読することは叶わなかった。


「……では、おじさま、と」

「お前さんは?」

「あたしですか? アスター、といいます」


 しん、と、会話が止む。居心地の悪さを得ているのは少女だけのようで、羽根ペンによってさらさらと書き込まれる、軽い音ばかりが部屋に染み入る。ローリエは、もはやアスターを見ていなかった。


「……お、おじさまの邪魔はしませんので、部屋の掃除をさせてください」

「はいよ。好きにしてくれ」


――なんというか、独特の空気がある人だなあ。


 窓を開き、埃の逃げ口を作る。幸いにも風は柔らかで、手帳のページを舞い上げることはないだろう。古着から作った布はたきを腰元から抜き、棚の上を軽く叩く。客の荷物を入れられるよう、あらかじめ空の状態で置かれている大型のインテリアには今、背幅も丈も装丁もまちまちな本たちが押し込められている。ベッドの上に横たわる革袋は、高価な羊皮紙をふんだんに使った本という貴重品を吐き出し終えて、平たく萎んでいた。捲れていた掛け布団の端を直し、両手で皺を伸ばす。予備の布巾をカートルのポケットから取り出して、ベッドサイドテーブルの上に敷く。畳み直した革袋を五つ分、即席で整えた机上へ並べた。


 水にくぐらせ、堅く絞った雑巾でサッシを拭き、乾いたもう一枚で水気を取る。同じ作業を手の届く家具に施していけば、あっという間にバケツの中身は黒ずんだ。ここ半年は使われていない部屋だったがために、無意識に掃除の手を疎かにしていた彼女の実績が、容赦なく露わになっている。


――あとは、おじさまが出かけている時にしよう。


 立ち止まって行う家具の手入れとは異なり、靴底で汚れた床の掃除をするとなれば、どうしても傍目には煩くなる。黙々と作業を進めている、ローリエの手を止めさせるのは忍びない。掃除用具を片付けたアスターは、彼へ作業終わりの挨拶をするために、長机へと近寄った。


 その時、少女の目が吸い寄せられたのは、滑らかに書き連ねられていく文字の数々だった。見知った大人たちはもちろん、アスター自身にも扱うことのできない記号が羅列されていく様が珍しく、前髪で隠されていない左目が釘付けになる。崩されて丸くなった角と、隣接した文字を一筆書きする癖とが相まって、ローリエが綴る言葉は模様としても楽しめた。


――昔、お父さんに教わっていた頃は、多少なりとも読めていたのだけど。


 聖書の内容を人形に語り聞かせられる程度には積み重なっていた少女の学は、衰えて久しい。孤児へ読み書きの習得を求め、それが叶えられるだけの教材を贈るような人間は、彼女の周りに一人もいなかったのだった。水で冷えた手に握り込まれて、白いエプロンの裾に皺が寄る。


「お前さん、私塾で手習いでも受けてんのかい。ここいらに学校はないはずだろ」


 横目でローリエから質問を投げかけられたアスターは、慌てて首を横に振った。


「ごめんなさい。ただ、気になって」


 すぐに謝罪をしたものの、その眼差しは、見開き一杯に並んだ文字の群れへと再び引き寄せられていく。インクの乾燥を待っている彼は、ページを捲ることも、少女を咎めることもせず、眠たげに目元を伏せるばかりだ。


「……少しなら、教えてやろうか」


 ペン先を雑に拭った筆記具が、机上に置かれる。節くれだった人差し指と中指の間を、乳白色のしなやかな棒が転がった。


「いいんですか?」

「熱心に盗み見られて、紙に穴が開くよりはな」

「……羊皮紙は、眺めすぎても傷むものなんですね」


 知らなかったです、と裏表なしに感心するアスターの隣で、彼は浅い溜め息をつく。くたびれた革袋の内側へと放られた、赤褐色に染まっているハンカチを、少女が目にすることはついぞなかった。

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