第31話
大判のストールを巻き終えた彼の身なりは、アスターと初めて視線を通わせた時分からあった流れ者の風情が、さらに色濃くなっている。数ヶ月越しの感想を、少女からそのまま伝えられたローリエは、「事実、不審者だからな」と短く応えた。中腰となるべく曲げられた膝が、ゆっくりと伸ばされていく。
「実を言うと、あの時は賊が泊まりに来たのかと思ったんですよ」
軽やかに笑いながら、アスターは自身のための防寒具を生成する。羊毛で編まれたマフラーは、ほのかに纏っていた緑の炎をまもなく霧散させて、辺りに鱗粉が舞ったようにも見えた。少女の首で二重に巻かれた毛糸の束が、小さな口から漏れる白い息を押し留めている。お世辞にも好意的とは言えない第一印象だったことを聞かされた当人は、ああ、とも、まあ、とも判然としない、曖昧な相槌を打った。壁の碑文をもう一度見遣った彼は、ささやかな温もりに守られている少女に、猫背気味の大きな体躯で向き直る。
「ひとまず、だ。お前さんの仮説を固めるための調査はまだ要るが、さほど大きな事実との乖離はないだろう。あれらの目録にある品が、教会で保有する『悪魔の神器』と一致することが分かればすぐだ」
頷き、背の高い彼の目を見ようと、キャスケットを落とさないように降り仰ぐ。やや口下手なローリエには珍しく、もしや、褒めてくれるつもりがあるのではと思わせる話ぶりだった。
「だから、もう、終わりにしろ」
前置きされた言葉から、きっと後には甘言が続くはずと予想していたアスターは、実際に告げられた音の羅列に肩を揺らした。
「証拠を揃えたところで、どうこうできる話じゃない。皇族や、教会が迫害の首謀者だ。簡単に太刀打ちできるだなんて、思ってくれるなよ」
距離を詰めてきた、大柄なローリエの体躯によって、アスターの相貌に薄い影がかかる。天井にも夥しい数がはびこる光源によって、彼の身体から生じた影に、少女はすっぽり覆われていた。
「ここまでだ。退かないというのなら、身売りされる先の希望くらいは聞いてやる」
一つ結びにされた髪の先が、視界の端で揺れている。壁や地面に埋まった原石たちは、相も変わらず煌びやかだ。唇を通り、布の合間を縫った小さな雲が、瞬きのうちに透明へと融けていった。
感情を読み取らせない、片方だけ開かれた眼に見下ろされたアスターは、壊れ物に触れるかのような手つきで、彼の頬へと右手を添える。義眼ではない、瞳孔が伸縮するローリエの右目が、僅かに見開かれた。
「おじさまは、やっぱり優しい人だわ」
肌の冷たさか、驚きか、あるいはその両方か。先ほどまでは滑らかだった彼の口は閉じられて、再び動き出す気配はない。柔らかくはにかんだ少女の表情に、見とれているのかもしれなかった。
「もう、わがままなだけの子どもじゃいられないと、分かっているのに。それでもなお、遠ざけようとしてくれているんですから」
ローリエの左目を覆う前髪の毛先に、アスターの指先が擦れる。さら、と流された彼の髪は、ほどなくして元の位置に戻っていった。後方を振り向いたアスターの瞳には、磨かれる前の七色が散っている。数が多すぎて、この空間に埋まった原石を全て研磨したら、何千カラットになるのか想像もできない。
「あたし、この目が緑色になるまでは、自分より弱い立場の人がいることに、心のどこかで安堵していたんです」
一歩、二歩、とローリエから離れたアスターは、膝の高さにまで突き出した岩の前で膝を折った。
——綺麗な、緑色。
軸となっている岩石と共生するようにして、地層を思わせる白い縞模様が入ったジャスパーが、彼女の目の前に鎮座している。
「たまたま、生まれもった色が違っただけで、無意識のうちに優越感を感じていました」
——あの男の人は、もう少し、深い色の瞳だったっけ。
アスターの脳裏に浮かんでいるのは、故郷の村で打ち据えられた、とある浮浪者の姿だった。名前を尋ねることすらせず、彼が翠眼だったというだけで、手渡そうとしていた布きれすらも取り落とした。
「あたしはあの日、加害者でした。しかも、加害者であることを、自覚すらしていなかった」
「悪魔」から感染した穢れを拭おうと、何度も両手を雨水で濯いだ。長く冷水に晒しすぎて、関節の位置に合わせて口を開けた痛々しいあかぎれは、今では跡形もなく消えている。
「……帝国の、思惑だ。富裕層からは、悪魔除けを騙る儀式で、私腹を肥やすための財産を吸い上げる。貧しい民草には、暴動を防ぐために、より惨めな層を見せつける。気が付かなかったのは、お前さんのせいじゃない」
蹲る背中に投げかけられた彼の言葉に、先ほどの恫喝の名残はなかった。脅しても無駄だ、と判断されたのだろう。グリーンジャスパーの鑑賞に区切りをつけて、改めて、彼と向き合えるように立ち上がる。数歩離れた位置からは、ローリエの頭から爪先までがよく見えた。
「あたしはただ、自分がした行いについて、責任を取りたいだけです」
——たとえ、一生を費やすことになっても。知らなかった頃には戻れないし、戻りたくもない。
彼の眼差しに、ためらいが混じる。矢面に立つことで被る理不尽を、ローリエは身をもって知っている。失われた左の眼球は、勉強代として高すぎた。
だからこそ、歪んだ教えを誰かが正さなければならない。誰でもいいなら、自分が遂行してもいいはずだ。その純粋な傲慢でもって、アスターは胸を張った。
「お父さんが指輪を贈ってくれた意味を、ようやく、理解できました。深碧の民の末裔として、あたし一人だけでも、最後まで向き合わなくちゃ」
そう言って、少女は笑った。からりと晴れた夏の空を思わせる、爽やかな表情だ。相対した彼は、眉間に縦皺を作り、こちらをじっと見つめている。握りしめられた両手の拳は、少しばかり色が引いているようにも見える。大きく息を吸った彼の肩が緩やかに動き、また、元の形へと萎んでいく。深く息をついたローリエは、寄せていた眉を離して、真一文字になっている口角を綻ばせた。
「つくづく、手前が苦労する方にばかり強情な子だ……」
アスターは、彼の笑顔に応えようとした。ローリエの手を取り、今しばらくは手伝いを続けてくれたら嬉しいと、首を垂れるつもりで視線を下げた。その彼女が、次に焦点を合わせたのは、無骨な彼の掌ではなく、見る間に赤色が滲んでいく彼の脇腹だった。全身に鳥肌を立たせた少女は、突き出た部分も多い地面へと倒れかけた男を、すんでのところで抱き留める。
――重い!
幼子を抱えるにしても、起きているうちに肩車をするのと、眠った後で持ち上げるのとでは、まるで苦労が違う。彼の身体が重いのは、意識が遠のきつつある証拠だ。子ども一人分の力は、成人男性の肉体を支えるために必要な量に到底及ばず、ローリエの片膝は地面に着いた。血管の浮かぶ彼の右手が、ストール越しに患部を強く圧迫している。
「おじさま、おじさま! しっかりして!」
叫ぶように呼んだ彼の背中には、前面よりも広く赤が染みている。元から濃い色の上着が端まで濡れそぼって、許容量を超えた血液が垂れた。あっという間にできた水溜まりには、鉄の臭いが低く漂っている。彼の身に降りかかっている激痛を想像したアスターは、手元の震えと鳴る奥歯を必死に押し殺す。男の荒れた息は、こんな時でも白く濁っていた。