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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第2章 緑の記憶
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第16話

 訪れたばかりの他人の家に残されて、心細く思う感情は、理性による舵取りが難しい。故意と過失のいずれであっても、その結果があり得るかもしれないというだけで、少女の顔は白くなっていく。村の噴水広場で、逃げる先もないと目の前が真っ暗になった感覚が、再びアスターの全身を蝕み始める。不安の種が、少しずつ、けれども着実に大きくなっていく。


 気性の荒い動物の縄張りに入って、襲われでもしたら? あるいは、帝都からの追手に見つかって、捕まっていたら? それとも、あたしのことが嫌になった? 低い可能性までもを掘り起こして、憂いばかりを募らせるアスターは、知らず知らずのうちに両手を固く組んでいた。前方に跪いたノワが、震える手を包んで、心配そうにこちらを覗き見ているのが分かる。分かってはいても、言葉が喉から出てこない。蹲っているというのに、倒れてしまいそうだった。


――独りに、なってしまったら。


 不意に、誰かが少女の肩に手を置いた。半ば反射で顔を上げれば、夕暮れを背にして屈んでいる、浅黒い肌の彼が視界の大半を占めた。


「どうした? 何かあったのか」


 手と声の主は、ローリエだった。彼の右手には、きらきらと光る、花形のオブジェめいたものが握られている。わっと安心が押し寄せたアスターの目から、ぼろぼろと大粒の雫が落ちていく様子に、大人たちの反応が一拍遅れた。貴重な水分で顔を濡らした少女は、土と砂で汚れることも構わずに、彼の胴へと飛びついた。


「あた、あたし、てっきり置いて行かれたのかと……!」


 やっとの思いで言いきったアスターは、ローリエの服に涙で模様をつけていく。子どもらしく泣きじゃくる彼女の背へ、男性らしく大きな手が、戸惑いがちに置かれた。衣越しでなければ、きっと、彼の体温が感じられたのだろう。


「……出る前に、伝言を頼んだはずだが」

「伝えたさ。姫君は、人づての言葉では物足りなかっただけだ」


 舌を火傷するほど丁寧に温め直されたスープを、三人が揃った食卓で囲む。塩味が増しているように感じられたのは、山の湧き水で流し損ねた、涙の味だった。中身が空になった鉄の鍋には、汚れを浮かすための水が注がれた。


「あの……おじさま。さっきは、お騒がせしてすみませんでした」


 しょっぱい食事を済ませた少女は、迷惑をかけた詫びに洗い物をしようと向かった台所から、家主によって摘まみだされた。さらに、今日は目立った運動をしていないにも関わらず、有無を言わさずにベッドへと連行されてしまったので、ふかふかの寝床も居心地が悪い。ささやかな苦労をして眠る体勢をとったアスターの目には、低めの天井と、見張り役を命じられたらしいローリエが映っている。寝台の隣、ベッドサイドテーブルと組になっている椅子に腰かけた彼は、アスターを穏やかな眼差しで見守っていた。


「あたし、自分で思っていたよりも、泣き虫だったみたいです」


 アスターは、掛け布団で顔の下半分を覆ってから、頼りなげに眉根を下げた。小さな燭台で揺れる灯が、眦を和らげたローリエの姿をほのかに照らし出している。頭が冷え、落ち着いて自身の振る舞いを思い返すだけの余裕ができた少女にとっては、彼のそんな些細な仕草すらも、布団を全て被りたくなるほどに恥ずかしかった。


「一人で動くつもりだと、先に言っておくべきだったな」


 口元を隠した少女が、眉を顰めて抗議する。不満を雄弁に語る眼差しを注がれ、困ったような笑みを浮かべた彼に免じて、少女は、狭めていた眉間を元の通りに戻してやった。鎖骨の辺りまでずり下げられた布団が、首周りのささやかな熱を取り逃がす。


「枯れない植物が、まさか、宝石になった植物のことだったなんて、驚きました」


 枕に後頭部をつけたまま、アスターは首を傾げた。布の上に散った黒髪が、ぱさりと軽い音を立てる。賭けの要となっていた採集物は、既にノワへと明け渡されているため、ローリエの手元にない。少女は、貝の内側のように品よく輝いていた、不思議な形の鉱石を思い返した。


「ウッドオパールは、ある成分を含む水が木に流れ込んでできるものだ。大方、しなだれた小ぶりな木が変質して、遠目に菖蒲と見間違えられたのが、伝承の始まりだったんだろう」


 ローリエが持ち帰った「枯れない菖蒲」は、ちょうど花弁の部分が青色に照り映える、遊色が豊かな準貴石だった。山の中腹を裂くように横たわる谷に生えて……否、埋まっていたというそれは、一目では石と分からない色彩と、たおやかな曲線美を備えていた。


「花畑や、水辺やらを探したところで、誰も見付けられないわけだ。ご丁寧に砂まで被り、植物ではないだろうと踏んでいた俺ですら、うっかり見落とすところだった」

「枯れない菖蒲で病を治せる、というのも、作り話なんですかね」

「それは……どうかな。昔、今よりも豊かに地脈を巡っていた魔力の活用は、もっぱら、自然にそれらを吸いながら形成された鉱石を加工することで実現されていた。あのウッドオパールも、かつては魔法がかけられていて、旅人の手当てに使われたのかもしれん」


 魔力を保持している宝石は、内側から煌々と光り輝くことが最大の特徴だ。しかし、ローリエが採集した菖蒲型のウッドオパールは、辺りの光を反射するばかりで、光源としては成立していない。単なる観賞用の「花」に過ぎないのか、アスターの指輪に嵌った石のように、特定の条件下で効力を発揮するものなのか、確かめられてはいないのだ。


 枕元に忍び寄ってきた睡魔のせいで、ほとんど頷けてもいない少女のために、ローリエは、捲れた掛け布団の端を直した。


「さあ、もうおやすみ」


 乳白色の重い雫が流れる蝋燭の先を摘み、いよいよ彼は寝支度の仕上げにかかる。鎮火したばかりの芯が、白い煙を室内に漂わせる。ささやかながら眠気に抗っていたアスターも、段々と、瞼が重くなってきた。


「……おじさま?」

「ん?」


 寝室の扉に手をかけ、今にも立ち去ろうとしていた男が、活舌の甘い少女の声で足を止める。細く差した隣室の明かりが、アスターの目元にかかって、彼のシルエットが一層黒くなる。


「置いて、行かないでくださいね」


 決して強くはない光のはずなのに、今は、とても眩しい。逆光の中に佇む、大柄な彼の口元が綻んだのも、明暗がもたらす錯覚だったのだろうか。


「お前さんが、寝坊しなかったらな」


 その声が耳に届く頃には、アスターの目は閉じきっていた。意識を手放す寸前、かさつく指先が瞼の表面を撫でた感触が、微睡む少女の眠りを深くしていく。扉の向こうで言葉を交わす、大人たちの潜めた声が、薄い耳朶をかすめた。

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