兄貴の涙
「太陽が沈んだ日」の続き
「おいおい、また泣いてんのかよ、兄貴!」
「……ん? ああ、そうらしいな」
そう言って彼はいつものように笑った。強くて頼れて、まっすぐで、時には不器用で、でも誰よりも人情に厚い――そんな「兄貴」として、仲間に慕われてきた男。その彼が、朝からずっと泣いていた。いや、正確に言うなら、涙が止まらなかった。
それでも、彼の態度はいつも通り。いや、むしろいつも以上に明るく振る舞っていた。冗談を言っては場を和ませ、困ってる奴がいれば当然のように手を貸し、弱音を吐く誰かの背中を黙って押す。……それなのに、彼の頬には絶え間なく涙が伝っている。
最初は誰もが笑い話にしていた。
「兄貴、失恋でもしたのかよ〜?」
「玉ねぎでも刻んだんですか〜?」
そうからかって、彼も「バレたか〜」なんて適当に返していた。けど、昼を過ぎても、夕方になっても、涙は止まらなかった。
おかしい、そう思ったのは、彼の隣にいた後輩だった。
「……兄貴、目、痛くないんスか?」
「んー? 全然。なんか、変な呪い受けたっぽいけど、まあ、生きてるしな。大したことねぇよ」
軽く言ってのける兄貴。その笑顔が、逆に怖かった。だって、涙が止まらないなんて、普通じゃない。身体に異常がないわけがない。
それから少しずつ、周囲の空気が変わっていった。
誰かがそっと医務室に連れて行こうとしたら、「平気平気〜、心配して損するぜ?」と明るく笑った。
仲間が「無理すんなよ」と声をかけたら、「無理してねぇって。なーにビビってんだ?」と肩を叩いてきた。
……でも、その度に、涙は止まらない。
誰もが、気付いていた。
兄貴は「平気なふりをしている」わけじゃない。
「本当に、何も気にしていない」顔をしていた。
けどそれが、逆に怖かった。
感情が壊れてるんじゃないか?
痛みを感じなくなってるんじゃないか?
その笑顔は、どこか「空虚」だった。
「……兄貴」
誰かが、そう呼んだとき、彼はいつも通り振り向いた。
「ん?」
「……泣いてるよ」
「おう」
「……それ、やっぱおかしいよ」
「……そっか?」
彼はそこで初めて、自分の頬を指で拭った。
しばらくその水の存在を確かめるように見つめたあと、また笑った。
「泣いてるのに、なんも感じねぇな。ははっ……すげぇな、呪いって」
その笑顔を見て、誰かが小さく呻いた。
――こいつは、壊れてる。
壊れていることにすら気づけないほどに、何かを背負いすぎたんじゃないか。頼られることに慣れすぎて、自分の痛みを無視するようになってしまったんじゃないか。そう思うと、仲間たちの胸が、ずんと重くなる。
「……兄貴。もう、俺らに甘えていいっすよ」
その言葉に、兄貴はぽかんとした顔をしたあと、ゆるく笑った。
「……そうか。甘えてもいいのか。じゃあ……」
涙が、また一筋、頬を伝った。
「……ちょっとだけ、座ってていいか?」
「はい」
「……ちょっとだけ、誰か、隣にいてくれると……ありがてぇ」
「――もちろんっス」
そうして彼は、初めて自分から、誰かの隣に腰を下ろした。
流れ続ける涙は止まらなかったけど――その日、兄貴の中で何かがやっとほどけたようだった。