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緑の指輪と思い草  作者: 翠雪
第2章 緑の記憶
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第15話

「この山には、奇怪な伝承があるだろう。どんなに深い傷口も、不治の病だってたちどころに治すという、枯れない菖蒲のことだ」

「……文字通り、万に能う薬の源、だったか。かつては私も、躍起になって探したさ」

「そいつを一輪、咲いたまま採ってくることができたら、残りの情報も明かすと約束して欲しい」


 目を瞠った彼女は、にわかには信じられないものを前にした時の目で彼を見ている。会話から一歩引き、傍からその光景を眺めているアスターも、瞬きの回数が明らかに増えていた。この場において、素知らぬ顔をしている人間は、問題となっている発言をしたローリエだけだ。


「正気か? 現物を見た者は誰もいない、架空の代物だぞ」

「探しに出た全員が短気で、さぞ闇雲に漁ったんだろうな」

「ちょ、ちょっとおじさま!」


 アスターが冷や汗を流しながら割り入っても、もう遅い。若かりし頃、ノワもその菖蒲を探したと聞いたばかりのローリエが、無自覚に煽っているわけはない。案の定、彼女のこめかみには、鋭い筋が立っている。幸か不幸か、「若造」と呼ぶ相手から売られた喧嘩を買わないという選択肢は、面子と実力が物を言う世界で生きてきたノワの中には、欠片も存在しないらしかった。


「いいだろう。しかし、こちらも気が短いのでな。二日以内に、という条件も付けさせてもらう」

「交渉成立だ」


 とんとん拍子に進む大人たちの交渉に置いて行かれているのは、保護者の席を取り合われている、庇護の対象たるアスターのみである。口を閉じる機会を逃した彼女は、静かに火花を散らす二人に戸惑いながら、やっとのことで唇を湿らせた。


「あの……。どうして、そこまで徹底されるんですか? あなたの家にまで通してもらえたから、多少は、信用されているのかと思っていたのに」


 その上、天候と運に左右される山暮らしでは貴重だろう食料を、ふんだんに使った料理までもが振る舞われた。少女の胃で消化されつつある獣肉は、明日を生きる身体の一部となる。それは、ローリエにとっても同じだ。器に盛りつけられたスープの量は、各々の体格に見合っており、三人の中では彼の分が一番に多かった。ちぐはぐにも見えるノワの言動は、彼女のような気質の人間と語らったことがないアスターには、今少し呑み込めない。眉をハの字にする少女を見遣った婦人は、蝋燭の先で揺れる炎をねめつけた。


「私は、二度と誤りたくはない」


 部屋の温度が下がった気がした。リビングの隣に位置する台所では、アスターたちが足を踏み入れる前から変わらずに、石で燃え広がらないよう囲われた熱源が燃えている。ノワの声に乗せられた感情は、絶対零度の怒りと、彼女の内側で完結した自責だった。


「イリス様には、行く末も含めて任せられる相手を、連れ合いにさせるべきだった。若くして妻を死なせた上、娘一人を残して逝くような男など論外」

「……お父さんだって、そうしたかったわけじゃ……」

「力なき理想は、不幸と破滅を招く」


 違うか? 透明なナイフで止めを刺されたアスターは、塩をかけられた青菜のように萎れた。反論できなくなったのは、少女もまた、指輪がもたらしてくれる幸福に酔って、破滅へと片足を突っ込んだ当事者だったためだ。


――信念がある人の言葉って、女将さんから理不尽に怒鳴られた時より、ずっと堪えるや。


「二日のうちに、枯れない菖蒲を持ち帰る。それができたら、お前さんは、こちらに残りの情報を渡す。日没までに間に合わなかったら、俺がこの子の傍を離れる。これでいいな」

「ああ。異存ない」


 肩を落とす当事者を差し置いて、大人たちは賭けの要項をまとめてしまった。腰を上げた彼女によって、机の中央で揺れていた小さな赤色が、一息で吹き消される。紺碧の空には、夜の生き物たちの囀りが木霊していた。


――――――


 明くる日の夕方、アスターはノワのベッドで目を覚ました。一通りのことを話し終えた昨晩、ローリエと同じく、小屋の外で眠ろうとした少女は、今夜の寝床をリビングに定めた家主によって、木製の寝台へと押しやられたのだ。疲労が限界だったことに加えて、布に包まれた藁に身体が沈む寝具まで誂えられてしまっては、夜も迫った夕べに起きるというのも、無理からぬことだった。


「う、嘘……!」


 最低限の身なりだけを整えたアスターは、ローリエが寝床を作っていた馬小屋の近くへと飛び出した。しかし、そこに彼の姿はない。小屋の中に戻り、部屋の全てを検めて、馬の住処を覗き見る。そうして再び戻った庭は、先程とちっとも変わらずに、静まり返っている。ノワが管理する敷地は狭く、寝起きからすぐの少女にも、簡単に探し終えることができてしまった。行き先を告げないまま、どこかへ行ってしまったローリエを、アスターは追えない。


――きっと、菖蒲を探しに行ったんだわ。


 庭で丸太を切り、薪の備蓄を作っていたノワが、こちらに気付いて話しかけてきた。


「あの男なら、『安静にするように』と伝言を預けて、朝早くに出て行った。私との賭けに勝つためか、あるいは……逃げるためにか」


 半分はアスターの仮説を後押し、もう半分は不安にさせられる証言では、早い鼓動は休まらなかった。温めてもらったスープもあまり味が感じられず、何の手伝いもできていないうちに日が暮れる。勧められるままに潜った布団が、温かいのか、冷えているのかすら分からない。ともすれば、季節を忘れてしまいそうだった。


 翌日、朝。アスターへ言付けだけを残して去ったローリエは、まだ小屋の扉を叩かない。


 緩慢な動作でベッドから這い出したアスターは、腹を鳴らしているにも関わらず、目の前に置かれた食事に手を付けられなかった。せめて、と出された小瓶入りの蜂蜜も喉を通らずに、スプーン一杯が限界だった。食べられなかったことをノワに謝り、のろのろと軒先に尻もちをついて、身体を小さく折りたたむ。高い空から降り注ぐ日光は、動力源が空っぽな少女の肌を、ほんの僅かに温めた。座り込んでいる最中に、ノワから話しかけられもしたが、うまく聞きとれない。冴え冴えと青かった空は、角のない橙に染まりつつある。アスターは、眠れぬ夜を明かしてから、水の一杯も飲んでいなかった。


――もし、万が一……おじさまが、ここに戻ってこなかったら?


『次の暮らしが安定するまで、こっちで責任を取るのが筋だろう』


 ドラゴンの背に腰を下ろした男は、空にいる間にそう言った。根気強く、見返りも求めずに読み書きを教えた彼の誠実さは、アスターも理解している。正気の人間の方が少なかった暴動の渦中で、最初から最後まで守ろうとしてくれたのは、他でもないローリエだ。そして今、少女を置いてローリエがどこかへ消える、という選択肢は、彼が選びうる道の一つとして頷けてしまえる。アスターの前に、自身の母親を敬愛する従者が、絶対的な味方として現れた。彼女は、翠眼の民に対する嫌悪感を持ち合わせていないらしい。人里離れた山中は、身を隠して生きていくにはうってつけだ。

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