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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第4章 緑の亡国
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第34話

「おじさま!」


 ローリエのもとへと駆けたアスターが、血だまりを踏む。革のブーツを浸す彼の血液は、致死量に達している。駄々をこねる幼子のように、嫌々と首を振る彼女は、瞼が重そうな彼の頬を包み込んだ。


『断髪の必要がなくて、助かりました』


 縄と一緒に切れた両腕から垂れる赤と、ついに彼女の目から溢れた透明が、二人の足元で混ざっていく。ローリエは、慈しむような眼差しで、少女の背に左腕を回した。


「あ……。右目の、色が……」


 琥珀色だったはずの彼の瞳は、アスターと同じ色彩に染まっていた。霞んでいるのだろうか、彼の右目は、耳や鼻、眉といった目元を数秒さまよってから、ようやく少女の視線とかちあった。


「お揃い、だな」


 優しげに微笑む彼のことが、嫌いになりそうだった。ずり落ちていく右手が、壁画の目から離れて、下へ下へと線を引く。幻影が消えて、現実だけが眼前に横たわる。壁に沿って崩れていく身体に、どれほど強く呼びかけても、指先の一本すら動こうとはしない。氷のような指先は、アスターの泣き濡れた手を握り返してはくれなかった。


「こうなってしまえば、仕方がない。全ては『悪魔』が我々を惑わすための幻覚だったと、説明する場を設けなくては」


 半透明の虚像から解放されたブランシュは、皇帝の剣を操るために、左腕を掲げた。それを合図として、方々に向いていた銀色の切っ先が、ある一点へと収束していく。薄く叩き伸ばされた鎧が擦れ合い、物々しい音を立てる。少女の肩はだらりと落ちて、ローリエの傍にへたりこむばかりだった。


「頭の足りない民草を説き伏せるには、下手人の首が欠かせないのでね」


 恭しい口調が外れた司教が、指先を前方へと振り下ろした――その瞬間。彼の手首から先は、黒曜石を思わせる異形の顎によって、一口で食い千切られていた。


「……は?」

「『悪魔』の首が欲しいのなら。どうぞ、やって見せてください」


 おもむろに振り返ったアスターの眼差しは、ブランシュだけではなく、目元を鎧で覆った騎士にまで、鋭い寒気を覚えさせた。涙で濡れた相貌からは、一切の表情が失われている。ある種の呪いがかけられた絵画から、そのまま抜け出してきたものかと錯覚するほどに、静かで不気味だ。同伴者の腕の中で染みたものと、足元に溜まっていた血液とで、立ち上がった彼女の衣服は赤く染まっていた。左手の小指に嵌った指輪は、まばゆいばかりの光を放っている。さらに、洞窟に生えた鉱石たちまでもが呼応して、舞台の明るさは増していく一方だった。


 彼女の傍らには、角と眼球を三つずつもち、巨大な黒い翼を背に生やした化け物が佇んでいる。体表を覆う鱗は厳めしく尖り、ドラゴンにも似た大柄な体躯は、ひらけているはずの洞窟を圧迫している。鋭い牙と長い舌は、司教の左手だったものを咀嚼して、あっという間に胃の腑へ収めた。


「……あ……悪魔……。本物の、悪魔だ!」


 騎士の誰かが悲鳴を上げたことを皮切りに、混乱が始まった。出口へと駆けた者は、突然に表れた闇で全身を覆われ、逃げるべき方向を見失っているうちに踏み潰された。投げつけられた長剣は翼でいなされ、騎士の鎧を貫き、堅牢に守られているはずだった心臓へと到達する。無謀にも正面から立ち向かってきた数人は、角によって串刺しになるか、悪魔の口から吐き出された濃煙によって肌身を焼かれ、自慢の鎧によって蒸された末にこと切れた。異形が選んだ行動は、偽りの伝説によって書き留められた、勇者に滅ぼされる前の『悪魔』がしたものと、全てが一致していた。


 そして、アスターが飛び乗った悪魔の背は、足場とするには不向きだった。かつて空の旅を共にしたドラゴンとは異なり、悪魔は、ちらともこちらを気にかけない。彼にとって、翠眼でない者は敵で、その他はどうでもいい存在らしい。


——化け物としてしか、聖書に記されなかったからだわ。「生物ではない」以上、存在そのものと強く結びついている仕組みの他に、心は作れないんだ!


 振り回された悪魔の尾が、鱗にしがみついた少女の腕を掠める。旅の始め、怒り狂うドラゴンの騒動で刻まれた傷痕の上に、新しく赤い線がはしる。できたばかりの切り口は、噴水広場に満ちていたような熱風がなくとも、まるで焼かれているかのように感じられた。


 台風の目となっている悪魔の首に縋って、彼女はようやく災厄を免れた。また、ローリエが壁際で倒れたということは、不幸中の幸いだった。大柄な体躯に合わせて、できるだけ広い場所で立ちまわっている悪魔の二次災害を、どうにか受けずに済むだろう。


——戻ってきますからね、おじさま。


 胸中でそう念じている間にも、アスターは、眼前の惨劇から目を逸らさなかった。


 何百、何千回と、悪魔の恐ろしさを講釈の場に出してきただろう司教は、あまたの鉱石が広がる区域へと逃げた。採掘されなかった原石たちは、時に鋭く肌を切り、身綺麗だったブランシュに傷を与える。皇帝専属の騎士団に、もはや動ける駒はいない。奥へ奥へと進む彼を追う、名実ともに悪魔を体現した獣の首元には、宝石の眩しさに目を細めるアスターが座っていた。


 ついに、洞窟の果てまで辿り着いたブランシュは、壁に背をつけてアスターを睨み上げた。白く濁った息は、数秒に渡って消えることはない。凍えきった深層では、氷柱が天井から伸びていた。


「ははッ……! あの鈍らも、とんだ後継を育てたものだ。理想論を宣う癖に、口封じのためならば虐殺を選ぶ。破綻しているよ、貴様の言動は」

「あたしは、何も命令していません。この子が暴れているのは、あなたたちが捏造した、聖書通りの行動をしているだけのことです」


――この指輪では、命あるものを生み出せない。


 アスターは、指輪を身に着けたばかりの夜に、健在だった頃の父親が蘇るよう、密かに願ったことを思い出した。故人の死を覆したり、新たな生命体を生み出したりといった行いは、彼女に受け継がれたラディチェの国宝では不可能だ。事実、騎士団を薙ぎ払った悪魔からは、心音が聞こえない。「翠眼の『悪魔』ではない、『人間』に害を成す者」として伝えられ、政の道具にされてきた悪魔は、その通りの役目をこなしているだけに過ぎなかった。


「あなたが、あなたたちができたかもしれない償いは、あたしが代わりに全うします。どれだけ長くかかろうとも、誰かが負の連鎖を断ち切らなければ、この国は永遠に呪われたままですから」

「どうかしている! そのような絵空事、小娘風情に実現できるわけが――」


 ばくり。と、悪魔は目の前の男に齧りついた。唾を飛ばし、血眼で暴言を吐いていたブランシュが、あっという間に太い喉へと引き込まれていく。アスターが腰かけた鱗が波打ち、尾がある方へと流されていく様子が伝わってくる。跡形もなく食べつくし、静まり返った地底にて、彼は視線を上向けた。大きく口を開き、存外に高い声で鳴いた「作り物」は、緑色の炎を纏いながら、少しずつ薄れていく。悪魔が完全に消滅する寸前で飛び降り、辛うじて垂直落下を免れた少女の目の前で、角や翼を備えた御伽噺が燃えている。延焼しない炎は、星の数ほどあった鉱石の輝きを道連れにするつもりらしい。点滅していたほとんどの光源が沈黙した頃合いに、アスターによって形を得ていた架空の悪魔は、何事もなかったかのように掻き消えた。暗闇に浮かぶ、僅かに魔力が残された原石の瞬きは、静かな冬の夜空を思わせていた。

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