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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第3章 緑の瞳
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第23話

「ロイ、おかえり!」


 一年半ぶりに我が家へ足を踏み入れた二十歳の青年は、妹による突然の抱擁をしっかと受け止めた。杖を放り、倒れこむように飛びついてきた少女の容姿は、齢を重ねるほどに洗練されていく。奉仕活動のために帝国各地を渡り歩き、老若男女を問わず多くの人々と交流する彼は、彼女の容姿がいかに優れているのか、身内の欲目を抜きにして判別できていた。


「ただいま、ミオ。困ったことはなかったか?」

「全然。いつも通りに退屈で、平凡な毎日だったよ」

「そりゃ結構」


 十五歳の少女を横抱きにして、リビングの椅子まで運んでやる。絨毯に放られた木製の杖は、長く使っているだけあって、ところどころに窪みが見える。歩行を助けるためのそれを拾い上げたローリエは、着席したミオの左手側に立てかけた。


「あ、そうだ。きみより一つ年下の子が、町の司祭になったんだって。確か、色みたいな名前だったと思うんだけど」

「ブランシュ、だろ。司祭になるには若すぎるから、何か裏があるような気もするが……。まあ、顔も知らない相手だし、ミオが関わることはそうないはずだ」

「ロイは、国一番の物知りね。賢いだけじゃなくて、情報通でもあるなんて。ところで、帝都の白パンが食べたくなっちゃったんだけど、今日はお土産にある?」

「……さては、昼飯を抜いたな?」

「寝過ごしちゃっただけだもん」


 溜め息をついた青年は、鞄の一番上から、染みのない布の包みを出してやる。前のめりになった妹の反応が期待通りで、思わず眉と口角をそれぞれ片方ずつ上げた彼は、恭しい手つきで布端をめくってみせる。その中からは、こっくりとしたクリーム色に焼き上げられている、ミオご所望の白パンがいくつも姿を現した。おまけに、バターが入った小さな木の器と、スプーンのセットまでもが添えられている。


「最高、かんっぺき!」

「食べ過ぎるなよ」


 上質な小麦は帝都に集められるため、地方では、硬い黒パンしか焼くことができない。兄妹の気まぐれな両親がいくら金銭を置いていこうとも、右脚を引きずるミオ一人では、柔らかいパンを買うことができないのだ。恒例であり待望の土産物をさっそく手に取った妹は、満面の笑みを浮かべたまま、その曲線にかぶりついた。


 ミオの喜びように満足した青年は、夕食を支度するために、台所へ向かった。まず、レンズ豆――平たい正円状の、凸レンズに似た小さな穀物――を保存している麻袋を手に取り、水を張った深皿にざらざらと流し入れる。その次に、流しのすぐ近くにある戸棚から、数本の小瓶を取り出す。軽く揺らして、粉の合間に虫が湧いていないことを確認してから、まな板の脇に置く。根や芽が伸び始めている野菜たちを適当に選び、水で濯いだ包丁で一口大に刻んでいく。この料理に難しい工程は一つもないが、にんにくを細かくみじん切りにすることだけは、忘れてはいけない。


「今回は、いつまで家にいられるの?」


 リビングから飛んできた質問に、振り返ろうとして、やめた。調理に勤しむ手を止めないまま、返事をするために口を開く。


「そうだなあ、明日の夜には出るかな」

「んー……」


 表面が乾いた豚のソーセージも輪切りにして、断面から脂が溶け出すようにする。レンズ豆以外の具材と、塩と胡椒、粉末状にすり潰されたカルダモンなどのスパイスを小瓶から振るいかけて、フライパンで火を通していく。鼻腔を爽やかに抜けていく香辛料の、柑橘類を思わせるやや甘い香りは、ローリエには嗅ぎ慣れたものだった。


 八割方に火が通ったフライパンの中身と、葉の形のまま入れるハーブ類とを一緒に鍋で煮込み始めれば、スープの支度はほとんど終わりだ。あとは、二時間もすれば柔らかくなるレンズ豆のうち半量を潰し、形が残っている分とまとめて、鍋の中に合流させてやればいい。


 このレシピの原型は、行く先々で炊き出しを行わなければならない修道士たちが、先達から一番始めに叩き込まれるレンズ豆のスープだ。しかし、奉仕活動で作る時には、割り振られた予算の都合から、具材をほとんど入れられない。彼が家で手がける料理は、大勢の信徒に分け与えているものではなく、大切な家族のためにささやかな贅を尽くした一品だった。


「美味しかったよ。ありがとう、ロイ」


 後片付けを済ませてから部屋に戻ると、白パンが二つと、バターが少し減っていた。最初の一口目で付いたのか、パンの上にかけられた手粉が、ミオにまで移っている。ポケットに入れていたハンカチが汚れていないことを確認したローリエは、必要以上に白くなっている彼女の頬を拭った。


「どういたしまして。日記の方は順調か?」

「もちろん! 一階にある本も、前より読めるようになってきたんだから。パパとママの部屋に面白そうなものがあったら、いるうちに下ろしておいてよ」

「分かった、見ておこう。後で髪も整えような」


 道楽者の両親は、装丁が気に入った本を、中身を見ずに買い求めることがしばしばあった。帝国内で出版されたお堅い本ならまだいい方で、挿絵なしに異国の言語がびっしりと羅列された専門誌も、四割ほどの割合で混ざっている。幼い頃のローリエは、家に一人でいる間の暇つぶしとして、「荷物になるから」と両親が置いていったそれらの解読を、片っ端から試みた。結果として、十通り以上の言語の翻訳を難なくこなし、多様な文化に対する造詣も深い青年が誕生したのだが、本人も、これは特異なケースだと自覚している。


 家を空けがちになる前のローリエから文字を教わり、本に娯楽のみを求めるミオが読むのであれば、小難しい専門用語が並ぶ学術書では力不足だ。不用品と判じられた物品の魔窟、もとい、両親の書斎の探索を頭の片隅に書き留めた彼は、机の端に避けていた鞄を、自分の手元へ引き寄せる。


「今日は、もう一つ渡したい物があるんだが……気に入らなければ、捨ててくれて構わない」

「ええ? 見せる前から畏まっちゃって、どうしたの」

「なんというか、無理して身に着けるものじゃないから」


 彼が荷物の中から取り出したのは、豪奢な蔦模様のレリーフが施された、銀の箱だった。


「開けてごらん」


 両手に包めるほどの手頃な大きさに反して、ずしりとした重さのあるケースの蓋に、少女は指先を置く。一度だけローリエの顔を盗み見たミオは、純銀製の蓋を慎重に持ち上げて――中に収められていた義眼に、右目を丸くした。


「ロイ、これって……」

「旅先で、行商人に出くわしたんだ。空き時間に古書の翻訳を手伝ってやったら、その礼に色々と見せてくれてな」


 弓なりにしなった楕円型をつまんでみると、何重にもやすりをかけたのだろう、滑らかな感触に驚かされた。白目の部分は、乳白色の大理石で作られており、ひやりと冷たい。虹彩には別の色石が合わされており、そのくすんだ色彩が、大理石のまろい白とよく合っていた。


「着けるかどうかは、お前さんに任せるよ。指輪やネックレスと同じ、アクセサリーの一種とでも思って――」


 ローリエが話し終わるのを待たずに、ミオは、自らの左瞼の下へ義眼を差し入れた。呆気に取られている兄をよそに、彼女は両目で瞬きを繰り返して、異物を粘膜に馴染ませていく。どうやら、大きさはちょうど良かったらしい。


「ふふん。頼まれたって、外してやらないんだから」


 生来の眼球と義眼とで織りなされたオッドアイが、三日月のように細められる。左側へ流していた前髪もすっかり横へ分けて、次に兄が旅立つまで終始ご機嫌だったミオの様子は、若かりしローリエの胸中をも幸福で満たした。


――次は、新品の杖を買って帰ろう。暇が取れなければ、工賃をはずんで、家まで届けさせればいい。


 青年は、辻馬車に揺られながら、使い古されたミオの私物を思い返す。染みや窪みもあったが、それよりも、長さが足りなくなっているのが気がかりだ。少し遅れてやってきた成長期は、嬉しいことばかりでもないらしい。


 次の視察先での生活は、三年間という長期に渡る。住民も観光客も多いと評判の街に到着するまでに、これから半月ほども待たねばならない。しかし、長旅に慣れているローリエにとって、持て余した時間は、何の苦にもなりはしない。慕ってくれている妹に寂しい思いをさせる、その事実こそが、出立に伴う一番の痛みだった。

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