第14話
顔を上げたノワが、アスターと、ローリエを順に見つめる。細められた目元には、彼女が重ねてきた年月を感じさせる小皺が寄っていた。
「イリス様と駆け落ちした青年の名は、レザン。先の口ぶりからすると、彼もまた、既に亡き人となったのだろう」
「お父さんも、この近くに住んでいたんですか!」
思わず立ち上がったアスターの肩を、ローリエが軽く叩く。落ち着け、と言外に指摘されたことに気が付いて、慌てて椅子を引き寄せた。ノワはといえば、にわかに取り乱したアスターを咎めるような素振りを、特段見せはしなかった。
「領地の外れにな。空き家の目立つ、廃れた一角に住んでいた」
アスターたちから目を逸らし、飾り気のない壁を見遣った婦人は、そこで小さく鼻で笑った。
「だからこそ、高貴な娘が好き好んでそこへ行くなどと、領主は考えつきもしなかったのだろう。二人は、互いに一桁の年齢だった頃から、密かに仲を深めていたというのに」
「あなたは、それを助けていたんですか? 密会というか、逢引きというか、その……」
両親が「親」になる前、恋人だった頃の話を聞くとなると、興味もあるが恥ずかしさもある。頬を赤らめるこちらを、大人たちが生温かい目で見守っている気配のせいで、なおさらに耳が熱くなった。
「イリス様は、お身体が弱かった。そのせいで、外出すらも厳しく管理されていた。しかし、本人がそれを苦にして泣くのだから、従僕として、多少の我儘くらいは聞いてやりたくもなる」
――ええと、お母さんがお父さんと駆け落ちをしたのは、お父さんが青年だった頃だから……どれだけ短く見積もっても、十数年もの間、お忍びで出歩く手伝いをしていたことになるよね。
多少、という言葉に含まれる範囲は、ノワの尺度においてはかなり広いらしい。
「ただ、一人にするのは不安だったからな。私も同伴するという条件付きで、イリス様はたびたび屋敷を抜け出した。無論、姫君の父親にあたる男とも、言葉を直に交わしたことがある」
「姫君?」
話に出てきた人間関係を整理すると、イリスは辺境伯の末娘で、恋人はレザン、という形になる。姫君の父親というと、イリスの父親のことかと考えたアスターだったが、どうして今の流れで彼に焦点が当たったのかが分からない。首を傾げ、同席している他の二人に視線で尋ねてみるものの、二対の眼差しがこちらに注がれるばかりで、それきり動きがない。もしや、と自身の強張った顔を指差してみると、二人ともが頷いた。
「今の話が正しけりゃ、大貴族の血をひいているわけだしな」
「それに、私の主の愛娘でもある。この程度の敬意は、騎士として当然だ」
「き、緊張する呼び方ですね」
――そういえば、お父さんはあたしを「お姫様」って呼んでいた。ひょっとすると、あれも、単なる愛称じゃなかったのかも?
知らなかったことが明らかになる度に、くるくると軽く目が回る。座っていることのありがたみが、もしもの世界では令嬢として育てられたであろう少女に染みた。
「……まあ、話を戻そう。つまりお前さんは、主君の逢瀬に付き添っている時に、偶然この指輪を見た、と」
アスターの隣、左側の椅子に座っているローリエは、右手の人差し指で指輪を示した。水場で作業をしても、周りの肉が抉れるほど引っ掻いても決して外れない、呪い付きの指輪だ。
「その指輪は、いつでも彼の胸元にあった。華奢な銀のチェーンに通した、ネックレスの形でな」
ノワは、ロケットペンダントの蓋を閉じた。慣れた手つきで、元の通りとなるように、首裏で留め具を噛み合わせる。誰の助けを借りようともしないまま、彼女は、服の下へと肖像画を収めた。
「――春の、よく晴れた日に。イリス様が、彼のために花冠を作ろうとしたことがあった。あの方は『一人で作るから』と意固地になって、私たちは、作業場所である花畑の隅に追いやられた。若い恋人たちは、十五かそこらの歳だったな」
そして、なぜ指輪を首に提げているのかと、彼に尋ねた。
「私からすれば、他愛のない、暇つぶしのための雑談だったさ。だが彼は、悔いているか、あるいは誰かに赦しを乞うているかのような……いずれにしても、随分と暗い面持ちで、こう言った。『迷っている間に、小指にすら通せなくなった』とね」
不意に、梟が長く鳴いた。温められているはずの室内で、包帯の下に鳥肌が立った気がして、そっと掌を添えてみる。二重に巻かれた布越しでは、体温はろくに分からなかった。
「ま……迷う? 一体、何に対してですか?」
「さてな。その直後、イリス様が急に咳きこんで、会話は打ち止めになった。彼の傷口だったらしい話題を、わざわざ掘り返そうとしたこともない」
ノワとレザンは、顔見知り以上、友人未満といった間柄らしい。知人に対してわきまえられた礼節は、たった一つの指輪のみを遺されたアスターたちにとっては歯がゆい。渋い顔を作った少女は、口元に右手の人差し指を添えて、上向きに生えている睫毛を伏せた。
――持ち主に破滅すらもたらしかねない指輪について、「迷う」だなんて。そんなの、指輪に何かが隠されていて、お父さんは、それを知っていたとしか思えないわ。
「他に、知っていることはありますか? あたしたち、この指輪について、調べ始めたばかりなんです。どんなに些細なことでも構いません。関わりがなさそうに思えることでも、なんでも」
「姫君が、亡き親にまつわる事物を探っている点には、理解を示そう。だが……隣の怪しげな若造は、どんな目的があって、この方に付きまとっているんだ?」
鋭くなったノワの視線が、ローリエに突き刺さる。若造、などと呼ばれるには年嵩があるような気もする彼は、顔に苦い笑みを浮かべている。
「そんな、おじさまは怪しくなんて」
ない、と断定するべく横を見て、アスターは、彼に抱いた第一印象を思い出した。薄汚れてくたびれた衣服に、浅黒い肌と、無精ひげの取り合わせは、いかにも怪しい。その上、親子でもない十五歳の女子を伴っているともなれば、さらに外聞がよろしくない。司教であるということを隠すための仮の姿だとしても、もう少し小綺麗でもいいような気がする。
「ぞ、賊だとか、札付きに見えるかも知れませんが、決して、そんなことはなくてですね。変な取り合わせに見えるかもしれませんけど、そこに関しては、あの、どうか目をつぶっていただきたく……」
「……それなりの言われようだが、反論は?」
「まともな感性で、かえって安心したところだ」
「うう……すみません」
「俺たちの関係を言い表すとすれば……同伴者、あたりが妥当だろうな」
「同伴者、ねえ」
目視で品定めをされているローリエは、誰がどう見ても分が悪い。フォローに見せかけた失言を放ったアスターは、今度こそ彼を擁護するために、ええいままよと立ち上がった。
「おじさまは、あたしに文字を教えてくれました! 今着いてきてもらっているのも、こちらの我儘を聞いてくれているからで……つまり、悪い人じゃないんです! 本当に!」
一息に言い切った少女は、胸元で二つの拳を作り、肩で息をしている。しかし、主観だけで構成された荒削りの意見は、彼女に響かなかったようだ。刃物じみた目つきは、頑として保たれたままである。
「……お前は先刻、姫君を背に庇った。今度は、姫君の言葉でその風体を庇われている。血の繋がった家族ではないにせよ、随分と慕われているらしい」
背に庇ったというのは、小屋に来る前、二人が焚き火をしていた空き地での話だ。よくよく考えてみれば、疑いようのない不審者と判断された人間が、女性が独りで暮らしている家に招かれるはずもない。家に踏み入ることを許されたのは、見覚えのある指輪一つだけが理由だったのではなく、密かに観察されていたアスターとローリエの振る舞いも相まってのことだったのだと、今更ながらに気が付いた。
「そ、そうです! だから――」
「だが、それだけだ」
もしや、険しいのは表情だけで、訴え続ければ折れてくれるのではないか。アスターのそんな淡い期待は、彼女のすげない反論によって霧散した。
「連れ歩くだけに留まらず、最後まで自らの手で守りきれるだけの知恵と力のある人間だと、誰が証明できる? ましてや、姫君が騙されているか、あるいは、気付かぬうちに洗脳されているとしたら……私は、詐欺師の首を刎ねなければなるまい」
――それって、ことと次第によっては、おじさまを殺すってことじゃない!
みるみるうちに顔を青くしたアスターの隣で、ローリエは特別な反応を示さなかった。凪いだ眼差しを騎士へと向け、自前の無精ひげを手慰みにいじっている。
「なら、証明できればいいわけだな」
泰然とした構えを崩さずに、彼は向かいの席へと投げかけた。問いとも提案ともとれる、線引きが難しい彼の言葉に、婦人は片眉を上げた。