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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

のび姫さまは泣きつかない~あるいは薔薇の淑女を爆笑させる初恋の顛末~

作者:

 オルテシアにとってデビュタントは青天の霹靂(へきれき)の連続だった。


「…え、刺繍(ししゅう)をやったことがないのですか? 一回も!? …ええ、まぁ殿下は尊き王女であらせられるのですから、できなくても問題は…で、では茶葉の銘柄当てをして…え? それもしたことがない? 何でも美味しい、と…い、いえそれはそうなんですが、…そうですか。むぎ茶が一番お好きなのですね…ええ、労働者階級に一番人気ですわね…それしかないとも言えますが。…ええと、今回は気楽なお茶会ですから、茶葉はわたくしが選ばせていただきます。そして、はやりのレースが今年は何色に染まるかを皆で語り合うのはいかがでしょう?」


 デビュタント当日の朝に、いきなり大人と見なされる慣習は知っていた。相応のふるまいを求められるもわかっていたつもりだった。一年ほど前から母を教師として最低限の教養を授かっていたから甘く考えてしまっていたのだ。なんとかなると。

 今後オルテシアに24時間つき従う侍女として、当日の朝に初めて顔を合わせたのは高位貴族出身の淑女と名高い年上の令嬢たちだった。

 母である王妃がそれぞれの派閥から迎えいれた優秀なレディたちならば、きっと不慣れな少女をフォローし社交界での立場を支えてくれることだろう。

 オルテシアを主人と尊重し、外向き内向きにも良き友人という名の部下になることを期待されていた彼女たちだが、懇親目的の茶会が終わるころには、すっかりオルテシアを見下して王女を手玉にとる方向に勝手に役割をシフトしてしまっていた。


 オルテシアが、一般的な淑女らしいことがまるでできないことが判明したためだった。


 おかわいらしい我らがレディ。

それが、彼女たちがオルテシアに授けた呼称だ。

侮蔑をふんだんに含んだその嫌味は、年下の主君への親しみという建前で美しくコーティングされ、己たちが社交界での立場を上げるために役立つアイテムとして定義づけたことを表している。


 そして、夕方になり本格的なデビュタントとして初めて夜会に姿を現した王女オルテシアを、紳士淑女たちは「内気でおとなしい引っ込み思案な少女」であると認識した。そして密かに落胆した。

 まだ若い侍女たちを支配できていないことが夜会で露呈してしまったからだ。


 会場の中心で、主人たるオルテシアがデビュタントの少女たちとともに踊っているにも関わらず、侍女たちはさっさと散らばり、未来の夫になりうる若い紳士の視界に入ろうと移動を始めたのだ。


 踊り終えた初々しいデビュタントたちが付添人の迎えをうけて次々に円を抜けていく中、あたりを呆然と見回し戸惑うオルテシアが最後にぽつんと残された。

 仕方なくひとり小走りでその場を離れたものの、どうしたらいいのかわからず、壁の花になる。


 たまたま近くに立っていた高齢の紳士が、見かねてデビュタント用の果汁水を彼女に与え、軽い雑談をしかけてくれた。オルテシアはぱっと顔を輝かせて感謝し、話を盛り上げた…つもりだった。しかし彼女が喋れば喋るほど、紳士の眉はひそめられ、やがて首を振り振り紳士は吐き捨てた。「女の分際でなんて生意気な。殿下はどうやらお独りの身を好むらしい」


 訳が分からず、オルテシアは呆然とした。

立ち尽くす彼女に、高齢の紳士は白い目を向けて立ち去っていく。


 そのまま夜会が終わりを迎えるまでオルテシアは壁の花のままだった。


 保温と飾りのために石壁に垂れ下げられた巨大なタペストリーを見上げ、会場に背を向けたまま眺め続ける姿に王女の威厳はない。

 困惑とともに心配する心優しい者もなかにはいたが、さきほどの紳士の件もあり、声をかけあぐねている。その間にも夜会は進行し、彼女の存在感は薄れていき、いつしかいることすら忘れ去られていた。


 オルテシアは、人々が帰りゆく姿をみてようやく会の終わりを知り、目立たぬよう従僕が出入りする裏口から会場をでた。そして、王族の生活区域に向かって走り始めた。

 後ろから慌てた様子の護衛兵がついてくる。「殿下、そちらは逆です! 厩に向かっておられます!」

 その声に立ちすくみ、恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、追いついた護衛兵のエスコートを受けて正しい道をとぼとぼと歩む。


 オルテシアのデビュタントは、明らかな失敗に終わった。


 



 「なんてこと…オルテシア。あなた、このままでは降嫁先がなくなるわよ」

王妃である母が言った。

夫の膝の上で。ナッツをつまみ上げながら。


「各方面から教師がよこされることになった。適当に学びなおして2年もすれば、皆の記憶も薄れて、まぁ…なんとかなるだろう」

王である父が言った。

妻を膝にのせて、差し出されたナッツを口で受け取る。もぐもぐ咀嚼しつつ、ナッツを食べさせてくれた妻へお礼にはちみつ入りホットミルクを飲ませながら。


「当面は離宮で暮らしなさい。その間に新たな侍女の選定をする。オルテシアに理解のある者を選ぶと約束しよう。だから、オルテシア、我らが最愛の娘」


妻がミルクのお礼にとほおにキスをおくる。夫がでれでれする。

そんないつもどおりの仲良し夫婦は声をそろえて娘に告げた。


「「明日からの離宮合宿、淑女としてのお勉強をがんばってきてね!」」


「やだぁぁぁぁ!!」


 オルテシアはその場で泣き崩れた。

「せっかく八割がた修繕が終わったのに、これからいっちばん楽しい解読作業なのにぃぃぃぃ!」

やだやだと毛の長い絨毯の上で転がり暴れて嫌がるオルテシア。

その足先が脛にコンコン当たるたびに、弟のアレインが嫌な顔をしてどんどん横にずれていく。


「うちの埃かぶった歴史書や古文書を片付けてさらに管理までしてくれているのは助かっているよ。あんなに場所をとるのに何一つ処分できず溜まっていくばかり。王族の機密が絡むから保管にも気を遣うし。

けど、必ずやらないといけないことでもないだろう。重要なものは口伝で把握できている。

 君らにももう伝えてあるから次代も安心…正確に覚えている? もっかい説明しようか?」

「いい」「僕も」姉弟から即座に断られ、王はにっこり笑った。「…何か怪しいから、やっぱり説明するよ。こっち来て聞きなさい」父親の勘だった。そしてそれはわりと当たる。


 そうして、姉弟は父王の足元に並んで耳にタコができるほど繰り返された話を改めて聞く羽目になった。長い話のお約束として、合いの手をはさむように話の途中で父母がいちゃつくのを、死んだ目で受け流しながら。

 「…というわけで、僕ら王族の直系は魔法がつかえる。女の子は特にとても強い。オルテシアほどは珍しいけど。統計的に男女で力の差があってより女の子が強い。

アレインが王太子だから直系となる君の子が魔法を受け継ぐ。僕らがはとこで結婚しちゃったからもしかしたらまた能力の高い子になる可能性があるんだけど。」

 アレインがふと首をかしげた。

「姉さんより強くなるのかな?」

「うーん…どうだろう。ならないとは言えない。わからないなぁ。ごめんね」

 父王は眉を下げた。母がそんな夫の頭をよしよしと撫でると、それなりにダンディな父の顔がデレェと煮崩れ顔立ちの良さなどあとかたもない。

 「…オルテシアは降嫁の時に儀式で魔法を失うから、君の子孫は皆ただびとになる。だけど、アレインにいつか女の子が授かったらオルテシアが補佐してあげてほしい。とても不安だと思うから…わかるだろ?

 だから、きちんとふたりともが正確に理解しておく必要がある。

 さて、肝心の僕らの魔法とは? そしてなすべきこととは?」


「「…誰からも好かれちゃう。やり放題のおねだりで国を善く導こう」」


「正解」

王は笑って腕をのばし、我が子の頭を順繰りに撫でた。

オルテシアは喜んで受け入れるが、微妙なお年頃にさしかかったアレインは嫌そうな顔で避けた。


 「本当にね、ちょっと目に力をいれるだけ。それで人前に出れば、みんな良い風に解釈して慕ってくれる。

 僕らは極力多くの人と関わり一人一人と向き合ってしっかりコミュニケーションをとるのがお仕事。単純に処理能力が高いだけで選んではダメだ。視野の広い人を探そう。長い目で己とは関係ないような世界の変化すら我が事として見られる倫理観のある人を探し出し才能を伸ばして国の機構に組み込んでいく。


 長い目でじっくりやらないといけないから、途中飽きて妙なことにハマらないですむよう我が王家の育児方針は代々「のびのび育て」。こどものうちに平和な趣味を見つけておけばその後は順風満帆。

 今までそれで問題なかったんだけどねぇ…」

 父王はため息をついて、恨めし気にオルテシアを見た。

「…自分で魔法を封じるなんて器用なことして…今も息苦しいだろう?

 素直に緊張に任せるだけで勝手に発動しただろうから、楽にしていれば、あんな目には遭わなかったよ?」

 もちろん侍女の暴走の件である。

父も母も、オルテシアが魔法をあえて使わないという選択をするとは思っていなかったのだ。


 「…ちゃんと仲良くなりたかったの。ふつうの人がするように。…洗脳したくない」

両親は顔を見合わせた。

「…そうはならないよ、洗脳などと。君の能力は確かに飛びぬけているが、だからって何でもやっていいわけじゃないと君は知っている」

「だけど…やろうと思ったらできちゃうんでしょう? それで…好きになった人を狂戦士にしちゃったり…」


 オルテシアは歴史書で知っていた。

 過去の先祖が狂戦士と呼ばれる不死身の歩兵を育てて最強の軍をつくりだし、大陸を荒らした時代があったと。それが実は当時の王による魔法の乱用が原因であり、多数の王女たちを利用して優れた兵士を思考誘導した結果だと。

 

 「…侍女ってずっと一緒にいるんでしょ、それこそ寝るベッドも一緒だって」

「結婚するまではそうだね。どうしてもね、危ないからね」

「…今までは乳母が一緒だったけど、それはもうだめなんでしょう?」

「うーん、そうだね…君はもう大きいからね。乳母ももう彼女の家に帰してあげなくちゃ」

「…うん。でも、だから、ずっと一緒にいる人には、そのままのわたしを好きになってもらいたかった。ふつうのひとはそうするでしょう、時間をかけて話をして打ち解けて、仲良しになる。…わたしもそれがよかったの、わたしもみなさんを知って好きになって、仲良しになって、それで、ふつうみたいに…」


王は途方にくれた。


娘の思いは確かに自分にも若いころに覚えがあるもので、しかし自分で妥協を覚え、納得し、今に至る。人にかける言葉が見つからない。


 王妃がそっと、王の膝からおりて、オルテシアの横に寄り添った。

「わたくしは血筋としては傍系王族の出にあたるけど、結婚するまで魔法が実在するなんて知らなかったわ。秘密にしなきゃいけない能力って持ち主にとても気苦労を与えるのね、少し気の毒なくらい。

あのね、オルテシア。あなたのお父様は昔から優しくて、わたくしはずっと大好きだったけど、それは魔法でそうなったわけじゃないのよ。信じてもらえる?」


オルテシアは少し黙った。王妃がふふと笑って「信じてない目ね」と娘のほおをつつく。


「あのね、お父様はね、昔たくさんの女の方と同時に仲良くしていたのよ」

「?!」

「ちょっとまて、クロエその話はっ」

「きれいな方や可愛らしい方、美しいお体が魅力的で大胆な方、妖精のように軽やかで無邪気な方…それはもう様々な花が咲き乱れてハーレムというものを築いていらしたの」

「待って本当待ってクロエさん」

「あなた、ステイ」

「はい」

ソファが空になった。王が絨毯の上で背筋を伸ばして座ったからだ。アレインが身じろぎする。最愛の息子が自分から距離をとったと気付いた王はもう満身創痍で泣き顔だ。


「お母さまその姿を見て本当にがっかりして、ほのかな初恋を終わらせることにしたの」

「…ごめんなさい、本当、あのときは調子にのっていて…反省しているんだ…」

「だけど、お父さまはわたくしに変わらず優しくしてくださって、君はまさに僕の理想の妹だ、なんて可愛がってくださって…やはり大好きだったものだから、そうたやすく忘れることができなくて。

そんなある時、いやらしいことを企んだお父さまがそのせいでフラれたの。いっせいに。誰も残らなかったわ。

お母さまは噂に驚いて、直接みなさんにも確認しに行って、最後にお父さまにも聞きに行って、本当だと知って」

「やめて…本当ごめんなさい…言わないで…」

「愛しさあまって憎さ極まり、だいきらいに」「あああああ言わないでほしかった自業自得なんだけど「嫌い」はごめん本気で辛いよおおおおお…!」父親が泣いた。アレインがそっと近づいて、ため息交じりにハンカチを差し出す。父親は受け取りついでに息子を抱きしめようとした。アレインは素早く逃げた。


 「つまりね。魔法は、確かに人の心を惹きつける力はあるけど、本人が嫌がっていることを強いる能力ではないってこと。いくら魔法でたくさんの魅力的な方々と親しくなれても、人の心を操ることはできないから、嫌になったら人はちゃんと自分の意志で離れていくわ。洗脳のように、思い通りになんかならないの」

「ええと、お母さま?」

王妃に向けてそっと手のひらを立てて見せて、オルテシアは疑問を口にした。

「そんな状態を経て、どうしてお父さまと結婚しようと思えたの?」

「それはもちろん、また大好きになったからよね…」

「え、でも、それが洗脳した結果ではないの? だって結局は今、思い通りよね? 両想いなのでしょう?」

「あら、まぁ。あの後のお父さまの反省と努力を知らないと、そういうふうに感じちゃうのね。…ううん、どうしようかしら」

王妃は困った顔で小首をかしげた。ついでに膝の上に顔をつっぷして小声でずっと許しを乞うている涙声の夫の頭を撫でる。


 「…悪い魔法として洗脳した状態ならね、自覚すら与えず受け入れさせちゃうのよ。

そして、執着というか…やめたくてもやめられない。離れたくてもあれこれ理由をつけて離れられない。死ぬほど辛くてやりたくないことでも戦うことすら諦めて従ってしまう。薄々おかしいと脳裏にかすめたとしても否定して、ただただ従って、尽くして…。そして、そんな自分の判断から心を守るために綺麗な言葉で飾って後ろめたさを美化するの。そしてまた執着を強める。

 洗脳ってね、そういう状態なの。

だけどね、困ったことに、これってふつうの人の間でもよく起きているのよね」


「え」オルテシアがぎょっとして母の顔を二度見した。


王妃は困ったような笑顔で膝の上の夫を撫でている。


「そうよ、特別なことではないの、洗脳って。あなたが憧れている、ふつうの人の中で多かれ少なかれ身近に利用されているわ。軽いものならば、お互いにしたり、されたり」

「まさか」

「本当よ。ちなみに自分を洗脳している場合もあるわ。特定の相手へ勝手に期待して都合のいい夢を見て…そうあるべきと価値観を作り出し、都合のいい夢を本当のことと思い込んでしまう…なんていうのかしらね、思い込み? 自己洗脳? やはり悪い魔法が一番しっくりくるわね。

 なんにせよ、王家の魔法じゃなくても洗脳ってできるのよ、その結果が都合がよい人からみたら良い魔法、都合が悪い人からみたら悪い魔法。多分、やり方を知っていれば誰でもできるわね。ささいなことなら悪気なく使っているものじゃないかしら、みんな?」

今のわたしみたいにね、と王妃は笑った。


「こんなにだいすきなのに、機会があったからって、こうして蒸し返していじめてしまったわ。ごめんなさいね、ブシュロン。過去の弱みにつけこまれて、今のあなたはきっとわたくしに逆らえない状態ね。その後ろめたさを利用して何か大きいおねだりでもしてやろうかしら」


「何でもきこう!」顔を勢いよく上げて、父王が叫んだ。「洗脳だろうがそうでなかろうがどうでもいい! 僕は君らを愛している自分が好きだ! 君らへの愛だけは永遠に誠実だと証明したい!」


「…おおお」

アレインがちょっとひるんで、とっさに持っていた本を盾にしたが、ふと気づいたように「それって僕たちもおねだりできるってこと?」とつぶやいた。

 王妃が珍しくあははと高く声をあげて笑った。「そうね、してみなさい。お父さまの愛が誠実なものだとちゃんと証明されるから」

「じゃあ、僕、とうさまのお酒、それとか飲んでみたい」と、父王のブランデーを指さした。

「君の産まれた年のワインなら大瓶をグロス(144本)で確保してある。おとなになったら毎年一緒に飲もうな」父王がデレデレと顔を緩ませて答えたが、アレインは怒った。「ダメなんじゃん! 僕は! 今! 飲んでみたいのに!」

「酒精はこどもには毒だからなぁ…ううん、ワインなら。湯冷ましで薄めて滋養のあるスパイスと一緒に煮つめて果汁水を足せば…まぁ…」

腕を組んで妥協案を探りだした父親に、半眼のアレインが言った。

「それはもうキンダープンシュ」

オルテシアも頷いた。

「ワイン風味のキンダープンシュね。グリューワインですらないわ」

「特別感がない! つまんない! 僕への愛が感じられない!」

絨毯に寝そべってふてくされる息子の姿に、とうとう王妃がふき出した。

王も苦笑いしながら優しい目で息子を見下ろす。

「お父さまの愛の誠実さが証明されたのに、あなたにはまだわからないのね! 愛しいわ、アレイン」


そして、王妃はオルテシアを見て言った。

「力を使おうと使うまいと、あなたにはこの父母がついているから安心しなさい。

それにね、あなたはちゃんと洗脳の怖さに気付いている。心が自由なまま好いてもらえるその価値の大きさを知っている。相手の心への尊重にこだわるあなたなら、絶対におかしなことにはならないと思うの。使ったとしてもきっとそれは良い魔法になるわ。お父さまのように。

だけど王家の力に頼りたくないなら、それはそれでいいのよ。あなたは魅力的だから、ちゃんとわかる人にはわかってもらえるから。…どちらにせよ」

にっこり貴婦人のほほえみを浮かべ、王妃は告げた。


「お城の資料室は封鎖するわ。今持ち出している資料や、書きかけの論文も預かります。

だから淑女教育に集中してね。早めに片付いたらご褒美に鍵を返してあげる。応援しているわ、愛しい子」


うああ、とうめいた後、オルテシアは父王を見た。すがるような目で。


「…私の分のおねだり、今すぐ…鍵をかえして…とか…?」


王はにっこり紳士の微笑。


「立派な淑女になって帰っておいで。君が戻ればすぐに渡せるよう、資料室の鍵は僕が首から常に下げておこうね」


オルテシアも倒れ伏した。偶然にもアレインの隣に同じ姿勢で並ぶ形になった。そして力なく叫ぶ。

「私への誠実な愛も…感じられないわ…、とうさまもかあさまもいじわるぅ…」



 かくして、オルテシアは離宮に島流しにされる。

 帰りは最長で二年。

 大好きな歴史書も楽しい論文作成も取り上げられ、心が干からびちゃう…とオルテシアは泣き言をもらした。両親はニコニコと眺めるばかりでもう反応すらしてもらえなかった。





 泣き言を呟いていたオルテシアが「もう寝る。ふて寝するぅ」と立ち上がり「あら、じゃあお母さまも行くわ。一緒に寝るのは久しぶりね」と答えたふたりが団らん室を下がった後、アレインは本を見下ろしながら父王へ言った。

 「…でもさぁ、誰かひとりくらいなら、あの顔に騙されてくれることもなくはないだろうし。離宮に行かせちゃうのは、やりすぎじゃないの」

 「おや、君がかばうなんて珍しい。お姉さまが心配かい?」父王が笑ってからかうが、アレインは顔をしかめるだけで怒らなかった。

「…あんな甘ったれが離宮でひとりやっていけると思えないだけだよ。…無理に降嫁させなくても、僕が一生面倒見るからいいよ。今と大して変わらないだろ」

「うーん、アレイン。言い忘れていたけど、君も明日からアカデミーだよ」

 アレインは本から目を上げて、父王を凝視した。





「……は?」

「とりあえず君も二年ね。寮生活だ。いっぱいお友達作っておいで。女の子はひとりもいなくてムッサイ男ばっかりで最初はちょっと独特な空気感に戸惑うかもしれないけど、まぁ慣れるから。

 反動がくるのは卒業直後ね。気を付けて。男しか映らなかった目に、女の子は刺激が強すぎる。あたりの女の子が誰もかれも、もーかわいくて、かわいくて…頭おかしくなってうっかり調子にのっちゃうのは別におれに限ったことじゃない、アカデミー出身者は大抵そうなる」


「……は…」


言葉を失って凝視してくる息子をニマニマ眺め、父王は告げた。


「かわいい子には旅をさせろと言うじゃないか。()()()については大人の領分。親元離れて、のんびり楽しく色々な経験しておいで」




 離宮での生活は、オルテシアにとってはほぼほぼ勉強漬けといっていい有様になった。

 合宿という言葉が誇張ではなく、朝に起きて着替えてから、夜に寝室の扉が閉まるまで一切気を抜くことができない。

 年配の教師が入れ替わり立ち代わり様々なジャンルを指導しては去って行く。言動だけでなく、姿勢や表情、まとう空気感まで指摘され、たまに先生方の価値観の違いによる矛盾も生じて混乱しつつも流されるままに謝罪する。できていれば「よろしい」と頷かれ、できるようになれば「よろしい」と褒められる。できなかったからといって鞭を下されるということはなかったが、かといって、できない状態でいることは決して許されなかった。

 これまで自分がどれだけ自由だったか身に染みてわかり、(いやもっと事前にちょっとずつ教えておくとかできたんじゃないの、お母さま)と劣等感にくじけそうになる。そして疲れすぎて眠れない夜中にふと

(…いや、教えられていたとしてもどうでもいいと気にしなかったんじゃないかな…趣味に夢中だったしな…)

そう思い直しては、むぐぐ、とやり場のない感情がこみ上げるまま枕をたたきのめして、興奮からさらに眠れなくなる。


 日に日に疲れはたまっていき、思考が億劫になってきたオルテシアは、いつしか無心で受けて立つことが一番心にとって楽だと気付く。覚悟が決まったという状態だ。己がまな板の鯉と知ったともいえる。


 そして、あるときとうとう決壊した。朝に教師を迎えカーツェをしたとたん、そのまま涙が止まらなくなったのだ。身体は優雅に動き、声は明るく教師に丁寧な挨拶をし、貴婦人の笑顔も完璧に今日の教えを乞う。しかし、そんなオルテシアの眼に光はなく、涙が音もなく伝いおちていく。


 教師は目を見張り、しばらく考えるように小首をかしげたあと、無言でオルテシアを椅子に座らせた。そして「ここでお待ちなさい」と一言告げると、さっさと帰っていった。部屋に残った離宮つきのメイドたちがうろたえ、恐る恐るオルテシアの様子をうかがう。その気配に気づいていたが、オルテシアは教師が出て行ったこともメイドの動揺も気にならず、指示通りに椅子に座り続けた。姿勢を正し、貴婦人の笑顔を浮かべたまま。涙は止まらないが、気にしないように心掛ける。うまくできなくても罰はないからだ。できないことに囚われるとできていたこともできなくなる、と今までの経験で悟っていた。


 それでも、伝い落ちる涙の雫が組んだ両手の甲に落ちるたび、劣等感が心に募る。

こんなわたくしは、歴史書を喰らう紙魚より価値がない。


 部屋を去った教師が、控えていたのだろう他の教師と医師を連れて戻ってきた。

 そして、医師がオルテシアにいくつか質問をする姿を眺めながら、目くばせを交わし合って何やら動き出す。手紙を書きだす者、部屋を出ていく者、メイドにホットミルクを持ってくるよう指示する者、自ら窓を開け放ち換気を始める者…。





 その日からオルテシアは自室に留められ、ひたすら寝るようにという指示が下った。

 枕元にはメイドか教師の誰かが必ず常駐し、起きたら湯さましを与えられ、少量の食事が時間を問わず複数回こまめに給された。たまたま朝に目が覚めたなら、そのまま湯殿へ手を引かれ連れていかれる。オルテシアはその状況を不思議にも思わずただ従った。

 最初こそ頭はさえわたり指示通りベッドに横たわっても眠れることはなかった。そのまま横たわり続けて、ある時ストンと意識が途絶える。まばたきのつもりで目を開けたら一瞬前まで明るかったはずの室内が真っ暗になっており、「お目ざめですか、殿下」というささやき声をきいて、枕もとにいるはずの教師がメイドに変わっていることを知る。

 そんな日々を繰り返し、朝に起き、夜に横になったら間を置かずうとうとできるようになったころ、その丸っこい男は現れた。





 ひょろりと背が高く、口元がへらりと笑って気が抜けるような表情をしていた。大きな目は活き活きと輝き、笑みを浮かべて目じりが下がり、たれ目のようにも見える。洗練された服を着て、気軽なのに所作美しく、貴族階級は明らかだ。

 しかし高位貴族にしてはどことなく野暮ったい。男性特有の尖りのような鋭い圧をもたないからか、女性的なところなど一切ないにも関わらず中性的な雰囲気を漂わせている。とても「丸っこい」雰囲気なのである。

 幼い子がぬいぐるみでも抱えるように、とても大きく膨らんだ珍しいサイズのオモニエール(小物をいれ持ち歩く袋。本来は腰から下げる)を両手に抱えたまま、男はいきなり話し始めた。


「やぁやぁ愛しのオルテシア殿下。はじめまして、ぼくフューセル。秘密いっぱい素敵な道具で君の夢を叶えにきたよ」


 ベッドの上で座っていたオルテシアは、男の顔を見た。知らない顔だ。


「このままだと、未来で僕は君にフラれてしまうんだ…哀しいな、悲劇だよね。だけど心配いらない。この不思議なオモニエールが僕らを助けてくれる! あんなこといいな、できたらいいな、そんな夢の数々を一緒に楽しもう!」


 何の話かわからないが、一緒に、と聴こえたから、彼は新しい教師なのだろうか? 男性は初めてだなぁと思ったところで、男は満面の笑みで告げた。


 「君が笑顔をとりもどせば、僕の笑顔は倍増しになる。君の声が楽しく響きわたれば、僕のおしゃべりは絶好調。君が花嫁になり、僕は花婿に。そしていつまでも幸せなラブラブ夫婦として暮らしましためでたしめでたし、そんな正しい未来のために、僕も今日からここで暮らすね!」


 あれ? とオルテシアは気づいた。この教師、なんかおかしなこといってないか?


ぱちりと瞬きをしながら男を見続けるオルテシアに、照れたような笑顔を向けて、フューセルはさらに告げた。


 「よろしくね、オルテシア殿下。あ、もちろん寝台は別だよっ焦らないでっ君は天幕を下せるし、僕はそっちのアルコーブで寝るから。衝立を置けば引き戸代わりになるし、気にならないよね…あ、そうだ」


 フューセルはオモニエールをおなかのあたりで抱えなおし、「お近づきの印に、僕になにかおねだりしてみない? 素敵なもの取り出しちゃうかもよ?」とウィンクをした。


 オルテシアは無言で枕元のベルを鳴らした。チリチリチリリン、チリチリチリチリ…


「ん? なんで緊急事態音?」

チリチリを続ければ、すぐに警備兵がすっとんできた。首を傾げてきょとんとするフューセルを指さし、オルテシアは頷いた。

 警備兵は沈痛な面持ちで敬礼し、「…ちょっと詰所まで」とフューセルの肩を掴む。


「あれぇ? 何か誤解あるんじゃない? ちょっと、ちょっと、僕は正式な訪問者だから危なくないよぉ殿下の味方だってぇえ」


間の抜けた声が遠ざかっていく。メイドが速やかに自室の扉を閉めてくれたので、目礼を交わす。メイドは頭を下げ、そのまま壁際まで下がった。

 オルテシアはシーツに潜り込む。よくわからないが、わたくしは寝る。次の指示がくるまで寝続けなければいけない。些末事は忘れねば。


 

 ◆



 些末事として昨日の出会いを忘れることにしたオルテシアだが、翌朝に渡された父王からの手紙でフューセル・エルセイルという男が正式な自分の婚約者であることを知った。


 どうやら、自分が離宮にいる間に決まっていたらしい。


 代々王家の伝令を担うエルセイル子爵家の3人目の令息で、成人後に離籍し、相続した男爵位とアカデミー(貴族の子息らが学ぶ全寮制学校)で培った人脈をもって、複数領をまたぐ交易路の安全を確保するシステムを生みだしたという。その功績が王の目にとまり、婚約者に内定したそうだ。

 降嫁時期は未定だが、時が来れば公爵位を賜り、宰相補佐役なる新たな役職を任じられ、いわば御用聞きのような仕事をする予定らしい。


 フューセルは朝になるとオルテシアの自室に来た。背中を向けたまま軽快にしゃべり倒し、オルテシアの身だしなみが整いメイドの合図を待ってようやく振り向き、いそいそとオモニエールを担いで枕元までやってきて、またしゃべり倒す。高くも感じる柔らかな男の声は音楽のように(内容はともかく)心地よくオルテシアの耳に届く。穏やかな空気に気が緩んでぼぅっとなると、フューセルはすぐに気付いて寝るように促してくれる。


 そのときに毎回メイドや教師と「添い寝いるよね? あ、まだ早い? そうだよね、もう結婚した気でいたから、うっかりね、うっかり!」というやりとりをする。

 最初は白い目を向けられていたものの、繰り返すうちに男の冗談に慣れてきて、職務中の彼女たちですらとうとう生暖かい目で男の言動を愉しむようになっていった。


 夜になればまた添い寝を申し出るが、メイドが笑いをこらえながら退室を願い、おおげさに肩をおとしながらも足取り軽く去って行く。「我が愛しのオルテシア殿下。また明日」と滑らかなボウアンドスクレープを廊下で披露して頭を下げたまま留まり続け、警備兵に「はよいけ」と合図を送られるとようやく慌てたそぶりで逃げていく。まるで道化だ。



 「そりゃ、いきなり婚約者だなんて照れちゃうよねっ。わかるっ。でも大丈夫、僕ら長いお付き合いになるんだ、じっくりゆっくり話したり一緒に何か楽しいことをしたりして分かり合おう!

 例えば、空を自由に飛びたいなって君が言ってくれたら、僕の応えはこれだ。はいっ筋肉ぎゅうぎゅうシート!」


テレテレーンと適当な音真似をしながら、フューセルがオモニエールから取り出したのは厚く弾力のありそうな板だった。


 「これは特定の木の樹液からつくられた輸入品のひとつなんだけど、触り心地が面白いだろ? 珍しくて面白い、しかし、使い道がわからないんだ何とかしてよフューセルってんで、ぼくに回ってきた物だ。

仕方ないなぁと受け取った僕は、だが思いついた。この弾力。これはまさに筋肉と変わりない。筋肉の代わりになるのでは、と。

 僕はごらんのとおり肉付きの悪い体質だ。力がないわけじゃないよ! 肉がないだけ! だから僕はまずこのシートを自分の腕に強く巻き付けてみた。そして、軍部の友人に借りた大剣を持った。結果はどうだと思う? なんと、構えることができたんだ。

 ハルバードはさすがに無理だった。

 でも大斧くらいまではイケた。

 大斧をみたことはある? とても重たい。僕が借りたのはかつて実戦で使われていた物だ。今は引退して軍兵見習いが薪割りをするのに使っているという。

 近衛隊が掲げる儀礼用と比べると刃が大きくて、いびつな形で、妙に分厚い。重心が安定しなくて扱いにくい…いや、もちろん持つことはできるんだよ。けど、刃の角度を保ったまま振ることが難しい。

 狙っても微妙にぶれて薪に刃が刺さらない。気を抜くと柄がすべって回転しちゃうし。これじゃ切るというよりぶつける使い方しかできなかったろうねと言ったら、軍人の友がなんて返してきたと思う? きょとん、と無邪気な顔で「斬っただけじゃまだ動きだして危ないだろ。両目を狙って水平に当てて、砕いてそのまま遠くにふっとばすんだよ」ときた。


 薪の話をしていたつもりの僕はさすがに震えが止まらず、「ちゃんと鍛えろよ、限界が早すぎるだろ」と笑った友人に、敬語で返すしかなかった。言葉も、借りた大斧も、両手で捧げ持って、丁寧にね。


 まぁとにかく、これを腕にきつく巻けば僕は君を抱き上げて、離宮の中庭でぶんぶん振り回すことも可能になる。空を飛びまわったような心地を味わえるよ。いますぐ試してみる?」


 このとき、オルテシアはいつもより少し頭の中のモヤが晴れていた。

軽快なおしゃべりと、聞き慣れない物騒で怖い刺激的な話題に心が弾み、軽い口調の疑問符につい「ええ、お願い」と答えていた。

 すると、すとん、とフューセルが真顔になった。妙な半笑いがないその顔は、意外にも精悍で、男性らしい何かの圧を放っていた。オルテシアがはっと警戒したことが伝わったのか、ぱちりと一回瞬きした後の彼は、たちまち満面の笑みで立ち上がった。


「よし、やろう! すぐやろう! 今すぐやろう! 準備をしてくるからね!」


 オモニエールから荒縄と共に同じ板をもう何枚かとりだすと、緩く丸めたそれを握ってフューセルが駆け出していった。メイドを待たずに自分で扉を開け、その前に立っていた警備兵にぶつかり、失敬と謝りながら「これはいい筋肉! さてはかなり力ありますね? ちょっと手伝ってもらえません? いやなにこの場で僕の腕を縛りあげるだけです」と板を渡して説明を始めた。

 ぎょっとする護衛兵の表情もかまわず、自分はコートを脱ぎ、シャツの袖をまくりあげながら。


 廊下の騒ぎをぽかんと見つめていた40代ほどのメイドは、はっと気づいたように告げた。

「恐れ入りますが、殿下の夜間の移動には許可が」

「大丈夫! 僕が責任もつ!」

「そうですが、そうではなく、警備の問題ですぅ!」

職務に忠実なメイドは断固として叫んだ。

「妙齢たる尊きお方をお連れの際は、近衛護衛隊精鋭4名を必ずお連れください!! この離宮のルールです!!」

 絶対に好きにはさせん、とメイドの雰囲気は叫んでいた。言い返そうとしたのだろう口をあけたフューセルが、メイドの顔を見て、そのまま口を閉じ、殊勝な表情で姿勢を正した。

 隣で何故か警備兵も直立している。


「閣下、いかがなさいますか!」

「ただちに詰所へ連絡いたします」

よろしい、とメイドが頷き壁に下がり、フューセルが眉を下げながらオルテシアへ告げた。

 「…ええと、ごめんね。ちょっと待ってね。詰所に人が余分に残っていたら大丈夫だと思う…」

「あ、待って! ごめんなさい、そんなに大事になると思わなかったの。しなくて大丈夫よ」

慌てたオルテシアがベッドから降りかけるも、フューセルは「いや」と答えた。


「今がいい。君は僕に笑顔をくれた。声もくれた。君の勇気に応えることは僕の喜びだ」


冷えないよう上着を着て待っていてね、と言葉を残してフューセルは走り去る。



 


 オルテシアはベッドにそのまま座り込んだ。両手を胸にあてるしぐさを見た護衛兵が、これ以上に隙間風が入らぬようそっと扉を優しく閉める。

 メイドはクローゼットからケープをいくつかとりだして振り返った。

「殿下。上着は革とフェルトのどちらになさいますか? キルトもございますが、今の時期ではまだ少々暑く…あら」

 オルテシアの姿を見たメイドは、職務中にも関わらずついにっこりとした。

 オルテシアの顔が真っ赤に染まっていた。見開いた目は潤み、戸惑うように視線をさまよわせ、胸にのせた両手をおちつきなく動かし、呆然と扉を向いたまま座り込んでいる。

 とってもわかりやすく恋に落ちた様子の少女に、メイドはがぜん張り切った。

「…フェルトをオススメいたしますわ! 丈が長く薄いので、きっと妖精の羽根のようにひらひらと美しく殿下を彩りましょう」

 メイドの声にはっとこちらを向いたオルテシアに、「薄くお化粧もいかがです?わたくし、腕に覚えがございます」とささやく。

 オルテシアは動揺した。

しかし愛らしい色のフェルトとメイドを交互に見て「…お化粧はお願いしたいわ。ケープも、素敵だけど薄いのよね…? フューセル様からは冷えないような上着を選ぶようにと命じられていて…」

 「閣下は命じてはおりませんよ、殿下」メイドは哀しくなった気持ちを隠して告げる。「尊きお方、この場合、少し肌寒いくらいが楽しいのです。どうか何故とお聞きになってくださいませ」

「…何故?」

初々しい少女に、メイドは力強く断言する。

「閣下が動揺するからですよ!」

「…?」

「妙齢女性を抱えて振り回そうなどと後先考えぬ少年心を未だお持ちのようですが、閣下は立派に育った紳士です。本気で実際にやったなら必ず慌てることでしょう。そこに、このケープです。さらに動揺させてやれます」

「…??」

メイドの興奮についていけず、小首をかしげたままぼうっとするオルテシア。メイドは手早く少女の唇とほおに紅をさし、手を引いて鏡台に座らせた。

 「少し濃く見えるでしょうけど、日がもう落ちていますからね。これで大丈夫ですよ。

あの無頓着ないたずら小僧を逆に振り回してさしあげてください。普段は頼れる殿方が慌てふためく姿を見るのはとても楽しいものですよ」

「…楽しい」

「ええ、ええ。楽しんできてくださいませ。閣下も喜んでくださいますよ」


 メイドは思い出す。

かつて離宮に来た頃のオルテシアは快活で、高貴ながらにふつうの少女だった。それが、教師らの(多分に政治的思惑が絡んだ)指導にも懸命に食らいついているうちに、目がうつろになり、食も細くなり、かと思えば急に驚くほどよく食べるときがあって安心したと思いきや夜中に唐突に吐き戻し、おなかを壊したまま治らず、絶食と暴食を繰り返す。


それはメイドたちの間で噂になった。メイドのほとんどが、子を育てた経験をもつ。


心配しつつも、身分の差に引け目を感じて何もできないでいるうちに、高貴な少女は寝室の扉が閉まっても貴婦人のほほえみが消えなくなり、動作も遅く、口数が減るどころか一切なくなった。そしてとうとう完璧なお人形になってしまった。


…離宮の大人の誰もが「こんなはずじゃなかった」と後悔したに違いない。


完璧を目指さないでくれ。真面目な子だから焦らず気長に育ててほしいという王や王妃の嘆願も「親の甘やかし」と受け流し、我が理想の王女を生みださんと我さきに尽くした結果が、この虚ろな淑女。教師たちの心中はいかばかりか。


 早朝に教師たちが集まり、初めて膝をつきあわせ話し合いが行われた。中には未だ王女の変化に気付いていない者もおり、むしろその状態を善き事と捉える者もいた。今後の方針をまとめようとするも具体的なことは決まらず話し合いは停滞した。とりあえず殿下の負担が軽くなるよう各々が配慮する、として解散することになったという。

 その日の朝だ。殿下の涙腺が壊れてしまったのは。


 そのときメイドは休みをとっており、実際には見ていない。だが、居合わせた同僚は、「悪い魔法で人形の中に閉じ込められた殿下が、内側から涙を通じて助けを求めているような泣き方だった」と痛ましさを表現した。そして、当番が回ってオルテシアの姿を見たメイドは、表情も声も失って、恐らくは意思も失って指示に従う少女の姿に(これはもうとりかえしがつかないのでは)と息をのんだ。誰も殿下を悪い魔法から救うことなどできない、とあのとき強く思い知らされたのだ。


 それなのに、今は。


 オルテシアは羽織ったケープを手慰みに撫でながら、恐る恐るメイドを見上げ、そっと呟いた。

「本当にフューセル様が喜んでくださるなら…わたくしも、とてもうれしい」

メイドはにっこり笑った。職務中だと頭をかすめたが、微笑まずにはいられなかった。





 珍しくにこりと笑いかけてくれたメイドに、オルテシアは驚いて瞬きをした。何だかとても優しくしてもらった気がする。ありがとうと礼を告げる頃には、メイドはまたしっかりとした表情に戻り、頭を下げて壁際に戻っていった。


 鏡に視線を戻す。ぼんやりうつる自分の顔はとても華やかに見える。


(フューセルさまはおいくつかな…年上よね。貴族名鑑を見れば…ああ、ダメね。わたくしが手にとれるのは高位貴族の女性の物だけ。紳士について知りたがるなんて許されない…でも、いくつ離れているのか、せめて知りたい…こどもに思われるのは嫌だわ。)


 さっきの、真剣な表情で詰所に向かったフューセルを思い出す。


へらりとした笑みのない精悍な表情。


そちらが素なのかもしれない、となんとなく感じた。ドキドキした。


(…君の勇気に応えることが、僕の喜び…)


フューセルの声が心に残って何度でも頭の中で復唱される。とてもとてもドキドキする。

(喜んでもらいたいわ、わたくしで。…どうしたらよいのかな)


 ノックが響き、メイドがそれに応えれば、護衛兵が扉を開き、フューセルがへらりと笑顔をのぞかせる。シャツにベスト姿で、腕には謎のシートを籠手のように縛り付けている。

「お待たせ、殿下。護衛兵が中庭を中心に警護を強めてくださるそうです。今から行きましょう!」




 結論からいうと、フューセルは動揺をみせなかった。

可憐なケープのことも口元の紅にも気づいていない様子だった。


 中庭につくや、さっそくオルテシアを簡易コルセット越しに軽々持ち上げ、そのまま自分ごと回転しはじめたのだ。

 驚いてフューセルの両肩の服を握りしめてしまったオルテシアだが、グルングルンとスピードが上がっていくと、身を任せたほうが安定することに気付いて身体の力をぬいた。

 軽く横でながしただけの髪が風にさらわれる。袖のフリルがたなびいて腕をくすぐる。

 にっこにこと満面の笑みのフューセルと目を合わせて回っていると、だんだんと笑いがこみあげてくる。

「っふ、ふふっ…あは、あはは…っ…」

 そのまましばらく回された後、フューセルはいきなり「あーれー…っ」と弱弱しい悲鳴をあげながらふわりと大きくオルテシアだけを回して、一瞬、完全に浮いたオルテシアを両腕で受け止めた。そのまま、その場に座り込む。


「あっはは。しまった、目が回った。これはしばらく動けない」


 目を閉じたままフューセルがへらりと笑った。「どう? 空を自由に飛べたかな?」

「ええ、フューセルさま」

こみあげてくる笑いが止まず、くすくす笑いながらオルテシアはフューセルを見上げた。


彼は目を閉じたままだ。だから、遠慮なく顔を眺めることができた。

(まつ毛が長いわ。量はわたくしのほうが多いかしら。鼻すじがしっかりしていて、全てのパーツが大きくて、…男の人って感じがする。…喉のでっぱりはやっぱりあるのね、わたくしにはない部分だけど…お父さまと一緒だわ。)

 見られているとは思ってもいないのだろう、目を閉じたままのフューセルが満足そうに息を吐いた。

「やったね、さすが僕の秘密道具。さぁさぁ次は何を出そうか?」


 「恐れながら、閣下。そろそろお時間です」

遠巻きに警護をしていた護衛兵のひとりが近寄ってきて告げた。

フューセルに見惚れていたオルテシアがはっと我に返り、慌てて視線をそらす。

「あらら…まぁそうだよね。ご協力ありがとうございます、満足しました!」

 座ったまま、フューセルが両目を開けて護衛兵に感謝の握手を求める。しかし目が回っているというのは本当のようで、見当違いな場所に手を向けていた。護衛兵は無言でその手を自分の方角へ向きを直し、握手を返す。

 「おおお痛っ強っ…わぁぁさすがは軍人! 頼もしい! ぼく、殿下を抱えますので、良ければちょっとこのまま僕を立たせてみてくれませんか?」


 護衛兵は従った。別に従う義理はないのだが、守るべき姫を最大限に楽しませたいその気持ちに共感したからだ。


 フューセルが片腕でオルテシアを縦に抱え上げたのを確認してから、握手をした手をそっと外してフューセルの手首を握りなおす。ぐっと力を込める。

 一気にフューセルの体が持ち上がり、体感したこともない角度へ移動したオルテシアが「ひゃ…っ…あはははっ」声をあげて笑った。


「凄いわ…楽しいっ。こんなに力もちなんて…もしかしてオルランド卿、あなたは大斧を上手に扱えてしまうかた?」


名前を呼ばれた護衛兵はちょっと目を見張ってから、頷いた。「はい。自分の得物はハルバードです」

フューセルが指を鳴らして称賛した。


「なるほど、ハルバード使いか! 殿下、次に空を跳ぶときは、彼に頼んで僕ごと振り回してもらいましょう! この筋肉ぎゅうぎゅうシートを使ってもらって、殿下と一緒に空を自由に飛びたいな!」

「!? 閣下、自分はやりません!」真面目な護衛兵が叫ぶと、「失敬、ちょっと調子にのってしまいました。やれちゃうだろうなって思ったら、つい」とフューセルが笑いながら眉尻を下げた。


 そりゃできるけどな、と心の中で思った護衛兵だが、黙って一歩下がり、敬礼で謝罪を受け入れるにとどめた。


 「せっかく楽しく立たせてもらったし、帰りますか。殿下、よければこのまま運ぼうか」

「嬉しいっお願いする…わ…っいえ!」そのとき、ようやくオルテシアは気づいた。

 さりげなくフューセルに縦抱きされている。これって…こども扱いでは?


「いいえっフューセルさま! わたくし歩けますっエスコートしていただきたいわ!」

 慌てて言いなおすと、フューセルは軽く「そう?」と応え、中庭の歩道まで動いてから整備された石畳のうえで優しくオルテシアを降ろした。



 「…あの、あの…フューセルさまは…おいくつですか?」

エスコートの腕に手を添えながら、オルテシアが勇気を出して聞くと、「23だよ」と簡単に答えてくれる。

 「僕らは7つも差があるから、日頃からちゃんとお互いを分かり合っておく必要あると思うんだよね。こうやって一緒に遊んだり、たくさん会話したりして。

 できれば、僕だけが喋るんじゃなくて、殿下も言いたいことを好きに喋って、そうしたら楽しい新婚生活がずーっと死ぬまで続くって信じているんだ。


 倦怠期って知っている? 見える世界が灰色になるそうだよ。怖いよね、悲劇的だ。早くに結婚した友人は酔って帰ると奥方に「臭い」と背中を蹴りあげられるそうで…彼は「倦怠期だ」と何故かそれを自慢していたが、ぼくは奥さんには蹴られるより「愛しいあなた」と迎えいれられたいんだ。そして僕は「ただいま愛しい君」って抱きしめて、なんなら抱っこで部屋まで運びたい。君はどう思う?」

 

 「わ…わたくしは…抱っこは、好みません…そんな、せっかく妻になれてまで子ども扱いだなんて…」


 思わず本音を言ってしまい、はっと口を閉じる。恐る恐る隣を歩くフューセルを見上げると、彼は優しい目でこちらを見下ろしていた。

 「そうか、さっき運ぶのを断ったのは子ども扱いされたと思ったからなのだね。誤解させてごめんね、そうじゃないよ」

 「…ええと、では…運びたかったから、ですわね」

「うん。愛しい未来の奥さんになる君を、大切に、大切に、腕の中に置いておきたかったんだ」


オルテシアの喉の奥でひぇっ…と変な声が出た。顔がほてり、汗が噴き出した気がする。


思わず立ち止まった足に合わせて、フューセルも立ち止まり、へらりと笑いながら向き合った。


「わぁ、もしかして意識してもらえたのかな? やったね! ぼくは全然モテないからね、何もしなかったら婚約者だとしてもフラれちゃうんだろなーって予想していたから、本当にうれしいよ!

 これで僕らの未来は安泰だ! いつまでも愛しあう幸せラブラブ夫婦になれるね!」


「…ふぇぇ…あい…」オルテシアの喉から、また変な声がでた。


恥ずかしいのか逃げたいのかもっと聞きたいのか、同意したい気持ちと嬉しさで情緒がぐちゃぐちゃになり、もう心はいっぱいいっぱいだった。


 その後、耳まで真っ赤に染め上げて硬直してしまったオルテシアを「やっぱり運ばせてよ! 絶対にぼくの奥さんになるんだし、ま、ちょっと早くても問題ない、問題ない」とフューセルが軽快なしゃべりで押しに押し、勢いにのまれたオルテシアが頷いた。


 フューセルはひょいと簡単に横抱きしてスタスタ歩き始める。そのまま固まり続けるオルテシアににっこにこの笑顔で喋り倒して、部屋へ運び、いつものお約束ボウアンドスクレープ~はよ帰れ~まできっちりこなしてフューセルは帰って行った。



 ぼーっと目を潤ますオルテシアに、メイドが内心のニマニマを隠して、それとなく首尾を確認すれば、

 「…え。閣下、何も言わなかった、ですって…ケープにも紅にも気づかなかった…」メイドは呆れて白目をむきかけた。

 「嘘でしょう…? 今はデリカシー皆無なあの夫ですら婚約中は私をちゃんと褒めたし、可愛らしく照れたり、ギラギラした目で見てきたというのに…? …はぁ?」

思わず本気でぼやいてしまい、しまったとオルテシアを見れば、彼女は夢見心地のまま。

メイドの言葉は届いていない様子だった。


オルテシアはぼんやり呟いた。

 「愛しい未来の奥さんって言ってもらったわ…抱き上げたのもこども扱いじゃなくて、大切に腕の中に置きたかったからだって…」

「あら。やりますね、フューセル閣下。見直しました」メイドは評価を素早く反転させた。


「…いつまでも愛し合う…幸せラブラブ…夫婦…」


「ええ、ええ。まさしく女の夢ですわよね」メイドはにっこり笑って断言した。「閣下とならそうなりましょう、尊きお方。今日はきっと良い夢がみられますわ」

 




 初恋を自覚し、すぐの成就は、オルテシアの心の回復に大いに貢献した。

オルテシアは自らの意思で毎朝ベッドから降り立ち、着替えをねだるようになり、コルセットをつけ、ドレスを選び、メイドの化粧で愛らしく着飾ってフューセルを待つようになった。

 もちろん、情緒は常に良い意味でぐちゃぐちゃだった。顔は赤らむし汗は止まらない。動揺して目が泳ぐ。一緒にいるだけで頭はふわふわと心地よく、自然と笑顔が続く。


 軽快に喋り倒す横顔を気づけばぼうっと眺めてしまい、気づいたフューセルがニヤリと得意げに笑って言った「さては、ぼくがカッコよく見える最適な角度に気付いたんだね」に対し、ぼーとしたまま「…フューセルさまはどの角度からでも素敵だわ…」と答えてしまい「お…おおぉ……ありが…とう…?」と困惑させたりもした。


 主に自分やその周囲について喋っては、しきりに欲しい物はないかと繰り返していたフューセルが、そのうちオルテシアのことを聞きたがるようになり、オルテシアが一生懸命に喋れば、彼は喜んで耳を傾ける。

 いつしかフューセルのへらりとした中途半端な笑みが、気の抜けた優しい笑みに変わり、見つめ合う目に感情が宿りだし、そうなってからようやくオルテシアにも自分たちが両想いなのだという実感がわいた。とても穏やかで幸せな気持ちになった。

 

 付き添い人としてなのか、様々な教師が日々顔をだし、距離を保ってふたりを見守っている。入れ替わり、立ち代わり、ただ遠目に黙って見守るなか、ふたりは互いへの理解を深める会話を心から楽しんでいた。

 日が暮れ、フューセルの帰りの儀式、お約束ボウアンドスクレープ~はよ帰れ~が終われば、オルテシアはメイドと共に自ら湯殿へ行く。

 すると、様々なメイドがいそいそとやってきて、湯上がりのオルテシアへああだこうだと入れ知恵をする。

 恋バナより楽しい娯楽は他に知らぬと目を活き活きさせる年上の彼女たちは、心なしか肌のツヤがとても良く、聞けば夫婦仲が改善した者もいたようだ。


 「倦怠期だったの?」恐る恐る尋ねる高貴な少女に、そのメイドは首をひねりながら答えた。

「どうでしょう…我が子があまりにかわいくて夢中になっていたら、あるとき急に夫の存在感が、こう…すーっと薄くなりはじめて、気づいたときには会話がなくなっていたのです」

 オルテシアはハラハラしてメイドを見つめ、続きを促した。

 「育ちきったこどもたちがそこらで騒がしくじゃれている中でも、未だにコソコソ存在を潜めようとするから、勇気をだして夫に聞いてみたのですよ。そしたら、ショックを受けた顔でこう返してきたんです…寝不足の君が「やっと寝たこどもを起こさないで、あなたは存在がすでに騒がしいの、努力しないと嫌いになるわ」と言ったからこうして頑張っているんだ、と」


メイドたちがどっと笑った。


「何度聞いてもこの話は楽しいわ」

「旦那さん、頑張りの方向も違うし、いつまでやっているのよってあたりも面白いし」

「一番下の子も、もうすぐ成人でしょう? 長い年月のどこかでおかしいと気付かなかったのかしら、自分も家族の一員のくせに、一緒に赤子を育てるんじゃなく、存在感を消すという変な努力をする自分に」

メイドは肩をすくめて言った。「赤子は気づけば育っているものなんでしょう。だから自分で育てる必要があるっていう認識がないのよ。きっと私が聞かなかったら、一生存在感を薄め続けるつもりだったんでしょうよ」


 オルテシアは真摯に頷いた。「そうなのね…結婚した後も、やはり相手の考えを聞くというのは、すれ違わないためには、とても大切なことなのね…」


 メイドらは目を見合わせて微笑んだ。

既婚者たちによる暗に皮肉がこもった会話でも、少女の素直さからすればわが身ふりかえる教訓になりうるらしい。

 メイドのひとりが優しく言った。

「…もしお子が授かったなら、閣下には先に告げたほうがいいかもしれませんね。ふたりの子だからふたりで一緒に育てましょうって」

「女の身から飛び出してくるからって、赤子は女の物だと思い込み、領域を侵すまいとおかしな気の遣いかたをする男もいるわけですし。閣下がそうとは限りませんけど、念のため」

「閣下はお忙しい方らしいですから、実際はそう戦力にならないかもしれませんけど…」

 メイドらが口々に、後ろ向きな助言をしていく。

オルテシアは真剣にそれを聞いて、お礼を言った。

「色々教えてくれてありがとう…わたくしは王女だから、頭を下げてはいけないのだけど、赤裸々に教えてもらえることがどれだけ貴重なことかわかるから…本当はちゃんとお礼が言いたいの。…見ないふり、してもらえる?」

 困惑の空気が広がるなか、ひとりの陽気なメイドが笑顔でどうぞと両腕を広げた。


「われわれ平民の母親が受ける最高のお礼というと…抱擁ですかね?」

周囲のメイドもほっと息を吐いて、次々に両腕を広げる。

「そうね。大抵は母親の分のお菓子を分けてもらえたからだったり、稀に説教逃れのためだったりもしますが」

「うちの娘の場合は、母親の服を勝手に着てゴメンねの謝罪でもコレですよ」

 そして、揃って目を閉じ、さぁどうぞと高貴な少女の真心こもった命令に可能な限り応えることにした。

 オルテシアはぱっと笑顔になり、一人一人に抱き着いてありがとうと囁いた。

 離宮に来てから、ようやく飢えが満たされたような気がした。





 そういえば自分は結構な甘えん坊だった。



 そのことを思い出したのは、昨夜、メイドたちに抱き着いたときだ。淑女たるもの、から始まる離宮の教育に「そういうものか」と諾々と従っていたが、心はぬくもりに飢えきっていたに違いない。

 幼い頃からつきっきりで乳母が傍にいる身だった。それに加えて、そこにいたからと母親に抱き着き、意味なく父親の背を登り、弟を手放さず過ごしてきたのがオルテシアだ。

 弟が育って抱きしめさせてくれなくなったここ数年も、足にしがみつく分には諦められていたのでオルテシアは手持ちぶさたになれば弟の足を抱き枕にしていたし、稀に母親ひとりがソファにいようものなら喜々として飛びついてひたすら甘えていた。

 王族専用の居住区域にある団らん室は、他の部屋に比べれば狭いものの毛足の長い絨毯が全面に敷かれている。三人掛けのソファがひとつ、小さなローテーブルがひとつ、それ以外に家具はなく、出入口の扉を閉めてしまえば、その場で靴を脱ぎすてて全員が寝転んでくつろげる特別な場所だった。

 疲れた、もう立ちたくないとうめく父親がうつ伏せに倒れこんでいれば、迷わずその背の上に寝そべり返事も求めずしゃべり続けたし、弟も父親のお尻を枕にして横になり、様々な本を読んでいた。母親はそんな家族を満足げに眺め、ソファを背もたれに父親の髪をすいては優しい声で歌ったり、父親と手を繋いだまま自分も横になりウトウトしたり…それはとても幸せな家族の記憶としてオルテシアの中に息づいている。


 しかし、離宮にきてから学んだ常識に照らし合わせてみれば、それらは全て淑女にあるまじき行いであり、はしたない姿として厭うべきこと、ということになってしまう。


 ベッドに横になり、オルテシアはうとうとしながら考えを巡らせる。

(フューセル様は、おしゃべりを楽しめる夫婦になりたいと教えてくれたわ。わたくしは…わたくしのなりたい夫婦は…)





 「…それで、わたくしはフューセルさまに伝えるべきだと思いましたの。結婚する前に」

オルテシアが語りおわると、フューセルは固めた笑顔のまま「…なるほどぉ」とつぶやいた。


「いきなりね、婚約者から「一緒に寝たい、毎日抱きつきたいし甘える夫婦になりたいが大丈夫か?」なんて真剣に言い出されたら年頃の男として脳内が色々と騒がしくなっちゃうんだよ、それで期待して詳しく聞いたら、まぁそんな愛らしい要望だとは思わず…いや君の年齢を思えばそりゃそうだよねと納得なんだが…こう…なんていうかね…」

フューセルは珍しくまごつきながら言葉を濁す。両手が無意味にわきわきと動いており、オルテシアは小首をかしげてそれを眺める。何の動き?


「つまり、君はただの添い寝が本気で恋しいし、子犬がじゃれつくような健全なスキンシップを楽しめる夫婦になりたいんだね」


オルテシアは片手をほおに添えて、胸のうちにこもる熱をため息に代えた。はぁ…。

「そうなのです…わたくしのこの欲望が、淑女にあるまじきこととはわかっておりますの」


「待って。僕の脳内で誤解が生じる言い方、待って」


「だけど、きっと我慢できないと思うのです…はしたないことを毎日したくて…」


「いやもう本当、脳どころか身体が反応しちゃいそうだから本当もうちょっと勘弁してください…っ」


 焦った口調で告げられ、オルテシアはきょとんとフューセルを見上げる。


 フューセルはテーブルに両肘をつき、両手を顔の前で組んだ状態で目を閉じており、しばらく黙って細く長く息を吐いていた。

 そして、おもむろに赤く染まった顔をあげ、オルテシアの後ろへ鋭い視線を送った。

 初めてみる不穏な表情に、オルテシアは思わず怖いような胸を掴まれるようなドキドキを感じ、慌てて後ろを振り返る。


 視線の先にいたのは、教師だった。


 指導を受けたことはないが、最近になってよく見かけるようになった女性だ。

付添人として今日も部屋の隅の椅子に腰かけ、フューセルとのお茶会を静かに見守っていたはずだが、今は何故か立ち上がっており、こちらに背を向け、壁と向き合っている。珍しく姿勢が崩れ、俯くように口元を抑え、丸まった背が震えて…泣いている?!


「!? レディ・ローザリア、そんな…ご気分がすぐれないのであれば、どうかお声がけくださいませ…!」

慌てて立ち上がり、オルテシアが駆け寄ろうとするも、フューセルに止められる。

「…爆笑しているだけだから。いたいけなぼくが、愛らしい君の無邪気な手のひらの上で、勝手に転げまわりのたうち耐える姿を心から楽しんでいるだけだから、放っておくのが正解だ」

半眼のフューセルが声を低くしてそう言った。

 「…まぁ…そのお声…とてもすてき…」オルテシアが思わずうっとり聞き惚れると、フューセルは「…うん。ぼくもきみのことが大好きだ。…すっごく」と、とてもそうはみえない苦悩の表情で、唇を噛みしめながらうめく。

「はたして君との結婚が先か…ぼくが紳士の皮を脱ぎ捨てるのが先か…」

「あうう…っ。わたくしも、その低いお声…すごく大好きですぅ…」


ハートを放つようなオルテシアの甘い声を聴いた教師が、とうとう盛大にふき出した。


 オルテシアははっと我に返って、フューセルは半眼で、ゲホゲホ咳き込むレディ・ローザリアを見る。


 すると、もはや誤魔化しきれぬと観念した彼女が、軽やかに振り返りカーツィをした。その機敏な動きはある種の美しさを持ち、オルテシアの目に新鮮に映った。


「ん、んんっ…失礼しました、殿下。ご安心を。

淑女たるもの、夫となかよくすごすというのは、とてもよろしいことです。

夫婦になったあかつきには、はしたないことでもどんどんお好きになされませ。そして、…ふっ…ふふ…その調子でどんどん振り回して、っふ、差し上げ…っふふっ」


「伯母上。やめて伯母上。本当そういうとこだからね、従兄弟(いとこ)たちが家に寄り付かない原因は」

「ところで、フューセル…あなた、まさかそれで紳士の皮を着ているおつもりでしたの? 最初からまともに被れてなどいないでしょう…聞いていますよ、見合い話に浮かれて全財産をオモニエールに詰め込み離宮に押しかけ、あげく安易に貢ごうとして警備につまみ出されたと。好かれたいからって誘拐犯じゃあるまいし…物で女性の好意を釣ろうなどと紳士にあるまじき浅はかさ。

 それはそれとして、緊張すると喋りたおして間をもたせる癖はいつ直すの?」


「やめて伯母上。それじゃ最初から僕に下心があったみたいだろ、違うからね。…いや、本当に違うよ、殿下。

 最近までは確かに緊張から口数が凄かった自覚あるけど、最初は本当に純粋な気持ちだったし、お嫁さんになる人の笑顔が見たくて必死だっただけだから。」

「今、下心が満載なのであればあまり変わらないわね。でも、よかったわね、殿下が…ふふっ…あなたに甘えてくださるそうよ…ふっ…応えねば、紳士の、恥…ふふっ」

「あーもうーそこで気が済むまで笑えばいいよ。

殿下、ちょっと早いけどこれから散歩に行きませんか。いつもの中庭ですが、護衛兵の方々にお願いしてあるんで」

「はい、喜んで。…あら、伯母上って…」

「ああいう人だから紹介しづらいんだけど。まぁ後で。とりあえず行こう」


 フューセルはオルテシアの両肩をそっと掴み、くるりと反転させた。そして隣に並んでエスコートの腕を差し出しながら、オルテシアの手を優しくすくいとり、己の腕へ導いてくれる。

フューセルの手は大きく、父親よりごつごつしていて、オルテシアの胸を密かに高鳴らせた。





 「…あの、やはりわたしとなかよくするのは苦手でしょうか…?」

「大歓迎すぎて困っているくらいだよ!? なんでそう思ったの?」

驚いて顔を覗き込んでくるフューセルに、オルテシアはさきほど見たフューセルのポーズを真似て俯いて見せた。「…こうして悩んでいらっしゃったので」上目遣いで、ですよね?と同意を求めれば、フューセルがニコッ!と硬い笑みを浮かべて頷いた。

「夫婦は仲良しがよろしい、同感だ! 伯母上の言葉どおりだよ! その調子でどんどんぼくを振り回してほしい! ぼくのほうで、ぼくが下心だけの男じゃないってことを証明してみせるから!」


オルテシアはほっとした。


「レディと同じ意見だったのですね、良かった。フューセルさまから直接聞けて安心しました」

「…ん?」

「あ、ええと、レディの言葉を信じていないわけではないんです。でも、ええと…」

言葉につまって黙り込むと、フューセルはその続きを気長に待つよと言いたげに、歩みを緩めてのんびりした笑みを浮かべる。


 離宮の中庭には今日も爽やかな風が吹いていた。

見渡せば木々の合間に護衛兵の制服がちらりと見えるものの、視界に入る前にすっと存在感が景色に紛れてしまうため、まるでふたりきりで歩いているように感じる。


オルテシアは口を開いた。


「…結婚しても、何年、それこそ何十年と一緒にいても、誤解から倦怠期になることがあるってメイドの方々に教えてもらったんです。

 だから、大切なことは人づてや憶測ではなく、ちゃんと相手の意思を直接確認することがとてもとても大切だって思えたので、それで、フューセルさまからの言葉で安心したのです」

「…ぼくが倦怠期怖いって言ったから、覚えて考えてくれていたのか、…嬉しいな!」

フューセルの声音が本当に嬉しそうに弾んだ。それに気をよくしたオルテシアは口も軽くなり、つい日頃から思っていたことを打ち明けた。

「王女としても人間としても失格になった身ですが、それでもフューセルさまの妻にしていただけるなら、今度こそちゃんと努力したくて…」「待って。失格ってなにそれ」

急に立ち止まってしまい、オルテシアが見上げると、フューセルは真顔だった。


 「…わたくし、たくさんの教師の方々に今までご指導いただきましたが、どなたの期待にもこたえられず、能力がまったく足りず…」

「誰かが君にそれを言ったの?」

「いえ…ええと、…ええ、と」

フューセルはもの言いたげに歪んだ顔で見下ろし、それを見たオルテシアが言葉を失くす。

口を開いては閉じ、言葉を発するのをためらうフューセルを見るのは初めてだった。


「…あのね、オルテシア殿下…彼女たちはね、…」


 フューセルは急に自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回して俯き、オルテシアを驚かせた。そして、しばらくそのまま立ち尽くし、しばらくして顔をあげたフューセルはへらりとした笑みを浮かべていた。

 出会った当初のよそゆきの笑顔を向けられ、オルテシアは何故か突き放されたような気分になり、内心ひどくうろたえた。

 戸惑うオルテシアの両手をそっと同時にすくいとり、フューセルは互いの両手の平をあわせて、一歩近づく。

 お互いの身体が触れそうなほど近い。昼間の中庭では、婚約者としてもルール違反になりかねない距離だ。

 オルテシアはどきまぎしながら彼を見上げた。そして気づいた。顔には中途半端な笑みが浮かんでいるが、フューセルの目は、父が母に向ける目と同じだった。

優しげで、ただ相手を愛しいと告げるような眼をして、フューセルは囁いた。


 「…君は淑女教育を受けていたと聞いたけど、評価について正しく知っているかい?」

「正しく…? いえ、最終的な評価を頂く前にご指導がなくなりましたので、出来の悪さに見放されたものと…」

 「状況から君がそう推測したということだね? 実際に教師が君へ口にした評価は?」

オルテシアは空を見上げて記憶を探ってみた。「…もう一度、もしくは、よろしい、のふたつです」

「…他には?」

「いいえ、覚えている限りは。…でも、わたくしのことですから、忘れていたなら…」


「僕は君の記憶力()信頼している」

フューセルは断言した。


「離宮専属の使用人を除けば、直接に君が会っていい人物は教師や護衛兵、そして僕だけだ。その名簿を君は王から預かっているよね。

名前や特徴、来る日付、時間帯…君はそれを把握しており、基本的に顔を合わすことなく直接に話すこともない護衛兵の顔と名前を一致させ、授業ひとつしていない伯母上の名前すらとっさに口にしてみせた。

君のその記憶力で覚えていないのであれば、まさしく君は教師からふたつの言葉しか与えられていない、それを事実だと僕は判断する」


オルテシアは固まった。(…信頼? …も…?)


フューセルは真剣な顔でとうとうと語る。

「君が僕について知りたがってくれたとき、僕は歴史が好きで、王家の歴史書にも興味があると長々と語ったことがあったよね。君は笑って受け入れてくれて、だけど何も話さなかった。一言も。まるで本なんて読んだことがないとばかりに。…僕は君が担っていた仕事を知っている。」


オルテシアは目を見開いた。フューセルを凝視する。彼はふと目元を和らげて「警戒しなくて大丈夫」と囁いた。

「王が教えてくれたから、知っているのは僕だけ。そして僕は君の味方だ、永遠にね。

僕には意味がわからないけど、君ならわかると思う。王から伝言を預かっている。ぼくが資料室について打ち明けたら同時にこれも伝えよと…本来の意味で()()()()()()()()、と」


オルテシアは息を吐きだした。知らず呼吸を止めていたらしい。…魔法についてバレたわけではない。ならば資料室の管理人であることだけを父は彼に伝えたのだろう。


フューセルはあからさまに安堵したオルテシアを、穏やかに見守っている。


「…王家には秘密があるのだろうね。僕からはそれを暴く気はなかったが、正直、若い君がうっかり何かしら口を滑らせてしまうこともあるだろうと予想していた。その時に僕はどうやって気づかぬ顔でフォローしようか、なんてことも考えていた。

 でもそんな心配は無用だったね。君は真面目で、勤勉で、おそらくはとても本が好き。

 異性への興味からあんなに素直に動揺していたのに、王家の姫として何ひとつ情報を渡さなかった。君は誠実だ。王女として戴くに頼もしく、傍にいるとしてこれほど信頼できる女性を僕は他に知らない。僕は君を尊敬している。それ以上に、僕は…君を、とても」


フューセルの顔が赤らむ。強張った顔で、小さく低くささやいた。「…愛している」


その消え入りそうな声は、傍にいたオルテシアすら聞き逃しそうなほど儚かった。


それでも、だからこそ、フューセルの全力の勇気が込められた一言だと雰囲気で伝わってくる。オルテシアは、フューセルの見開かれた目をただ見つめた。





 無言で手を繋いだまま見つめ合うふたりの間にひらひらと蝶が横切る。


 するとフューセルが突然に青ざめ、滝のような汗をかきはじめ、オルテシアの手を離して両手を肩の横にそろえたまま、あからさまにうろたえ始めた。

 「ちょっと日差しが強くて混乱して口走ったかなっ。いや、あの…そもそも僕はモテなさすぎて女性に知り合いがいないというのも事実だし、頼もしいといえば伯母上もそうで、いや、待って、判断するのはまだ早いよ? 軽く考えて欲しい、急に重いことを言い出してなんだコイツと気持ち悪く思ったかもしれない。わかる。重々わかる。反省している。だが、考えてみてくれ。僕はまだ23歳で、伸びしろがある。今後の努力次第では君の御父上のようなダンディになれる可能性もないことはない、だからここで僕を嫌うのはまだ早くて、もうちょっとチャンスが欲しいんだ、とある友人もプロポーズやり直しは8回まで許されたと…いや、これはそういうつもりではなく、プロポーズはちゃんと別にきっちり計画を立ててこんな形でこんな無様に終わらせる気はなく…っ!」


オルテシアはあっけにとられた。そして気づく。自分が何も答えないから不安にさせてしまったのだと。


「わっわたし…っ、わたしもっ愛していますっ! フューセル様がすごく大好きなのっ!」


叫んでしまって、オルテシアは震えあがった。


音量を間違えた。

早く不安を取り除こうと焦るあまりに。


 鳥たちが仰天して一斉に飛び去っていくほどの大声を、まさか自分が出せるとは。オルテシアは全身の小刻みな震えが止まらない。汗も止まらない。


離宮の広い中庭に、何とも言えない空気が広がっているのがわかる。


恐る恐る木立を目で探れば、そこここから護衛兵がぽかんとこちらを眺めている。そのまま見上げればフューセルの顔色も確認できるわけだが、オルテシアには無理だった。


(こんな間抜けな愛の告白ってない…っ。恥ずかしい…逃げたい…)


 とうとうオルテシアのぎゅっと閉じた瞼に涙がにじみはじめたとき、フューセルがその場に跪いて、そっと片手をとった。

「…愛しいオルテシア殿下。君をオルテシアって呼びたいんだけど、いいかな?」

 目を閉じたままコクコクと頷く。

「僕のことも、フューセルって気軽に呼んでくれる?」

オルテシアは「…はい、フューセル」と応えた。恐る恐る薄目を開けながら。

目の前に跪いたフューセルは、真っ赤な顔に満面の笑みを浮かべて、オルテシアを見上げていた。

「…勇気を出してよかった。君に愛しているってずっと言いたかったんだ。それから、君からも愛しているって言われたかった。…君も同じだったりしない?」

 オルテシアが力強く頷く。何度も。

フューセルは「だよね、嬉しい」とはにかんだ。


かわいい、とオルテシアは胸がキュンとした。


「オルテシア、僕らはこんな感じでやっていこうよ。恥ずかしいし恰好はつかないけど、多分…これが僕たちの最善だ。お互いたくさん喋って、気持ちを確かめあって、何年も何十年も何百年もずっと死ぬまでイチャイチャしていたいな。

 結婚したら毎日一緒に隣で寝て…話が止まらなくなって寝不足にならないよう早めに寝室に行ってさ。存分に甘えて、意味なくひっついて…時々はちょっと、えーと…君がまだ知らないなかよしも試したりして」

「? …はいっ」無垢な眼を輝かせて喜ぶオルテシアに向けて「もちろん、つど君の許可をとると誓おう」とフューセルは早口に告げる。そして「とにかく」と咳払いをした。

 「教師らの君への本当の評価は…僕は聞いて知っているけど、これはもう直接に教師へ聞こうよ。君自身への誤解もだが、自分たちの言動がそう受け取られていたことに、きっと彼女たちは驚くからね。

とりあえず伯母に話を聞いてもらおう? あの人もある意味で完璧な淑女と名高いんだ…あんなのでもね。」





 「教師の傲慢と怠慢が引き起こした過ちですわね。殿下はただ見下(みくだ)せばよろしい」

オルテシアの話を聞くなり、レディ・ローザリアはすぱっと言い切った。


「…伯母上。後生ですから、手加減をお願いします…」フューセルは頭を抱えた。それでも、伯母から飛び出した切れ味鋭い感想を何とかたしなめる。


 ローザリアは扇をかざしたその裏からフンと鼻で笑い、オルテシアに笑った目元を向ける。笑みの形ではあるもののその目はギラギラと怒りに輝いており、むきだしの悪感情に慣れないオルテシアを震え上がらせた。

 「理想の王女を夢見るのは勝手だけれど、現実に作り出せると考えた段階でまず身の程を知れとわたくしは思うわ。訓戒は必須ね。

 一万歩譲って王家への不敬に目をつぶるとしても、仮にその夢を叶えたいのなら、まずはその理想像を皆で一致させることが重要だったというのに、互いに認識や相違のすり合わせすら怠るほどの無責任さでありながら、寄ってたかって好き勝手やるなど、なんたる高慢。恥知らず。不遜もいいところ。停職のうえ降任処分が妥当ですわ。

 しかも、中には自分の理想の王女とやらの具体的なイメージすら定まってなかった者もいたそうね。都合の良い女神でも作れるおつもりだったのかしら。減給、3か月間の停職、戒告処分。想像力のない者が上にあがってもらっては困るの。

 いくら有能な者であっても、個々奮闘ではその場の一任務は達成できたとて全体として考えれば作戦のほころびに繋がる。教える立場にありながら、視野を広く確保できなくなったなら、もはやその資格なし。速やかに免職を手続きしたいわ。

 殿下におかれましては、そのお心を痛める前に、不届き者どもをただ見下(みくだ)して、我々にベルを振って下さればすむ話でしたのよ。

 そうすれば、その者どもを詰所に連れ込んで我々のほうできちんと()()()()()をいたしましたのに」


「…だ、…え、…、…ぁう…」


オルテシアはもはやその場で土下座をしたい衝動に駆られていた。王族だからできないことは重々承知で。もう私が悪いのでどうか許してぇ…と心の中で叫びながら。


しかし現実の口はただただ意味なき音を発するしかできないでいる。


フューセルは深いため息をつきながら、オルテシアの肩を優しく擦り、なだめた。

「物騒でごめん…根っからの軍人なんだ。この人もハルバード使い。

 …数年前に隣国から自称盗賊たちが組織だって領土侵犯してきた事件、覚えている? あの時の討伐戦で指揮官のひとりでありながら、女装してわざと攫われ人質になって交渉の場を作り、そのどしょっぱなに奪ったハルバードぶん投げて後ろから敵の大将首をふたりまとめて串刺しにしたのがこの人。

おかげで今まで頻発していた女性の誘拐事件が一時ピタッと止んだよね…女性不足の隣国で、我が国の女性全体が妙な噂になっていてさぁ…」


「…っ知ってるわ! 戦場に咲く薔薇の淑女! 普段は軍の作戦立案部に所属する一書記官にして、いざ戦場に立てば美しく薔薇を舞い散らせて勝利をもたらすそのお姿はまさにたおやかなる戦女神だと…っ。吟遊詩人のみならず、舞台でもとても人気なのよね、…すごい…本物にお会いしていたなんて…っ!」


「いやあの言葉を飾っているけど薔薇って返り血の暗喩で、軍の中での呼称は血まみれ鬼女…」


「フューセル、女装って何かしら? レディがドレスを身にまとうのは当然のことでしてよ? それから軍でわたくしが何と呼ばれているって?」

「…いいえ、何も知りません、伯母上…」

こほん、とフューセルが咳払いをし、その場でボウアンドスクレープを繰り出す。レディ・ローザリアは肩をすくめて謝罪を受け入れた。


 フューセルは、キラキラした目でローザリアを見つめるオルテシアの頬に手を伸ばし、優しく自分のほうへ顔を向けさせる。

「教師の方々へは、後で手紙を書くなりすれば改めて確認がとれると思うよ。

 それはそれとして、伯母上の感想はちょっと特殊だから、僕からの視点でも説明したいんだけど、聞いてくれる?」

「もちろんです、フューセル」

「ありがとう。

…君のもとを訪れていた教師たちはね、確かに皆がそれぞれ身勝手な理想を抱いていた。

でもそれはオルテシアにではない。王女という称号に対しての理想だ。君という人間を見ずに、ただ自分の理想を君()叶えることに彼女たちは躍起になってしまったんだ。

 それぞれの理想を掛け合わせると、人の身では再現できないような完璧なイメージになってしまっていて、だけど彼女たちはそうと気づかずそれを君に強いてしまった。

 君は必死に学んでいたとメイドたちが証言してくれているよ。頑張れば頑張るほど教師たちも欲がでて、お互いの頑張りが共鳴してしまい、結果的に君の意思を封じる行為になった…もちろん、ほとんどの教師が今はそれについてとても後悔をしている。君への応対はどれも無責任で良識ある大人として適切ではなかった、と。

 教師たちは黙って僕らの会話を観察していたろう?」


「はい、付添人をしてくださっていました」


「うん、君は素敵な淑女だし、ぼくはぽっと出の冴えない男だ。教師たちは君の身を案じて傍にいようとしたんだ。しかし、やらかした手前、口をはさめなかった。

 そうして入れ替わり立ち代わり僕らのお茶会に立ち会って…目のあたりにしたんだよ。君がどんどん表情を取り戻し、彼女たちの教えを無下にせず活用しながら、ぼくと楽しく過ごす堂々たる姿を。

 望んだ理想の王女ではなくとも、しかしそれを彷彿とさせる魅力的な姿をね。

 ついでに会話の内容にも度肝を抜かれていたようだよ。

 君が気づいていたかわからないけど。…僕らは貿易や王都周辺の流通状況、治安や新たな技術の話で、とても盛り上がったけれど、それって本来はシガールームで行うような話なんだ」


 オルテシアは戸惑った。

シガールームは、文字通りシガー(葉巻たばこ)を吸うための部屋だ。基本的に男性が使う部屋で、吸わない父親も何故かよく他の貴族と連れ立って入って行き、匂いをまとわせて帰ってきては弟に臭い臭いと湯殿へ追い払われている。


 「シガールームで話をするために必要な情報を、一体どこで集めると思う?

正解は、レディが主催するお茶会だ。さらに機密を含む情報まで集まるのがサロン。玉石混交の集大成が社交界だ。

 商人が命がけで運ぶ茶葉を、到着した分はどんな状態だろうと全て買い取るのが領主の義務だと話したよね。

それは何故かというと、茶葉の状態から、商人が使った流通ルートの安全性を確認できるからだ。

 レース編みや刺繍は女性の暇つぶしという建前で芸術面の技術を高め、自国の豊かさと潜在能力を見せつける、いわば他国への牽制だ。

 今年の流行りを決めるのも、どの領地の特産品を使うかで政治的なパワーバランスを整えるため。


 そうしてレディたちが作り出した流行や共有した情報をもって、夫はシガールームにいそいそと出かけるわけだ。そこで、情報を吟味し、精査し、国の安寧に繋がる政策を模索する。


 お茶会で集まるような情報をべらべら話す僕と、その情報から様々な施策を口にする君…本来の役割分担から外れているけれど、君の幅広い知識量や教養は紳士が持つそれと引けを取らない。そしてこれは自慢なんだけど、僕の情報収集能力ときたら、その量や確かさも含めて淑女のそれと変わらない。えへん。


 …つまりね、君が今、誰の指導も受けていないのは、教師から見放されたからじゃない。誰もが離宮に来る意味を失くしたから…いや、この言い方は誤解を招くね。ごめんね。

 要は、君を合格と判断したから教師たちは身をひいたということなんだ」


思ってもみない発想だった。


オルテシアが呆然とフューセルを見れば、彼は「信じられないって顔だね」と愛しげに笑いかけてくれる。

「オルテシア。僕の愛しい君。決して君は誰の期待に副えなかったわけでも、能力が足りていないわけでもないんだよ。

 そもそもさ、降嫁して貴族の夫人になったからって、お茶会やサロンを主催しなければならない、なんてことはないんだ。何故なら僕の人脈は広くて、…まぁ女性の知り合いがいない時点で流行の操作に口がはさめないところはネックではあるんだけど…とにかくシガールームで困る事態にはならないからだよ。

 それどころか、君の知恵が借りられるなら僕の成長にも繋がる。なにせ、このとおりの見た目に言動だ。軽んじられやすいんだよ」


「フューセルは声も見た目もそんなに素敵で、所作もきれいで、お話も楽しくてわかりやすいのに、それでも軽んじられてしまうのですか…シガールームとは恐ろしいところなんですのね…」


「うーん。君と話すと、あれだね。まるで自分が大陸一の色男だと錯覚しちゃう」

「? はい、正しく大陸一すてきな色男のかただと思います」


「…言い切っちゃった…」

「はい」

何を当たり前のことを、という思いが顔に出たままオルテシアが返事をすれば、少し離れた位置から、豪快に吹き出しひきつり笑いをしながら咳き込み、椅子の背もたれにすがりつくレディ・ローザリアの姿が。


「!? レディ、今、お水を…」

オルテシアがぎょっとして水差しを手に取るも、「…あれはもう放っておこうよ…構ったらまた物騒な話を始めるよ…欲しければ勝手に飲むから」フューセルが弱弱しく止めた。




 オルテシアの離宮合宿は、当初の予定より早く一年半で終わった。

そもそもこの合宿の目的自体が、教育というより避難の側面が強く、裏で密かに王族の暗殺計画が発覚しての処置だったらしい。

しかしその全ての事が早々に収まり、安全が確保されたため、明日にも城に戻れることになったという。


 離宮で過ごす最後の日、オルテシアは中庭でふたりきりのお茶会を開いていた。もちろん、木々の合間には護衛兵の制服がちらつくが。


 「…そんなことになっていたなんて。わたし、全然気づかなかったわ」

彼女の向かいには今日もフューセルが座り、美味しそうにクッキーを齧り、お茶を飲む。

 「途中から、伯母上が指揮に加わったからね。

甥っこの婚約の前祝いだって張り切ったらしく、裏では派手に捕り物をしていたらしいよ。まぁあの伯母上が生きている限り王家は安全だ。あっという間に事件解決、伯母上たちは新たな勲章を得て、劇団は新たなシナリオを得る。良ければ今度、一緒に見に行かない?」

 「嬉しいっ! 観たいわ! デビュタント終わったからお出かけができるようになって、私、本当に楽しみな場所が色々あるの!」

 ニコニコと笑いながら、指を折って行きたい場所を羅列するオルテシアを優しい目で眺め、フューセルが「ねぇオルテシア?」と声をかけた。


「君は、本当は自分を()と呼ぶんだね。わたくし、じゃなく」


「…ええ、そうよ。…やっぱり直したほうがいいかしら」

不安げにフューセルを見上げると、彼は簡単に答えた。

「場合によりけりだとは思う。

けど、僕の前では楽なほうがいいよ、これからも長く一緒にいるんだからさ。僕はありのままの楽しそうな君が好き。…ところで、欲しいものは本当にないの?」


フューセルが片手でオモニエールを高く持ち上げる。「実はまだ全財産この中なんだ」


オルテシアは笑って答えた。

「私の夢はもう叶ったわ。

秘密の道具には申し訳ないけれど、あなたがいれば他に何もいらないみたい」



(完)


「当事者の君は蚊帳の外」にでてくるアウローラ両親のなれそめ話です。


フューセルさんの見た目は地味な普通の兄ちゃんです。

オルテシアちゃんは抜群に美女のお顔です…雰囲気がポヤポヤのせいで、見た目だけのアホの子に思われがちという損な子です。


伝令が家業のおうちで育っているフューセルさんは、実はとても足が速いです。

ただし性格がああなので足の速さが知られても「凄い」とはならず「逃げ足が速そう」という評価になってしまう損な方です。

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