第19話
「旅をするなら、動物を足にした方がいい。山育ちの馬だから、長い距離も難なく歩けるはずだ」
「だめです、受け取れません! あなたの暮らしにだって、欠かせないもののはずです」
来た道を折り返し、ノワが暮らす小屋へ戻ってきたアスターが最初に目を留めたのは、革製の鞍を背負った二頭の馬だった。焦げ茶色の毛並みの彼らは、ノワが飼育している三頭のうち二頭であろうということは、容易に推測できる。アスターが問題としているのは、旅人たちが花畑にいる間、元騎士の婦人が、餞別とする馬の旅支度を全て済ませていることにあった。
「老いてから、遠乗りもろくにしなくなった。今の私には、一頭だけいれば十分さ」
「でも……!」
「貰っておいたらどうだ。あまり、厚意を無下にするのもな」
「そ、そんなぁ」
頼みの綱のローリエは、既に左手で馬の顔を撫でている。撫でられていない方の一頭は、彼の右肩に垂らされた長髪の端を食んでおり、それを咎められもしていない。アスターとノワの押し問答を抜きにして、そこだけ切り取ってしまえば、無性にのどかな光景となっていた。
――子どものドラゴンもそうだったけど、おじさまって、意外と動物に好かれるのね。
馬のじゃれつきを受け入れる彼に勢いを削がれて、念押しで訴えたノワにも首を横に振られてしまっては、いよいよ受け取る以外の選択肢がなくなってしまう。彼女には、温かな食事に宿、両親に関する情報の提供に至るまで、大変な面倒をかけている。これ以上の親切を受け取るというのは、尽くすばかりで貰うことが少なかったアスターのここ数年において、いっそ申し訳なさすらも育まれる行為だった。
「悩んでいたら、また日が暮れるぞ。まさか、もう一泊していくつもりか?」
「いえっ! そんな、滅相もないです」
「なら、早く乗れ。鞍から垂れている、そこのあぶみに足をかけるんだ」
ノワに馬の扱いを教えられ、ローリエに支えられて跨った馬は、大人しくアスターに乗られている。少女の補助が落ち着いて、彼が飛び乗った右隣の馬は、アスターが手綱を握る一頭よりも、体格がややがっしりしていた。運ぶ人間の重さに応じて振り分けられた馬たちは、どちらも涼しい顔で蹄を鳴らしている。合図一つを出してやれば、すぐにでも駆け出していけるだろう。
「最後に一つだけ、お聞きしてもいいですか」
馬に乗ったことで、アスターにも、己より身長が高いノワを見下ろせるようになっている。誰かを見下ろすという行為に慣れず、上半身が丸まっていく少女に、婦人は視線を合わせた。
「どうして、ここまで良くしてくれるのかが、分からなくて……あたしたちの名前すら、あなたに伝えてはいないのに。もしかして、『悪魔』を信じていないとか?」
「私が信じ、願い続けてきたのは、イリス様の幸いだけだ」
そう答えた彼女の目は、よく研がれた剣のように清廉だ。濁り一つ、ためらいの一つもない。端的に言葉を選ぶ彼女の口調は、そのまっすぐな性格に起因しているのだろうと、アスターは思い至った。
ノワの忠誠心は、長年仕えたイリス本人のみならず、彼女が命と引き換えに産み落とした、一人娘にまで及ぶのだ。
――馬に乗せてもらえて、良かったかも。
「こちらに、頭を傾けてください」
自身の肩掛け鞄を開けた少女は、まだ軽い荷物の中から、手製の贈り物を取り出した。それをノワの頭に乗せたアスターは、切れ長の目元を驚きで見開いた彼女に向かって、柔らかくはにかんでいる。
「これは……」
「教えてもらった花畑で、作ってみたんです。ちょっぴり失敗しちゃったんですが、その分お花を足しました」
――いつか、お母さんが編もうとして叶わなかった花冠は、二人分だったはずだから。
綺麗な花冠を恋人に編むだけなら、従者の手出しを禁じたとしても、遠くに追いやる必要はない。将来を誓い合ったレザンだけではなく、姉のように慕ったノワに対しても、イリスが深い愛情を持っていたことは明らかだった。
「……お父さんは、あたしを『小さなお姫様』なんて呼んで、大げさなほどに愛してくれました。お母さんだって、不幸を感じる暇すらないくらい、愛されていたと信じています」
ローリエが棺の文言を翻訳している間、左手に飾られた指輪に頼らず作った冠は、少し歪な輪の上に、溢れんばかりの花々が咲いている。
「また今度。あなたと、あたしのお母さんの話を、ゆっくり聞かせてくださいね」
背を伸ばしたアスターは、隣の彼に倣って、馬の腹を軽く蹴った。動き出した四つ足のおかげで、ほとんど止まっていた空気が、心地よい向かい風に変わりつつある。次第に速度を上げていく、焦げ茶色の肌が熱い馬に振り落とされないように、翠眼の少女は、しっかりと手綱を握りしめた。




