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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第2章 緑の記憶
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第18話

「大まかにだが、ここに書かれている内容が分かった」


 後ろに両手を回したアスターは、元から大きな目をさらに丸くして、こちらを見上げている。傾き始めた熱源は、もうしばらくの間は夕暮れをもたらさずにいてくれるだろう。直射日光の下で、ローリエが勤しんでいた翻訳は、粗削りながらに完遂された。あまり働かせる機会のない部分の脳を酷使したからか、彼の頭の中には、小さな火花がまだ散っている。これが私的な用事であったのなら、さらに細かい解読へと身を乗り出していたことだろうとすら推測される、尋常ならざる知識欲のなせる業だった。


「す、すごい……。あたしもちょっとだけ眺めたけど、まるで読めませんでした」

「これをお前さんがすらすら読めたら、スープに妙なものが入っていたのかと勘ぐるぞ」


 まろい頬と、あどけなさが残る表情はやはり幼い。二十歳の成人すら迎えていない、穏やかに日々を過ごせるはずだった少女に対する罪悪感が、ローリエの内側で密やかに募った。今は彼に見えない左手の、細い小指の根元では、緑の石が素知らぬ顔で艶めいている。色づいた宝石と、彼女の命が尽きるまで外れない銀の輪は、男の過失を知らしめる証拠品でもあった。


「そうだ。これ、ありがとうな。目と頭が慣れたから、次に同じ文字を見かけても、お前さんの厄介にはならずに済むはずだ」


 胸中の自責を伏せながら掲げた、書き散らした後の羊皮紙は、ローリエの目から見ても大変な乱雑ぶりだった。とても人に読ませられるような代物ではなく、思考の整理にのみ注力していたことが、文面にありありと表れている。せっかく帝国の文字を覚えた少女には申し訳ないが、今回ばかりは、口頭で説明をすることになるだろう。


「司教さまって、皆が皆、『そう』なんですか?」

「うん? ……ああ、文書に残すものについては、もっと神経質な奴の方が多いぞ。聖書も写本だから、書き損じの少ない人間は重宝される」

「いえ、そういう話ではないんですが……」


 アスターが尋ねようとしていたのは、ローリエの博識さが役職に伴って身に付いたものなのかという点についてだったが、意図の伝達は失敗したらしい。お互いに首を傾げるばかりの二人は、中途半端な議題を、ひとまず横へ押しやることにした。ローリエは、肝心の文面の近くに片膝をつき、彼を追ったアスターも、石蓋の脇へとしゃがみこんだ。


「この記述によると、そこへ葬られているのは、ラディチェに住んでいた『深碧の民』という民族らしい。帝国側から仕掛けられた戦に追われて、散り散りに亡命した先の一つが、この辺りだったとある」


 積み重なった人骨の底から、指ほどの太さがある、大きな百足が這い出てきた。長い身丈でいくつもの列を成しているところを見るに、棺は彼らの住まいだったらしい。多足類の代表格がアスターの傍へ向かう前に、手頃な枝に引っ掛けて、骸骨だらけの奈落にお帰りいただいた。


 感染症など、墓守一人の手に余る埋葬について、修道士たちが手伝いをするのは珍しいことではない。蛆が湧き、甘ったるい腐敗臭で害虫を引き寄せる遺体を取り扱った経験は、当然、ローリエにもある。その過程で、虫にも慣れざるを得なかった。


「彼らは、ラディチェの生き残りだと悟られぬよう、息を潜めながら暮らしていた。祖国から持ち出した国宝を、不安に満ちた生活における、心の拠り所にしてな」


 骨の数を見る限り、亡命した彼らの子孫は、何世代にも渡っていた。帝国の歴史の長さを鑑みると、『深碧の民』が滅亡に追いやられたのは、今から数百年も前の話だ。気が遠くなるような長い時間、故郷を追われた彼らが耐え忍んできたのだと考えると、直接の血縁はないローリエでさえも気鬱になった。


「……クロワ帝国とラディチェの衝突が終わり、小国が地図から消えて、しばらく。帝国民を装うことにも慣れ始めた『深碧の民』は、国宝を集落の長が身に着けることで、民族としての誇りを保とうとした」


 希少な文字の羅列に注がれていた彼の視線が、隣の少女へと移っていく。眼帯で覆われていない右目に、見つめられていることに気が付いた少女の、困惑と緊張が入り混じった表情が写り込んだ。


「え? あ、あたしが、何か?」

「お前さんが、左手の小指に着けている指輪。そいつは、『創造の指輪』として、彼らが後生大事に受け継いできたものなんだと」


 食べ物や生活必需品を分け与える、教会の慈善活動を通して、ローリエは様々な風習をもつ集落を巡ってきた。そのうち、いくつかの共同体は、ついに帝国の文化に馴染むことができずに、住む人の数を片手で数えられるほどに減っている。彼の目の前で膝を折る、十五歳の少女もまた、衰退した民族の末裔だった。


 ぽかんと口を開けた彼女は、自分の左手を顔の傍に寄せて、指輪をぼんやり眺めている。「悪魔の神器」とされる装身具のうち一つ、空想を具現化する力をもつ「悪魔の指輪」は、アスターの先祖たちが守り、縋ってきたラディチェの国宝だったのだ。


「で、でも……指輪の力を行使してしまったら、瞳の色が変わりますよね。この国で暮らしていくのであれば、これを身に着けることは、すごく、危険なことのように思えるんですが」

「ああ。だからこそ、お前さんの父親は、指輪を嵌められなかったのさ」

「嵌められ……なかった?」

「小屋で話を聞いただろう。レザンという男は、空き家ばかりの区域に住んでいて、かつ、領主の末娘とは幼馴染にあたる間柄だったことを」


『領地の外れにな。空き家の目立つ、廃れた一角に住んでいた』

『二人は、互いに一桁の年齢だった頃から、密かに仲を深めていたというのに』


 ノワが語った彼らの生い立ちは、期待以上に役立っていた。もしかすると、レザンがイリスへ害を成していると判じられた際に、迅速に彼を排除するため、あらかじめ集めていた情報だったのかもしれない。血族に察されるより前に二人が駆け落ちをしたのは、きっと英断だったのだろう。それを許し、去り行く二人を見送った彼女も、ひとかたならぬ騎士である。


「おそらく彼は、この近辺に住む『深碧の民』の、最後の一人だったんだ。だからこそ、一族の誇りの象徴である指輪を、齢若くして与えられた」


 正確には、与えられたのではなく、抜き取った、というべきだった。死ぬまで外れない指輪を受け継ぐのであれば、代替わりの時には、どうしても遺体からでしか指輪を引き抜くことができない。少女を怖がらせかねない情報を意図的に省くのは、できることなら平穏な世界で暮らしてほしいという、ローリエの私情によるものだった。


「しかし、彼は分かっていた。自分が指輪を身に着けてしまえば、奇跡のような事象を引き起こせるという甘い誘惑に耐えかねて、その力を使うだろうと。そして、その場合に害が及ぶのが、本人だけではないこともな」

「まさか、お母さんの……恋人の、身を案じて?」


 ローリエは、神妙な顔つきのまま頷いた。悪魔と親しい間柄にあって、「人間」側がお咎めなしでいられるわけはない。ましてや、イリスはれっきとした伯爵令嬢だ。元から軟禁状態だった彼女が、翠眼となったレザンと逢引きを重ねていることが領主に知られたら、監禁生活が始まることだってあり得た。それが決して大げさな対応ではないくらいに、緑色の瞳は、この国では忌避されているシンボルだった。


「細い指輪を嵌めるなら、幼いうちに身に着けていなきゃならん。特に男は、発育と共に指へ節ができるから、尚更だ」


『迷っている間に、小指にすら通せなくなった』


「彼の決心がつかないまま、身体ばかりが大人になっていった、と……そういうこと、だったんですね」

「当人たちに話を聞けない限りは、点と点とを繋げるしかない。お前さんの父親の心情に関しては仮説に過ぎないが、一応、これで説明はつくだろう」


 逸れた彼女の視線は、亡骸の山へと注がれている。緑色の瞳は凪いでいて、恐怖や同情といった思念は、傍目には容易に読み取れない。時折アスターが見せる、こうした透明な素振りは、ローリエの心配を密かに誘うものだった。


「そうすると、『深碧の民』は、帝国で『悪魔』と呼ばれた最初の人々だったということになります。『悪魔』の第一の特徴である翠眼へ、持ち主を変化させ得る道具を所有していたとくれば、この繋がりは無視できません」

「だが、なぜ彼らが『悪魔』と呼ばれ、聖書に記すほどに蔑まれたのかという点については、手持ちの情報じゃ判断できんな」

「……やっぱり、現地調査をするべきですね」


 彼の片眉が上がり、口角が下がる。済んだはずの話を蒸し返されるのは、ローリエとアスターのやり取りの中では、さほど回数が多くはない。それだけに意志が強いのだと考えることもできるとはいえ、彼にとって、この結論はどうしても譲れないものだった。


「教会には立ち入るなと、忠告したつもりでいたが」

「いいえ。調べるのは、ラディチェの方ですよ」


 そこで、少女は彼の顔を見る。野に咲く花のような、控えめながらも癒しを与える微笑みは、ささくれ立ったローリエの気持ちをも落ち着けていく。騙し合いや、相手を出し抜くために使われる笑顔とはまるで異なる、どこまでも清らかな表情だった。


「次は、ラディチェがあった場所に向かいましょう。それなら、教会のように敵がいるわけでもなし、おじさまも安心でしょう?」


――安心というか、なんというか。危険に晒されているのは、お前さんの身なんだが。


 いまひとつ危機感の足りない少女は、自信たっぷりといった顔で、ローリエをまっすぐに見つめている。きっと了承してくれるはず、という期待を隠そうともしない眼差しには、少女から彼に対して抱かれた信頼も窺えてしまう分、大変に断りづらい。顎に手をあて、しばらく考えこむ素振りを見せたローリエは、結局、己の首を縦に振ることになった。

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