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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第3章 緑の瞳
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第21話

 夕暮れに伸びる少女の影は、石畳の上で長く引き伸ばされている。話し声や足音がしない道を選ぶ散策は、沈んだアスターの気持ちを軽くするには至らない。瞼の裏に焼きついているのは、鬱々と酒瓶を空にするローリエの後ろ姿だ。奥まった部屋で窓すら開けず、黙って強い酒を煽る彼を扉の隙間から覗き、かける言葉が見当たらずに外へ出た。日を跨ぐ前には戻るつもりでいるが、戻ったところで、どうすればいいのか分からない。


「日記にあった『ロイ』は、きっと、おじさまのことよね」


 クロワ帝国の聖職者のうち、役職が与えられていない見習いは、新米司祭が先導する各地での奉仕活動に勤しむ。これは、廃れていくばかりの片田舎に住むアスターが、聖書の内容を知ったきっかけにも通じている。帝都から派遣された一行が振る舞う、ジンジャーブレッドと聖書の講釈で「悪魔」を知り――夕食の場で、得たばかりの知識を父へ披露して、少し寂しそうな顔をされたことも、アスターは覚えている。今思えば、彼と彼女が「深碧の民」の末裔である以上、叱られなかったことが不思議なくらいだ。


——考えてみれば、変だわ。いくら危険な遺物とはいえ、司教さまが、使い走りに出されるだなんて。


 ローリエは、司祭よりもさらに上の立場である、司教という地位を得ている。教皇によって任命され、各所における教会活動の責を負う彼らは、アスターに代表される一市民にとって、雲の上のような存在である。万が一、司教が遣わされるにしても、徒歩ではなく馬車で移動するだとか、手足として若い司祭を従えている方が、まだ納得できた。


「それに、あの子の『義眼』って——」


 どっと沸いた歓声で、少女の全身は飛び跳ねた。よろめき、数歩離れた漆喰の壁の向こう側は、どうやらこの町の酒場になっているらしい。驚きで鼓動が早まった心臓を、服の上から両手で押さえる。身体の内側を伝って響く動悸が、耳の奥で騒がしい。


――あたし、また考え事に夢中になってたんだ。見つかる前に、引き返さなくちゃ。


 足音を殺して、来た道を折り返そうと砂利を踏みしめたアスターの耳に、心拍以外の音が届く。宴席の肴にされているのは、「二体のドラゴンと悪魔の少女」に関する噂だった。


「北にある村によ、ずーっと潜んでたんだとさ。劇の小道具だったドラゴンに力を与えて、大暴れして飛び去ったって話」

「しかも、近くに居合わせただけの村人を、焼き殺したっていうんだろ? 曲がりなりにも、同郷だろうに」

「おお怖い! やっぱり、悪魔なんざ人間の、いや、生物の風上にも置けねえや」


 全くそうだ、と高らかに嘲り笑う町民の声が、アスターの足をその場に縫い付ける。左胸を中心にして引き攣る衣服が、少女が握った拳の強さを伝えていた。


――何も、知らないくせに。


 ぐらぐらと煮立ち始めた自身の感情を声に出さないよう、息を止めた彼女は、その場でじっと立ち尽くす。確かに、ドラゴンの吐いた炎に巻かれた人はいたし、人間の手でしか外せない拘束を解いたのもアスターだ。それでも、全ての咎を「悪魔」になら背負わせてもいいと言わんばかりに捻じ曲げられて、微笑みで受け流していられるほど、少女の心は凍っていない。悲しみよりも怒りが勝るのは、別れて久しい魔獣の親子への愛着が、今も色濃く残っているからだった。


 熱い息をゆっくりと吐くアスターは、室内で続けられる「他愛のない与太話」が、まだ聞こえる距離にいる。何度も飲み口をかち合わせる酔っぱらいたちは、さらに声が大きくなっていく。


「悪魔っていやぁ、昔、うちの町にもいたよな」

「杖歩きの悪魔だろう? 懐かしいね、ちょうど二十年前の話じゃないか」

「あれも、十何歳かの女子だったな」

「鉢合わせた時は肝を冷やしたが、つくづく、帝都の教会ってのは優秀だよな。浄化が終わったってことを伝えるためだけに、お遣いまでよこしなさった」

「なぁにを『浄化』だなんて、気取った言い方してんだか」


 机の天板にグラスの底が叩きつけられた音で、にわかに宴は静まり返る。たっぷり数秒の間を空けて、再び口を開いた町民は、喜色を隠そうともしない声を張り上げた。


「あいつは、殺されたんだろ!」


 再び盛大な笑いに満たされたテーブルは、呂律が怪しくなってきた舌で、教皇を讃え始める。当然、「悪魔」をなじる言葉たちも、忘れずに談話へ織り交ぜられていた。


「化け物ってのは、どこにでもいるもんだ」

「そりゃあんた、虫と一緒だよ。隠れて過ごせばいいものを、人間様の領域に這い出てきやがる……」


 アスターが聞いていられたのは、そこまでだった。踵を返した革靴の踵は低く、凹凸が目立つ石材の上でも、思いきり走ることができる。息を切らした彼女の瞳に宿るのは、もはや、怒りでも悲しみでもない。古い傷に血が滲んだと思しき彼の、ただ傍にいなければならないという衝動だけが、アスターを突き動かしていた。


――勘違いなら、それでもいいから。思い込みが激しいなって、馬鹿だなって、そう、笑ってくれてもいいの。


 雲間を縫った月明かりが、一心に駆ける少女の帰路を、無口に照らし出していた。

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