第26話
「こうして、名ばかりの司教が生まれたわけだ」
開け放った扉の向こうに見えるリビングは、灯り一つなく沈黙している。亡き妹の部屋は、アスターとローリエが語らう現在地から、階段を挟んだ東側に位置していた。二つの器に注がれたグリューワインは、どちらもすっかり冷めている。
「家に戻った俺は、ミオの机に置き去りにされていた、この日記を見つけた。だが、開かれていたページには、インクの瓶が転がっていてな」
彼は、遺品である日記の裏表紙を捲り、最後のページまであと少しだった地点を開く。その見開きは、本文のほとんどがインク濡れになり、下に書かれていたであろう手記が読めなくなっている。辛うじて読み取ることができるのは、四隅に近い単語のいくつかと、二十年前の日付だけだ。
「おじさまなら、物に宿った記憶を見ることができるのでしょう? 家族の日記を、最後まで確かめたいと思ったことは?」
「自分への恨み言が書かれているだろうものを、わざわざ覗き見るほどの意気地はないさ」
「恨み言、って……。どうして、そんな風に決めつけるんですか」
「なんだ、聞いてなかったのか? ミオが苦しんだのは、どう考えても俺のせいだろう。瞳の色が変わった原因も、彼女は察していたはずだ」
そう自嘲する彼は、手元の赤い液体を飲み干した。カップに残った数滴のワインが、丸底の縁に沿って模様を作っている。
「だがまあ、こんな風に疑ってしまうくらいなら、燃やしてやった方が、あいつも喜ぶかな」
蝋燭は、半分まで溶けている。太陽が空に顔を出すまでは、もうしばらくの夜が必要だった。
「それ、本気で言ってるんですか」
少女の声と唇が震えていた。小柄な身体をローリエの方へ向けて、大きな瞳で彼を見上げる彼女の顔は強張っている。問われたローリエはといえば、アスターが何を「それ」と指したのかすら、分かっていないようだった。
「……何を怒ってる? らしくない。お前さんには、関係のないことさ」
「あなたの帰りを喜ぶ人が、あなたを恨んでいたわけないでしょう!」
椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がったアスターは、当惑するローリエをきつく睨んだ。少女はそのまま、所在なさげに机へ置かれていた彼の右手をとり、いささか乱暴な手つきで、古い羊皮紙の上へと重ねさせる。ごく平凡な、二人の間にさしたる差がない温もりは、彼が生きていることの証明だった。
「あたしは! ……あたしは、お父さんの最期に立ち会えませんでした。当然、何を思って死んだのかも、この指輪をどんな気持ちで渡してくれたのかさえ、分からないままです」
小さな炎が揺れている。油が染み込んだ芯を燃やす光源には、消える気配がない。
「でも、おじさまは違うでしょう? 彼女が遺したものがあるのに、どうして知ろうとしないんですか。そこに、あなたへ手向けた言葉があるかもしれないのに」
可能性を語りながらも、アスターには、どこか確信めいた予感があった。日記を覗き、兄へと向かっていた妹の親愛を知ったからというだけではない。彼の口から語られた過去に同情し、憐憫の情から詭弁を言っているわけでも、当然ない。
ローリエに助けられ、短くない月日を共に過ごした一人の少女として、ミオとアスターは限りなく近い存在だ。
――もし、あたしが、彼女と同じ運命を辿ったとしても。決して、彼に教わった言葉たちで、恨み言なんて書くものか。
「一人では読めないというのなら、あたしが傍にいます。こんな子どもじゃ、頼りないかもしれないけど……子どもにだって、大人の泣き言くらいは聞けるんです」
ぼろ、と少女の目から溢れた大粒の雫が、机に落ちた。
「それでも、まだ、だめですか?」
彼女の瞳いっぱいに溜まっていた塩水が、木製の天板に、淡い水玉模様をつけていく。アスターの不慣れな訴えは、ローリエに静かな溜め息をつかせる。しばらくの間、場を支配していた静寂は、彼の方から破られた。
「……ずるいぞ。俺は、年下からの泣き落としに弱いんだよ」
降参の合図を受けて、ぱっと顔を明るくした少女を前に、彼は思わず苦笑した。ローリエの左手が後頭部に回され、眼帯の留め具が片手で器用に外される。露出したローリエの左瞼は、まだ閉じられたままだ。
「これで嫌われていたら、当然、慰めてくれるんだよな?」
「お任せください。子守歌もつけて差し上げます」
両目を閉じ、瞼に力を込めた彼は、一度だけ深呼吸をした。長く吐かれた息が途切れたことを契機に、ローリエの目元を縁取る睫毛が、ゆっくりと動き始める。
曝け出された緑色の義眼が、ミオの日記を捉えた瞬間――室内は、半透明の幻影で満たされた。アスターが最初に案内された部屋の間取りと、少しも変わりのない一室。引き出し付きの机は、ローリエの自室にある同じものよりも、やや左に置かれている。扉の近くから順に、アスター、ローリエと並んださらに奥で、とある少女が椅子に腰かけていた。
日記を開き、羽根ペンの先をインク瓶に差しこむ少女の頬に、豊かなブロンドが触れている。窓から注がれる陽光を浴びた巻き毛は、いっそ眩しいほどである。清潔感のある肌は、おしろいを隅々まではたいたかのように白い。彼女が座る椅子の左側には、傷一つない白木の杖が立てかけられている。
絵画かとも疑いたくなるその光景は、義眼を身に着けているローリエだけではなく、彼と掌を重ねたアスターの目にも映っていた。




