第2話 歪な鉄路の誘い
『――最初のゲートは、まもなく開きます』
頭の中に響いた無機質な声と、トンネル壁面に空いた横穴から漏れ出す妖しい光。それは、この絶望的な状況における唯一の「変化」であり、それゆえに強烈な磁力で生存者たちの意識を引きつけていた。
「……ゲート?ふざけんじゃないわよ!何よそれ!説明しなさいよ!」
最初に沈黙を破ったのは、速水紗雪だった。肩で息をしながらも、その瞳は爛々と輝いている。手にしたスマートフォンは、しっかりと横穴の光を捉えていた。彼女にとって、この異常事態は恐怖であると同時に、最高の「ネタ」でしかないのかもしれない。
「ヤバい!これ絶対バズるやつじゃん!世紀の大発見かもしれないし!」
「黙ってろ小娘!状況が分かってるのか!」権藤が紗雪を一喝する。その顔は怒りと焦燥で歪んでいた。「おい!誰だか知らんが、出てきて説明しろ!閉じ込めてどうするつもりだ!」
虚空に叫ぶ権藤の声だけが、粉塵の舞う車内に虚しく響いた。元消防士という経歴が滲むその声には、場を支配しようとする意志と、隠しきれない戸惑いが混在している。
「ひっ……いや……行きたくない……あんなところ……」
座席の影で小さくなっていた葉山詩織が、顔を覆ったままか細い声で呟いた。彼女の肩は小刻みに震え、光る横穴を直視することすらできないようだ。
藤堂智也は、目の前の光景をただ呆然と見つめていた。元駅員見習いとして、地下の構造に関する知識は人並み以上にあるつもりだった。だが、こんな横穴はあり得ない。正規の避難経路でも、保守用通路でもない。まるで、巨大なドリルか何かで、強引に穿たれたような……。そして、あの光。自然光ではありえない、人工的で、どこか有機的な揺らめきを帯びている。
『水島先輩……こんな時、あなたなら……』
脳裏に浮かぶのは、数年前に謎の失踪を遂げた尊敬する先輩駅員の姿。彼の言葉を反芻するが、今の智也には、それを具体的な行動に繋げるだけの勇気がなかった。体が鉛のように重い。
「おい、どうするんだよ!」「ここにいても助けなんて来やしないぞ!」「でも、あの穴が安全だって保証はどこにも……」
他の乗客たちも、ようやく現状の異常さを飲み込み始めたのか、口々に不安を吐露し始めた。小さな子供を抱いた母親は泣き出し、年配の男性は血の気の引いた顔で一点を見つめている。パニックが伝染していく。
「みんな落ち着け!」権藤が再び声を張り上げた。「ひとまず、この車両から出るぞ。いつまた崩れてくるか分からん!」
彼の言葉には説得力があった。誰もが、この鉄の棺桶から一刻も早く脱出したいと思っていた。
「問題は、どこへ行くかだ……」権藤が苦々しげに横穴を見つめる。
「決まってんじゃん!あの光の先っしょ!」紗雪が、まるでアトラクションにでも向かうかのように軽薄に言った。「ここにジッとしてたって、バッテリーも食料も尽きるだけだよ?それに、なんか面白そうじゃん、探検みたいで!」
「面白そう、だと……?」権藤の眉がピクリと動いた。「人が死んでるかもしれんのだぞ!」
「だからこそ、早く動かないと!それに、もしかしたらあっちに非常口があるかもしれないしー?」
悪びれもせずに言い返す紗雪に、権藤の堪忍袋の緒が切れかかった、その時だった。
ゴゴゴゴゴゴ……!!
車両の後方から、先程よりもさらに大規模な地鳴りのような音と振動が襲ってきた。壁面のコンクリートが剥がれ落ち、天井からバチバチと火花が散る。
「うわぁっ!」「きゃあああ!」
再びパニックに陥る乗客たち。
「チッ……こっちも崩れてきたか!」権藤が舌打ちする。「こうなったら選択肢はねえ!あの穴に入るぞ!ここにいるよりはマシかもしれん!」
彼の決断に異を唱える者はいなかった。もはや、一刻の猶予もないのだ。
「よし!俺と、そこの若いアンタ!」権藤が智也を指差した。「それから、そっちの小娘もだ!お前ら、前に出ろ!俺たちで先に行って、安全を確認する!他の者は、その後からついてこい!」
有無を言わさぬ権藤の指示に、智也はただ頷くしかなかった。紗雪は「ラジャ!」と嬉々として応じ、スマホを構え直す。
三人(それに、おどおどとついてきた数人の男性乗客)を先頭に、生存者たちは恐る恐る、発光する横穴へと足を踏み入れた。詩織は、泣きそうな顔で他の女性客に寄り添いながら、最後尾近くを歩いている。
横穴の内部は、予想通り粗雑な作りだった。岩肌が剥き出しの部分もあれば、不自然なほど滑らかな金属質の壁が続く箇所もある。ひんやりとした空気が肌を刺し、どこからか水の滴る音が聞こえてくる。智也は、壁の材質や構造に注意を払いながら進んだ。これは、明らかに人間の手による正規の工事ではない。だが、完全に自然の洞窟とも違う。何か、奇妙な意志のようなものを感じる。
「……うわ、何ここ……」
数分ほど進んだだろうか。紗雪が驚きの声を上げた。
横穴の先に広がっていたのは、信じられない光景だった。
そこは、地下鉄の駅のホームによく似た空間だった。だが、全てが歪んでいた。
天井は異常に高く、所々崩落して空が見える――いや、空ではない。どこまでも続く暗闇と、そこに点滅する星のような光。壁には駅名を示すであろうプレートがあるが、文字は見たこともない奇妙な記号に置き換わっている。線路は錆びつき、その上を蔦のような植物がびっしりと覆っていた。そして、ホームのあちこちには、用途不明の機械が無造作に設置され、低い唸り声を上げている。
「……駅、なのか?ここも……」智也が呆然と呟く。
知っているはずの地下鉄の風景が、悪夢のように変容している。元駅員見習いとしての知識が、目の前の光景を理解することを拒絶していた。
「ちょっと見てよ!あの植物、光ってるんだけど!」紗雪がホームの隅に群生する奇妙な植物を指さす。それは、淡い燐光を放つキノコのようでもあり、食虫植物のようでもある、異様な姿をしていた。
キシャァァァァッ!
突然、ホームの奥の暗がりから、甲高い鳴き声と共に黒い影が数体飛び出してきた。それは、人の背丈ほどもある、巨大なネズミのような姿をしていた。だが、その目は赤く爛々と輝き、口からは鋭い牙が覗いている。
「なっ……!なんだ、あれは!?」権藤が叫び、咄嗟に落ちていた鉄パイプを拾い上げて構える。
「モンスターだ!マジでモンスターが出た!」紗雪は恐怖よりも興奮が勝っているのか、スマホを怪物に向けながら叫んでいる。
智也は、その異形の怪物を見た瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。
『地下には、我々の知らない世界が広がっているのかもしれない……』
失踪する直前、水島先輩が何かの資料を見ながら、そう呟いていたのを不意に思い出した。あの時の先輩の目は、不安と、そして子供のような好奇心に満ちていた。
「ここは……一体……?」
目の前の非現実的な光景と、迫りくる脅威。智也の脳は、完全にキャパシティを超えていた。ただ、水島先輩の言葉だけが、頭の中で何度もリフレインしていた。
ここは、知っている地下鉄ではない。
ここは、人間が足を踏み入れてはならない、禁断の領域なのかもしれない。
第二話 了