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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第3章 緑の瞳
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第24話

 赴任した街におけるローリエの毎日は、想像よりも遥かに多忙を極めた。これまでは下っ端として扱われていた彼だったが、二十歳を迎えたことにより、新米修道士の指導と管理を任されるようになったのだ。数人単位から始まった班長の仕事は、先輩にあたる修道士から体よく厄介事を付け替えられることも多く、帰省の話なぞできやしない。やれ同室との喧嘩をしただ、若いシスターに手を出そうとしただのと、まず人間として躾をし直さなければならない問題児たちには、随分と手を焼かされた。何度か家に伝書鳩を飛ばしはしたが、それでもやはり物足りない。青年は、自分の帰りを喜び、声を弾ませる妹の笑顔を、己の両目でしかと捉えたかった。


 ようやく三年分の仕事を終えて、さあ帰路につこうと荷物を纏めている最中に、同い年の修道士から声をかけられる。曰く、「司祭様が君を探している」とのことだ。首を傾げながら馳せ参じた彼の居室には、金縁のティーセットが並んでいた。


「帝都に向かえ、とは……まさか、これからですか? てっきり、今日から休暇をいただけるものとばかり……せめて、要件だけでも先に教えてください」


 非情な命を下してきた、二回りは年上の司祭に訊ねても、顔を顰められるばかりで話にならない。傍の机に転がっている小さな筒には、聖職者間における伝書鳩の行き来であることを証明する、複雑な文様が刻まれている。


――今度は、謀反の疑いでもかけられたか? 痛くもない腹を探られるというのは、毎度ながら、不愉快なもんだな。


 多様な言語を操るローリエに、周辺国のスパイ疑惑がかけられた回数は、一度や二度ではない。帝国民の域を出ない範囲の色とはいえ、浅黒い肌も邪な推測に一役買っているらしく、ぐらぐらと胸の奥が不愉快に煮立つ。ここで拒めば、冤罪の火に油が注がれて、それ見たことかとなじられるのも想像に難くない。結局は、権力によって招集されたその時から、頷く以外の道は残されていないのだった。


「……分かりました。すぐに、支度をいたします」

「くれぐれも、正しい選択をするように」


 司祭の部屋を出て、荷造りが途中になっている自室へ戻る。最低限の荷物だけを鞄に詰め込み、黒いスカプラリオと共布の外套を羽織って、咎められない程度に荒っぽく教会の扉を開け放つ。秋の風が頬の産毛を撫で、暖炉で温められた室内の空気を侵食した。


――ミオへ伝えた日には、間に合うだろうか。


 先月のはじめ、妹に向けて出した手紙には、何事もなければ実家に戻れるはずだった日取りを書いてしまった。きっと彼女は、兄が扉を叩く日を、指折り数えて待っている。幼い時分には引きずり歩いた裾を翻し、看板に蹄鉄が描かれている店の戸を叩く。


「すまないが、急いでいるんだ。一番早い馬をくれ」


 数枚の金貨で貸し馬を買い上げ、鞍付きの一頭へ跨る。艶のある黒毛の腹を足首の内側で叩けば、高らかにいなないた獣は、勢いよく街中を駆け始めた。


 休憩を最低限まで削った旅程は、七日目の深夜に終わりを告げた。運悪く雷雨に見舞われ、横殴りの雫で濡れ鼠となった青年は、教会の門番へ馬を預ける。一つ結びの長髪を両手で絞り、溜まった水を追い出す。道中で馬を休ませている間に、髭の処理や細かな身だしなみは整えてあったが、急な悪天候のせいでほとんど台無しだ。靴の内側に染みた水気も、不快極まりない。


 蝋燭に火を灯された帝都の大聖堂は、白を基調とした荘厳な装飾で彩られている。高名な画家によって聖書の内容が描かれた天井に、晴れた日には床に色を散らすステンドグラス、金の燭台。四段の鍵盤をもつパイプオルガンは、奏者の不在により沈黙している。


「聖堂を雨水で濡らしてしまい、申し訳ございません」


 二列の長椅子に挟まれたバージンロードを進んだ先、凹凸のない机を挟んだ向こう側には、言わずと知れた現教皇が佇んでいる。七十歳に差しかかった彼は、温厚な性格と、一片たりとも汚点のない暮らしぶりで知られており、国民からの信頼も厚い。教会のトップである彼を守るように控えながら、こちらを冷めた目で見下ろすカソック姿の司教たちさえいなければ、直々に褒美でも与えられるのかと勘違いしたことだろう。


「親愛なる我が兄弟よ、顔をお上げなさい」


 床に片膝をついたまま、教皇を見上げる。机上の蝋燭に灯った炎が、彼の瞳に映っていた。


「今日はそなたに、確かめたいことがあってね」


――やはり、この類の呼び出しだったか。


 瞬きのみで了承の返事をし、咥内に溜まった唾を飲み下す。窓から覗く灰色の雲間には、鋭く細い光がちらついて、いつでも大地に雷を落とせそうだった。


「実は、とある町で、新たに『悪魔』が発見された」


 額の皺が目立つ教皇が、言葉を紡ぎながら眉尻を下げる。嘆かわしいことだ、と続けられた彼の痛ましげな一言は、白く長い祭服によく似合っていた。


「『悪魔』は、民家に息を潜め、夜な夜な辺りを徘徊していたそうだ。しかし、幸運にも、町の教会をあずかる司祭が彼女を見つけ、我々の元へと連れてきてくれた――ありがとう、ブランシュ。おかげで、民の不安をまた一つ取り除くことができたよ」


――ブランシュ、だって?


 教皇が見遣った先を視線で追うと、白髪の青年が壁際に立っていた。アルビノの特徴でもある赤い瞳が、彼が携えている手燭により、下方から照らされている。


「聖書の教えを守る身として、当然のことをしたに過ぎません」


 司祭の象徴であるカズラを身に着けた若人は、その容姿から、ローリエと同年代であろうと察せられた。木苺のような虹彩が、ずぶ濡れのまま跪くローリエを一瞥する。その視線には、僅かに嘲笑の色が滲んでいた。


『きみより一つ年下の子が、町の司祭になったんだって』

『ブランシュ、だろ。司祭になるには若すぎるから、何か裏があるような気もするが……』


 三年前、血縁のない兄妹の雑談に登場した名前の持ち主が、目の前にいる。


――彼が司祭を務めているのは、俺たちの町だ。それに、教皇は、「悪魔」を「彼女」とも呼んだ。


 言いようのない不安と焦燥が、ローリエの足元に忍び寄る。顔から血の気が引いていくのは、肌に張り付く濡れた服のせいだけではない。彼の帰るべき場所である、温かな我が家に残してきた妹と同じ性を指す言葉に、薄い耳鳴りが引き起こされた。


「ローリエ」


 老人に呼びかけられた彼は、はっとして顔の向きを正す。丁寧に磨かれた祭壇に手を着いたまま、ゆっくりとこちらへ回り込んできた教皇は、水滴が垂れるローリエの黒い前髪を一房すくった。


「そなたは、『悪魔』の手先ではないね?」

「は……い。勿論です」


 どく、どく、どく、と存在を主張し始めた心臓が、煩い。修道士の青年は、自身の手足の温度が、すっかり分からなくなっていた。


「では、彼女を断罪することも、きっとできるはずだ」


 袖廊から放り投げられた塊が、彼のすぐ傍の床へ叩きつけられる。未だに出血が止まっていない頭部を覆っているのは、乱されたブロンドの巻き毛だった。


「――ミオ!」


 ほとんど悲鳴に近い声を上げた彼は、頭で考えるよりも前に、彼女の身体を抱き起こした。強引に破られたのであろう衣服は、辛うじて節々に引っかかっているだけで、素肌を隠す役目を放棄している。色白だった皮膚は、赤紫色の痣や切り傷に侵されており、変色していない部位が見当たらない。薄っすらと瞼を開いたまま気を失っている彼女の心臓へ耳を寄せれば、酷くか弱い拍動が聞こえてくる。


 碧眼と義眼のオッドアイだったはずのミオの瞳は、両目とも、新緑のように明るい緑色に染まっている。


「彼女の住まいは、そなたの生家だと聞いた。万が一にもあり得はしないだろうが、我々の兄弟に『悪魔』の仲間がいては困るのだ」

「何かの間違いです! ミオは、妹は、決して翠眼ではありませんでした!」


 肩口から取り外されたローリエの外套が、妹の身体を包む。濡れて重くなった布であろうとも、蹂躙された彼女をそのままにしておくことは、彼には到底できなかった。


「後天的に『悪魔』へ変容させる遺物の存在を、まだ知らなんだか」


 枯れ木のような人差し指が伸ばされ、半開きになっているミオの義眼を突く。がくん、と反射で波打った彼女の身体を、ローリエは咄嗟に抑えた。


「ミオ、駄目だ、しっかりしろ! ……頼むから……!」

「いじらしい兄妹愛だ、素晴らしいよ」


 朗らかに笑ってみせた教皇は、血と涙が混ざったものが付着した指を、袖口で拭った。少女と呼ぶには大人びた、十八歳のミオにローリエが何度も呼びかけるものの、返ってくる反応は薄い。彼は、腕の中から微かに聞こえる荒れた呻き声で、彼女の喉が焼き潰されていることを理解してしまった。

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