予言と楽観主義を巡る思索。
筆者は、オカルトを信じる人間ではない。
ただ、「信じない」ことと「考えない」ことは別だ。まず「本当にあるならば?」の前提で考えてみる。人生なんて「死ぬまでのヒマ潰し」なのだから、そっちの方が面白い。
すぐに「科学的根拠を出せ!」とか言い出すバカがいる。そもそも、彼らは「科学の何を知っている」つもりなのか?
この世界の99.9%は「仮説」によって成り立っているに過ぎない。
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最近、界隈で話題となっている7月大災害説。
たつき諒という元・漫画家が書いた『私が見た未来 完全版』で出てくる夢日記からの予言。
フィリピン沖で海底大爆発が起こり、日本も大津波に飲まれるとする説。作者は、夢の日記をつけており、何気なく書き残した夢が、書いた日から、きっかり数年後(日付もほぼ一致)に「これか!」となるようだ。
この本が注目を集めたのは、やはり「3.11」だろう。
漫画の表紙には「大災害は2011年3月」と明示されており、それが後に、東日本大震災(2011年3月11日)という形になり、訪れてからだ。彼女曰く、フレディ・アーキュリーの死や、ダイアナ妃の事故、近隣でのバラバラ事件、その他もろもろでのドンピシャなのだそうだ。ただ、夢は「直接夢」ではなく、「象徴夢」らしく、時に分かりにくい表現をとるという。
そんな彼女が、ずっと警告している「本物の大災害」が、2025年7月。すなわち来月である。東日本が本物でないとすれば、どんな規模だ?
一説には「7月5日」とされているが、これは当人も否定している。日記を書いた日付は7月5日だが、今回はピッタリではなく、「7月中」ということらしい。東日本大震災の3倍は、あろうかという巨大な津波。そんな規模の「海底爆発」が、本当に起こり得るのか? 恐ろしいのは「人災」の線も示唆されているとう点か。
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嘘か、本当か。
7月の訪日予定の外国人観光客の予約が、ガタ落ちで、日本行きの便自体を減らしている航空会社もあるとか、ないとか(それすらも漫画に紐づけて語るニュースメディア)。
フィリピン沖で海底爆発を起こすのなら、漫画の影響を受けている東アジア諸国も、動揺に被害を受けるだろう。「香港から台湾、そしてフィリピンまでが地続きになるような」という表現で語られる波の動き。そんな規模の爆発なら沿岸にいるだけで東アジアはアウトである。
この規模の災害を起こし得るとしたら「水素爆弾」くらいか。核爆弾よりも有望な水爆のお披露目。地理的には、中国のせいにされるだろうが、「最初に声を上げる国」と「それに従う国」こそが、最も怪しい(マッチポンプの定理)。
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予言と預言。
予言は、未来を予見し、警告を発する「個人」の言葉。預言は「神」から直接預かる人類に向けての言葉。
予言よりも預言が物々しいのは「神」を語る点。預言を否定するのは、神を否定するにも等しい。同一宗教を信奉する「信憑性の低い預言者」でも、それを否定することは、自身の宗教を否定することにもなり、ややこしい。というか、リスキーでもある。「神の声を聞いた」は、ひとつの魔法でもある。
最近面白いのは、預言よりも、やはり予言か。量子力学や時間の概念などとも混ざり、物理学界にも、スピリチュアルの波が押し寄せている。いわゆるラプラスの悪魔の「無意識演算」が「夢の中」で行われる人間がいるのだとすれば、それは「稀に当たる」予言ともなり得るのかもしれない。
ただし、これに付け加えるのなら、その予言者はサヴァン症候群、ないしは強度のアスペルガーでもない限り、「計算機」としての役割を果たせるとも思えないわけだが。―― 「睡眠」という行為によって、その疑似的な状態の再現が、偶然作り出されていると考えても構わないが。
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盲者に付き従う盲者たち。
予言や占いが重宝されるのは、それだけ皆が「混乱」している証拠でもある。自身の人生の計算処理だけで「オーバーフロー」を起こしてしまう人々。「様々な要素」を考えすぎてしまう人間ほど、陥りやすい精神状況。
「考えすぎ」には、たとえ間違っていても「単純な断定」が、薬となる場合がある。自分自身で「人生を単純化」出来ない者は、外部にそれを求める。それが指導者であったり、予言というわけである。
しかしながら、「外注の」単純化プログラムには、当然ながら不具合も発生する。予言や預言がリスキーなのは「確定」という状態が発生することにより、「量子的状態」を維持できなくなる。「確定以前の曖昧な状態」こそが重要であり、確定による結果には、必ず「再計算」の作業が付きまとう。
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不安の大半は、杞憂に終わる。
これは確率論的にも、事実に近い。
しかしながら、我々は常に先回りして危惧する。「万が一」に備えて。
だが、どんな時も「そんなことは起こらない」とする楽観主義者たちがいる。どれほど、危険に映る状況でも「まあ、なんとかなるっしょ」と脱力している。そして、ほとんどの場合、実際になんとかなってしまう。ふざけたことに。
なんとかなった場合、我々は彼らのことを「今回は運が良かっただけ」と言い、ならなかった場合は「自業自得」と呼ぶ。ナンセンスにも。
―― リスクに対して支払う「ストレスのコスト」についてを考えた時、果たしてバカなのはどちらか?
危惧の念は、予見に近い。
だから、それを考えた段階から薄い利息を支払い始め、確定前夜には、膨大なストレスを支払う。そして得るのは、9割以上の確率で「安堵」という小さな報酬となるわけだが、果たしてこれは「貸借のバランス」が、とれていると言えるのだろうか?
これが、受験への合格などの不安に対する報酬としての杞憂であれば、合格という報酬で収支も合う。しかしながら、日常生活における報酬は極めて低く、そのストレスとは、まるで見合わない。だから、多くの現代人たちは、ゲーム世界にのめり込む。たとえ、それが現実化出来ない報酬であっても。
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勝者としての楽観主義者たち。
単純なプログラムで動作する、単純に見える人間たち。多少の嫉妬心はあるが「あんな人間には、なりたくない」と考える自分もおり、仮初めの平静を保つ。
しかしながら、「人生の幸福値」を考えた時、明らかに高い値を叩き出して見えるのもまた、彼らの人生でもある。学生時代に無計画にこどもを作り、20代で苦労し、30代では小さな会社を起こし、40代になる頃には孫までいる。賢く、計画的に生きているつもりでも、独身の人間からすれば、どちらが本当に賢かったのか?となる話。
―― 起こり得ないことを考え、常に不安に苛まれる人々。実際にそれが起こったとしても、だから何だというのか?
「他人の不幸は、蜜の味」
この発想も、日頃、他人の貸借対照表に対し、不可解なものを感じ、嫉妬を抱えている者たちの悪癖に過ぎない。そして、そういった羨望の対象者の墜落が、彼らを歓喜させる。「ざまぁみろ、自業自得だ!」と。愚かなのは、ローンでストレスを払い続ける自分自身であることを棚に上げて。
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考えて、どうにかなることは「即断で動く」。
どうにもならないことは、ひとまず「考えない」ことにする。
どうにかなることを先送りにするのは、ストレスをローン化させるだけなので、すぐに行動。どうにもならないことは、考えるだけ無駄。一旦封印。
楽観主義になれないまでも、これだけで、だいぶとプログラムの単純化が出来るはずだ。オーバーフローに対する処理は、別に予言や宗教に頼らなくても、大半は誤魔化せる。これまで支払った「膨大な無駄」に対する処方箋としては、こんなところで十分だろう。
アントニオ猪木が言った「バカになれ!」が、今こそ響く時代なのかもしれない。
こんなことを書いても、楽観主義者たちの「最悪の事例」を持ち出し、ネガティヴなことを言いたがる人間は、一定数いるだろう。
それは、彼らが日頃から支払っている「貸借の合わないストレスコスト」に起因する感情でもあるわけだが、それが「他人の不幸は、蜜の味」という、認知的不協和的な「歪んだ報酬」の源泉ともなっていることに、自覚している者は少ない。毒の温泉に浸かりながら。
ストレスコストの浪費は、人生の意味を見失うためにも、非常に有効な手段といえる。