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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第3章 緑の瞳
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第20話

「生憎、他は物置同然にしていてな。換気さえすれば、ここが一番マシだろう」


 「悪魔」と呼ばれている「深碧の民」の故郷、亡国ラディチェへの道すがら、二人はローリエの持ち家に立ち寄った。室内に満ちた埃っぽい空気から、長らく彼がここを訪れていなかったことが窺える。窓の外で閑静な町を行き交う人々は、穏やかな顔で今日を生きていた。日の出前に移動してきたアスターたちは、今のところ、誰にも呼び止められていない。旅のお供である二頭の馬には、暖炉の薪を保管している、裏庭の小屋に入ってもらった。


「地図と、ラディチェについて書かれた本を探すんですよね」

「後者はあれば御の字ってくらいだが、最低限、通る道の目星は付けたい」


 レザンとイリス、もとい、アスターの両親が逢引きを重ねた花畑には、ラディチェで使用された文字こそ棺に彫られていたものの、亡国までの道筋までは書かれていなかった。細かい立地に関しては、流石のローリエの記憶も曖昧で、クロワ帝国の西方にあったということだけしか分かっていない。実際に辿り着くためには、ラディチェが滅亡する前の地図と、現代の地図とを照らし合わせる必要があった。


「お前さんは休んでろよ」

「そんな、あたしも探します! 言い出しっぺですし、おじさま一人を働かせる訳には」


 そもそも、ローリエが地図や本の一式を持たずにいたのは、アスターが宿を飛び出したのを、慌てて追いかけたからだ。平民には到底手が出せない高価な資料の数々を、彼は田舎の村に置いてきてしまった。そのことについて恨み言を言われたことは一度もないが、アスターにとっては、いつか挽回しなければと思っている重大な事柄だ。ローリエが眠った隙に、指輪による本の生成を試しもした。けれども、所有者の想像が及ばない品は作り出せもしないらしく、白紙、かつ、タイトル不詳の紙束が眼前に積まれただけだったのである。仕方がないので、それらは薪の足しにした。


「長旅に慣れていない上、道中で何度も指輪を使って、疲れているはずだ。休める時に休んでくれた方が、こっちも助かる」

「う……た、確かに、最近は眠りが浅いですが……」

「よし。決まりだな」


 二階へ続く階段を登る彼の後ろ姿は、相変わらずの猫背が一層気怠げに見える。追い縋っても邪険にはされないだろうが、勝手が分からない家では、かえって彼の面倒を増やすような気もする。包帯の外れた腕を組み、しばし悩んでいたアスターは、結局、あてがわれた部屋へとぼとぼと向かった。


「ベッドなんて、いつぶりだろう」


 ドラゴンの背に乗って飛び立ってから三カ月弱、頬を撫でる風にも、段々と秋の気配が感じられるようになってきた。人目を避けて移動しなければならないため、必然的に野宿ばかりしてきたアスターたちは、お互いに少なくない疲労を覚えていた。見知った物資は指輪でいくらでも生成できるとはいえ、夜が来るたびに通り道へ家を建てていたら、どれだけ人里離れた場所でも怪しまれる。もちろん、ベッドなどの処分に困る寝具を作り出すわけにもいかず、数枚の毛布を身体に巻き付け、硬い地面の上で次の朝を待つしかなかった。蹲った馬たちが、日ごとに入れ代わってアスターの枕を買って出てくれるようになってからは、多少の寝心地は改善された。とはいえ、やはり限界があるのも事実だ。


 たっぷりの羊毛をリネンでくるんだマットレスからは、湿気が少ない土地柄のせいか、カビの臭いがしない。アスターが長らく住み込みで働いてきた宿屋のものより、ずっと上等な品であることは明らかだ。


――そういえば、この部屋にも本はある。


 寝転がっていた少女の視界には、壁際に置かれた本棚が映り込んでいる。手伝いは断られてしまったが、部屋の中を探索する程度であれば、家主たる彼にも異存はなかろう。そう考えたアスターは、ベッドから身体を起こし、いずれの段にも手が届く本棚を眺めた。


――どの家具も、あたしくらいの体格にぴったりだわ。もしかしたら、おじさまが小さい頃に使っていた部屋なのかも。


 澄んだ海を思わせる、鮮やかに青い背表紙の縁に指をかけ、手前へ倒す。引き抜いた革製の表紙には、勿忘草の模様がカービングで描かれている。いざ開いてみた羊皮紙のページたちには、少女には見覚えがない筆跡で、数字の小見出しから始まる文章がいくつも綴られていた。


「……日記?」


 一日につき数行でまとめられた記録は、二十数年ほど前から始まっている。序盤は誤字やスペルミスもいくらか認められたが、段々とこなれていく経過を眺めるのは、アスターから見ても微笑ましいものだった。当初の目的を頭の片隅によけた少女は、柔らかなベッドへ腰かけて、見知らぬ誰かの日々を追い始めた。


『杖が小さくなってきた。ユニコーンの足みたいな、白木でもう少し軽いものが欲しいけど、どこに売ってるんだろう』


『洗濯物を畳むのが、昨日よりも上手にできた。この調子だと、明日は新品みたいにできちゃいそう』


『今日は最悪の日。ミオがこの世で一番嫌いなものと、うっかり遭遇したの。ミミズみたいな横縞がある尻尾に、濁った灰色の毛足と、意地悪そうな尖った前歯。そう、ドブネズミ!』


『レディ・ミオの価値は、片目が無いくらいじゃ落ちやしない。けど、周りは、そう思わないみたい。慣れっこだけど、これから散歩は夜にしよう』


『水を換えようとして、花瓶を割っちゃった。怪我はしなかった。怒られるかな』


――怪我がないなら、きっと許してくれるわ。


 日記の持ち主は、「ミオ」という名前の、左の眼球がなく、脚も不自由な女の子らしい。愛嬌に満ち溢れた日と、少し寂しげな日が波のように引いては寄せる一冊は、故郷の村で不遇な日々を送っていたアスターが心を傾けるために必要な魅力を、十分にもっている。日記の内容に応じてころころと表情が変えられることさえ、気を張らざるを得ない日々を送る彼女にとっては、素直に楽しいことだった。


 全体の半分ほどを過ぎた頃、読みやすく整えられつつあったミオの筆跡が、突然乱れる。その理由が喜びに満ち溢れたものであることは、周囲に書き加えられた可愛らしい模様で、すぐに察することができた。


『ロイが帰ってきた!』


 ミオの短い一言は、これまで手繰ってきたページの中で最も嬉しげで、今にも踊り出しそうだ。


「……『ロイ』って、もしかして」


 帰宅を喜んだ少女の日記は、それから三日を空けて再開された。


 いつも仕事で忙しい「ロイ」が、近くを通ったついでに立ち寄ってくれたこと。その仕事は、教会による地方への慈善活動であること。そして、血の繋がりがなくとも、ミオは、彼を大切な兄だと思っていること。


 彼の出立に合わせてしたためられた文字たちは、ところどころ滲んでいる。気丈な振る舞いを紙の上でも見せていたミオの、柔らかな心の内が曝け出されているようで、読者に過ぎないアスターの胸までもが切なく痛んだ。日記の中で息づく少女は、一年に一度か二度だけ顔を見せる彼の帰りを、今か今かと待っている。


『また仕事に行っちゃったのは、正直、すごく寂しい。でも、お土産を持ってきてくれたから、優しいミオは許してあげるの』


 いつもの調子を取り戻そうとする彼女の文章からは、手を腰にあてて立つ少女の姿が目に浮かぶ。ミオの髪の色すら知らないアスターは、奇妙な親しみを抱きながら追った次の文で、自身の目を疑わざるを得なかった。


『まさか、義眼なんて希少品を、旅先で見付けられたなんてね』


 その瞬間、ミオの日記は、アスターの手から離れた。取り上げられた方を咄嗟に向くと、右目を見開いたローリエが、真っ青な顔で立ち尽くしている。琥珀のような彼の虹彩と一緒に、本を握る手指までもが震えていた。


「あ、あの……おじさま、ごめんなさい。勝手に読んで」

「いや、お前さんは、何も……」


 深く呼吸をしようと試みながら、十分に肺が膨らむ前に吐き出してしまう彼の痛々しさは、手負いの獣によく似ている。


「――悪い。しばらく、一人にしてくれ」


 背を向けて立ち去った彼へ縋りつくようにして、片開きの扉が間もなく閉まる。取り残された少女の頬を、埃混じりのそよ風が、音もなく撫でていった。

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