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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第3章 緑の瞳
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第22話

『机で寝たら身体を痛めるって、何回言わせるつもり』


——少しくらい、平気だ。構わないでいい。


『うわ! 生意気。せっかくベッドがあるんだし、そっちにしなよ。背が伸びたせいで、小さくなっちゃった?』


——だから、放っておいてくれ。


『……なあに、何かあったの。耳なら貸してあげるけど』


——目を覚ますのが、辛くなる。


『あ、分かった。夜の冷え込みにやられちゃったんだ。そんなこともあろうかと……ほらっ、毛布。持ってきてあげたから、ちゃんとかけて』


 風が起こした物音で、瞼が開いた。


 ろくに水も飲まないままうつ伏せになっていたせいか、身体の節々は酷く強張っていて、もう若くはないことを否が応でも痛感させられる。臓器に注ぎ込んだアルコールの抜け殻たちは、僅かに差しこむ月光でちらちらと照らされて、初めからインテリアだったかのような顔で並んでいた。閉じられたままの日記はといえば、まるで静物画のモデルであると言わんばかりの態度で、乱れた空き瓶の列に寄り添っている。


 視界が一瞬ぐわりと揺らぎ、肘をついた左手で眉間を押さえると、肩から軽いものがずり落ちる感触があった。遅い瞬きをしながら振り向けば、自身の背と椅子の間で、毛布がたわんでいる。そして、椅子の脚にもたれかかり、別なもう一枚で身体を覆って眠るアスターも、おぼろげな視界に入ってきた。


「……みっともないな、俺は」


 深い溜め息をついてから、穏やかな寝息を立てるアスターを眺める。床に腰を下ろしているために、普段は帽子に隠されている彼女のつむじがよく見えた。就寝前に外されたらしいキャスケットは、机の隅に置かれている。乱れた形で押し潰され、変に癖がついている彼女の髪を直してみると、いとけない肩が僅かに動いた。


「う……ん、……おじさま……?」


 夢見心地な小さい声が、夜の静寂に溶けていく。目元を手の甲で擦るアスターの頭を、軽く押さえるように撫でてから、そっと手を離した。


「まだ夜だから、ベッドで横になってきな。床は冷えるだろう」

「平気です、あたし……」


 かくん、と首が揺れてからしばらく、床の木目を見るともなく見ていた少女は、おもむろに彼の方へと振り向いた。


「どうした? ……ああ、暗くて見えないのか」


 今、蝋燭を――と、アスターへぶつからないように椅子を引いて、見えずとも覚えている戸棚へ近付こうとした時だった。彼のものより二回りは小さい、桃色の爪がついた指先が、服の裾を摘んでいることに気が付いたのは。


「さっき、町の人が話しているのを、聞きました」


 言葉を一つ紡ぐたび、アスターの声色から、眠りの皮が剥げていく。その変容を一身に浴びたローリエは、満月の夜に人間へと姿を変えるという、遠方の港町に伝わる人魚の民話を、無意識に少女へ透かして見ていた。


「この家にも……あたしと同じような子が、いたんでしょう?」


 慎重に心配を滲ませる、無垢な語り口の少女から、彼は、目を逸らすことができない。「悪魔」と呼ばれ、蔑まれる身の上となった孤児は、時折、ローリエをはっとさせるほど清廉な顔をする。アスターの瞳は、暗がりでも分かるほど、鮮やかに澄み渡る緑色だった。


――きつい態度を取っておいて、ごまかすわけには行かないな。


「ちゃんと話すから、少し、待っていなさい」


 凪いだ片目と声で諭されて、少女の手が、ゆっくりと彼の上着から離れていく。男は、まだコルクが抜かれていない赤ワインを一本携えて、同じ一階にある台所へと向かった。


――――――


「ミオは、俺の妹だ。血こそ繋がっちゃいないが、六歳のあいつを両親が連れてきたその日から、ずっと家族だった」


 厨房から戻ってきたローリエの両手には、注がれたグリューワインからの湯気が踊る、二つの陶器があった。地図探しついでに掃除をしたらしい厨房の、床下収納に眠っていたスパイスのストックは、封切り直後の赤ワインと共に煮込まれた。赤に浮かぶレモンとオレンジの輪切りが、振動の余韻に合わせて揺れている。長めに火を通されたのか、アルコール独特の揺らぐ文様は、水面に見当たらない。机上に置かれた手燭が、かつての授業のように並んで座る二人の相貌を、暗闇から掬い出している。


「うちの家系には、道楽者が多くてな。両親も例に漏れず、その類の人間だった。数年ぶりに帰ってきたと思ったら、博打で稼いできた大金と一緒に、四つん這いで威嚇する子どもを置いていくもんだから……まあ、正直、小僧ながらに焦ったよ」

「……もしかして、おじさまがたくさん金貨を持っているのって、ご両親の?」

「『清貧』に暮らす分には、十分すぎたってだけの話さ」


 カップの中身を一口飲んだ彼につられて、アスターも飲み口に顔を近づける。クローブとシナモンの香りが鼻腔をくすぐるグリューワインは、少女の舌にはまだ熱かった。


「二親こそいたが、後生大事に世話をしてくれたわけじゃない。ミオと出会った十一の頃、俺にとっての居場所は、修道士見習いとして通っていた、町の教会だったよ」


 両手で支えた陶器越しのぬくもりは、ゆっくりと全身を巡っていく。再び肩に居座った二枚の毛布のうち、眠るローリエにかけられていた厚い方は、今は少女にあてがわれている。彼の頬はほのかに朱へ染まっており、一人の間に喰らった酒気の残滓を感じさせた。


「だが、彼女が妹になってから、居場所は二つに増えた」


 眦を細め、微かな笑みを口元へ浮かべる。陽炎の向こうに誰かを探すような目つきが、アスターの胸を密かに痛ませた。


――おじさまにとっては、昔のことじゃないんだ。


 夢の中で父と会い、現実との境界線が曖昧なまま目覚めた朝。同じような顔つきの自分が、足元の水溜まりに映った過去のある日を、少女は思い出した。


「向こうにすれば、刷り込み同然の好意だったろうが。椅子に座ることや、スプーンの使い方を覚えたばかりの小さな生き物が、一生懸命、自分の後ろをついて回ったら……そりゃあ、愛おしくもなる」


 言葉を区切る前に寄越された視線を、アスターはどう受け取ってよいものか、分からなかった。緩慢な瞬きを数回挟んで、元通りに光源を眺める彼は、普段よりも饒舌で、口調までもが少し甘い。


「痩せた髪も、一緒に過ごすうちに艶めいて、ブロンドの巻き毛になった。左の眼窩が空なのも、右脚を引きずって歩くのも気にならないくらい、生来の目鼻立ちが整っていたから」


 不意に、隙間風が蝋燭の炎を掻き消した。


「――二十歳を過ぎたら、さぞかし、綺麗だったはずだ」


 明るさに慣れつつあったアスターの視界では、言い捨てた彼の表情の仔細を見ることは叶わなかった。


 芯に辛うじて残っていた火種が、何事もなかったかのように息を吹き返す。左隣の彼からは、どこか危うく見えた影が姿を消している。いつも通りに気怠そうな、少しくたびれた視線で、ローリエはアスターの方へと振り向いた。


「町では、何を、どこまで聞いた?」

「……杖をついた女の子が、帝都に連れて行かれたと」

「うん」

「それで、……それで、その子は、亡くなったんだと」

「ああ。ミオを殺したのは、俺だ」


 普段の相槌と変わりない声色で、彼はそう言った。

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