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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第4章 緑の亡国
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第32話

――出血がひどい。このままじゃ、手遅れになる。


 アスターの脳裏には、泥酔した御者の操る馬車に轢かれた、亡き父親の姿が浮かんでいる。


「大丈夫、おじさま、大丈夫ですからね、すぐに手当てをしますから」


 この階層は、あまりに寒い。少しでも暖かい場所へ、地上に戻る道を辿らなくては、失われていく血が身体を冷やすばかりだ。砂利を踏み、身じろいだアスターの靴先にぶつかって、硬くて軽い何かが転がる。自然に形どられたものではない小粒な鈍色が、一発の弾丸だと少女が理解した時には、人型の影に覆われていた。鼻腔をふわりと掠めた百合の香りは、いっそ場違いなほどにかぐわしい。視界の端に、見知らぬ黒衣が侵入している。


「駄目じゃないですか、先輩。『悪魔』なんかにほだされたら」


 ばっ、とアスターが顔を上げた先には、線の細い男性が佇んでいた。肩の長さで切り揃えられた白髪は、鮮血のように赤い目と、真っ黒なカソック姿によく映えている。骨格や線の細さはまるで違うが、年の頃はローリエとさほど変わらないように思えた。男の左手には、硝煙が銃口から漏れ出てくゆる、フリントロック式のピストルが握られている。


 見渡せば、アスターとローリエを中心に据えた円の外縁に、剣を構えた鎧がずらりと並んでいた。籠手の部分には、皇帝のシンボルである、三つ目の化け物を貫く剣の紋章が刻まれている。


――司教に、皇帝専属の騎士団。あたしたち、つけられていたんだ。


「……ブランシュ……」


 脂汗を額に浮かべ、肩で息をするローリエの口から、唾液と吐血が入り混じる液体が伝った。許可なく名前を呼ばれた聖職者は、不愉快げに目を細めてから、アスターの顎を右手で掴み上げる。覗きこんでくる白い睫毛が、少女の黒いそれに触れる。ブランシュの生温い息によって、背筋に悪寒が駆け抜けた。


「きみ。薄汚い上に、貧相だ。先輩の妹御とは、似ても似つかない」

「手荒な真似を、……するな。離してやれ」


 咳きこみかけた息を呑み込んで、途切れ途切れに言葉を吐くローリエの顔は青白い。彼の頬を両手で包み、僅かな熱でも分けてあげたい。そう願えども、掴まれている顎を支点にして、靴が地面から離れかけているアスターには不可能だ。ブランシュの手は、少女の腕力ではびくともしない。カソックに爪を立てても、短い爪は滑るばかりだった。


「それとも、肌触りだけは同じだったのかな?」


 せせら笑った彼は、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。激痛を押して立ち上がったのだろうローリエは、今や、ブランシュの上半身にのしかかって、あらん限りの力で細い首を締め上げている。ブランシュを引き倒すと同時に跳ねのけられたアスターは、数ヶ月にも渡って旅を続けた同伴者の、こめかみに青筋を浮かべる姿を初めて見た。内臓の一部が破損したローリエの脇腹からは、赤い液体がとめどなく流れ出て、黒いカソックに吸い込まれていく。貫通した銃創が止血される気配は全くない。


 間もなく騎士団によってブランシュから引き剥がされたローリエが、一切の手心を加えずに壁画へと叩きつけられた。したたかに身体を打ちつけた彼の頭部からは、新しい血が滲み始めている。駆け寄ろうとしたアスターは、別な騎士によって跪かされ、背中で手首が縛り上げられていく。振り乱した頭から、帽子が落ちた。


「やめて! 離してえ!」


 ひゅう、と気管に風を通したブランシュは、折れる寸前だった首を両手で包んで、激しい咳を繰り返している。数分ほどそうしていて、ようやく息の仕方を思い出した彼は、壁画を背にして血に濡れる、ローリエの脇腹を靴裏で踏みしめた。ローリエよりも細身とはいえ、数十キロはあるブランシュの体重でもって傷口を潰された彼は、低い声で苦しげに呻っている。


「怒らないでくださいよ。妹を殺して、後釜までもを『悪魔』に貶めたのは、自分の癖に。八つ当たりも甚だしい」


――何か、何でもいいから、武器を……!


 アスターは、具現化させるべき抵抗の道具を思い浮かべようとした。ナイフ、剣、銃、斧、爆薬。知っている危険物を並べるだけならば、決して難しい作業ではない。問題としなければならないのは、それを作り出したところで、誰が武器を扱うのかという点だった。背中にのしかかる、踏み台のようにかけられた騎士の脚が重い。下半身は完全に地面へ押し付けられていて、上半身も半分ほどしか起こせなかった。


――あたしは拘束されていて、おじさまも動けない。道具だけ作ったところで、扱える人が誰もいないんじゃ、無意味だわ。


 アスターに向けられた多くの監視の目も相まって、剃刀で手首のロープを切ることすら難しい。四肢の動きを封じられたというだけで、あるはずだった彼女の選択肢のほとんどが失われている。


 顔を上げれば、ブランシュと目が合った。寒気を全身で感じたのは、遺跡に漂う冷気のせいではない。濁った赤い瞳が、害虫を見る目でこちらを一瞥したからだ。


「どうやら、彼女の指輪に備わっている力は、外れの部類だったようですね。物の記憶を辿るしか能のない義眼といい、つくづく不運なことです」


 ブランシュは、こちらへ歩いてくる途中に、地面に横たわるキャスケットを踏んだ。膝を折った彼は、顔を引き攣らせる少女の瞼を強引に開いて、眼球の色付いた部分を全て空気に晒した。隙間なく染まった緑色は、本来の薄紫色を完全に侵食している。細かな筋の一本に至るまで、不純物は何もない。壁画の王族に埋め込まれた宝石より淡い、恐怖によって瞳孔が開いた大きな目は、不意に沸き起こった疑念で陰った。


「ちょっと、待ってください。あなたは、他の『悪魔の神器』がもつ能力を、知っているんですか?」

「教会で蒐集したものは、一通り試しますから」


 アスターの顔から手を離した彼は、すぐに彼女と視線の高さを合わせることをやめた。頭上から落とされるブランシュの声は、耳触りだけは柔らかだ。


「その後に、解呪の儀式で身体から外して、各地の教会で保管させているんですね」


『緑色に変化したのが片目のうちはいい。教会で解呪の儀式さえすれば、指輪を外すことができるし、瞳の色も元に戻せる』


 村でドラゴンが暴れる直前、アスターを説得しようと言葉を尽くしていたローリエは、そうも言っていた。実際、二十年もの長い間、ローリエの右目は生来の琥珀色を保っている。魔法と呪いのうち、いずれの表現を用いるべきか迷わされる「悪魔の神器」は、使用者が未熟なうちは、当人から引き剥がす、もしくは身に着けたばかりの状態に戻すことが可能なのだ。


――その儀式をするにしても、多額の献金を納めないといけないのは、変わりなさそうだけど。


 アスターが指輪を身に着けた日の昼間に、翠眼の浮浪者に金を工面してやろうとしていた八百屋の夫婦は、その日のうちに家財を売り払い、帝都へ旅立った。ローリエのように、教会の関係者に「悪魔の神器」を試させるにしても、相応の費用がかかりそうなものだが。


 しかし、少女に問い直されたブランシュは、すぐに頷きはしなかった。


「どうして、外してやる必要が?」

「え……?」


 なぜ空は青いのか。そう質問を投げかける、純朴な幼子じみた表情だった。疑念が残るアスターの頭の中に、警鐘が鳴り響く。目の前の男が司教の一人であると示す、丈の長いカソックの端が、嫌に目についた。

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