第35話
地上へ戻るため、アスターは、深層から壁画のもとまで独り歩いた。彼女が作り出した悪魔と、ブランシュたちの間で起きた衝突により、遺跡は少しずつ崩落を始めている。最初こそ、小ぶりな氷柱や石が天井から降ってくる程度で済んでいた落下物は、次第に大きくなりつつあった。松明を携える気力もなくし、僅かな鉱石の灯りを頼りにとぼとぼと歩いた少女は、ローリエが蹲っている壁際に膝をつける。瞼を閉じた彼の胸部は、呼吸による運動をしていない。心臓の辺りに耳をつけても音が聞こえないのは、アスターが素人であることが悪いのか、一時的に気を失っている場合は、誰しもこうなるのか。あるいは、本当に、最悪を防ぐことができなかった結果なのか。それらを冷静に判断できるだけの余裕は、つい先ほどまで悪意に晒され、これからの責務に気負いする少女の頭にはなかった。
「……おじさま?」
もう一度、呼んでみる。どうかしたのか、といつでも訊ね返してくれた彼の声は、ない。そうこうしている間にも、洞窟が崩れていく騒音は増す一方で、このままでは、生き埋めになってしまいそうだった。
――置いてはいけない。絶対に。
アスターは、彼の肩に腕を差しこみ、立ち上がろうとした。しかし、細身な少女が備えている、年相応にささやかな力では、大柄な男性を引きずって歩くことが、どうしてもできない。無理を承知で、顔を真っ赤にして数歩だけ進んでみせた彼女は、常ならば転ぶことはない小さな凹凸に爪先をとられた。腕を回していた荷物共々、揺れる地面の上に倒れこむ。その拍子に、アスターの頬を小石が切って、熱い線が刻まれた。折れかけた心根から滲む涙を、少女は自ら拭い去った。
――泣いたって、どうにもならないんだから!
意識のないローリエの下から這い出し、もう一度、彼を担って運び出そうと膝を折る。持ち上げた腕の冷たさが、振り払おうとする臆病の表面を撫でる。こつり、と背中を叩いたものに対して、アスターは洞窟の一片だろうと考え、構わずに救助を続けようとした。
こつり。
こつ、こつ、ごつ。
「な、何……?」
流そうとした背後の軽い衝撃は、止む気配がない。同じ場所に何度も落石がある確率は、さほど高くないはずだ。
――まさか、騎士団の生き残りがいるの?
けれども、攻撃と形容するには、衝撃が弱すぎる。気が散ってしまったアスターは、仕方なく後ろを振り返ってみた。すると、そこには、悪魔とよく似た造形の、一体のドラゴンが佇んでいた。目と鼻の先には、鋭く尖った牙が迫っている。
「きゃあっ!」
思わず尻もちをついた少女の頬を、薄く大きな舌が舐め上げる。クルル、と喉奥から甘えた声を出す魔獣は、右目が潰されているらしい。ぱっちりと丸く見開かれた左目は、鮮やかな緑色だった。
「……あなた、村に連れてこられていた、子どものドラゴンね?」
大人一人分ほどの全長で、親よりも随分と身軽な彼は、ご機嫌に尻尾を振っている。海の向こうに飛び去ったはずの親子のうち、その片割れがどうして遺跡に辿り着いたのかと、アスターは眉間を狭めた。
「さっきの幻影を見て、飛んできてくれたとか……?」
ドラゴンは答えない。初めて彼らと邂逅した、村の噴水広場からの脱出劇の際にも、人語を解しているのは親の個体のみらしかった。帝国で使われている言葉は一通り覚えたアスターにも、ドラゴンが何を言っているのかは分からない。異種族間の壁は厚く、彼の親が特例だったのだと、今更ながらに思い知った。
壁画に近寄ったドラゴンは、発光する宝石が気になるらしい。いささか光が弱まった王の目からは興味をすぐに失って、隣に描かれた王妃の顔周りに鼻先を寄せている。
「あのね、ここはもうすぐ崩れるの。あたしたちと一緒に、外へ出よう」
伝わらないとは知りつつも、アスターは片目の彼に声をかけた。案の定、あまり注意は引けなかったようで、ドラゴンは相も変わらず壁を検め続けている。剥がれた岩盤が、洞窟の目視できる一番奥を押し潰して、鉱石たちが姿を消した。いよいよ差し迫った生き埋めの可能性に、少女の項が汗ばむ。黒くて硬い尾の付け根を引っ張っても、ローリエ以上にびくともしない。
「危ないから、遊んでないで出口に行ってってば!」
どうしても動く気配がない魔獣から手を離し、アスターは洞窟の奥と出口とを交互に見遣る。この場に至るまで、多くの分かれ道が部外者避けにあったことを考えると、これ以上は待てない。曲がりくねった道は、相応の長さを得てしまっている。
――でも、やっぱり、置いていくなんてできない。
目的は固まっていれども、手段に迷う少女をよそに、ドラゴンは口を開いた。鋭利な牙は、壁画の一部を削り取り、抉った分をそのまま呑みこんでしまった。
「え? ど、どうしたの……?」
戸惑いながら見上げた魔獣の頭部には、一対の角が生えている。ほのかに燐光を発していたそれが、段々と光の強さを増していくのは、アスターの見間違いではなかった。目を開けていられないほどの眩しさで、少女は咄嗟に顔を逸らす。
徐々に光源が弱まるのを待ってから、薄く開いた目で覗き見る。するとそこには、逞しい体躯へと成長を遂げた、右目の潰れているドラゴンが佇んでいた。
「あ、あなた……さっきの子、よね」
やや低い鳴き声で、グルル、と甘えているかのように返される。片目に傷があることを除けば、眼前のドラゴンは親の姿と瓜二つだった。
――王妃の瞳に埋めこまれていた宝石の魔力で、成長が促されたんだ!
ドラゴンという種族は、クロワ帝国の聖書が編纂されるよりも前から存在する、原初の生き物だ。彼らならば、太古より地脈を巡っている力を吸い上げた鉱石を、自身の胃で消化できるという可能性は捨てきれない。ドラゴンが、時折「魔獣」と称される所以を、アスターはここで垣間見た。
成長した彼は、目を白黒させるアスターと、動かないローリエを順番に咥えて、広くなった自分の背に乗せた。先程まで人間たちがいた場所に、武骨で巨大な瓦礫が落ちる。ついに空間を支えきれなくなった岩石が、ラディチェの遺跡を壊していく。崇められ、生活の糧にされてきた鉱石たちと心中しかけた一行は、ドラゴンの力強い飛翔によって、間一髪、発掘されない化石となる未来を防いだのだった。




