第1話 0時01分の絶響
デジタル時計の数字が、無慈悲に0時00分から0時01分へと切り替わる。深川車両基地へと向かう、今日の本当の最終電車。がらがらの車内には、週明けの重圧を予感させる月曜日の倦怠感が漂っていた。
藤堂智也、22歳。大学4年生。彼は窓ガラスに映る自分の顔から視線を外し、ため息を隠した。手にした安物のビジネスバッグには、数時間前に受けた最終面接の資料と、ありきたりな自分を詰め込んだエントリーシートの束。社会という巨大な駅のホームに、自分はどの路線のどの列車に乗ればいいのか、まだ見つけられずにいた。
『――次は、門前仲町。門前仲町。お出口は、右側です』
自動音声が、いつもと変わらぬ淡々とした響きで告げる。その日常が、次の瞬間、木っ端微塵に砕け散ることになるなど、智也を含め、この車両に乗り合わせた十数人の誰が予想できただろうか。
けたたましい金属の軋む音。それが全ての始まりだった。
地獄の底から響き渡るような轟音と共に、車両が激しく横揺れした。吊り革が踊り、網棚の荷物が乗客の頭上に降り注ぐ。悲鳴。怒号。床を滑る体。智也は咄嗟に座席の手すりにしがみついたが、次の瞬間、体が宙に浮き上がり、叩きつけられるような衝撃と共に、車内の照明が全て消えた。
完全な暗闇。
鼻をつく焦げ臭い匂いと、舞い上がる粉塵で息が詰まる。耳鳴りが酷く、周囲の音が現実感を失っていた。誰かのうめき声、すすり泣く声、そして、何かが崩れ落ちる不気味な音が断続的に響く。
「……っ、大丈夫か!」
智也のすぐ近くで、野太い声が響いた。おそらく四十代半ばだろうか、がっしりとした体格の男が、スマートフォンのライトで周囲を照らし始めている。その光の中に、ピンク色の髪をした若い女が、同じくスマホを構え、呆然としながらも何かを撮影しているのが見えた。転倒した座席の影では、小柄な女性が頭を抱えて震えている。
「……っは、ぁ……」
智也は浅い呼吸を繰り返しながら、どうにか体を起こした。元駅員見習いとしての短い経験が、脳裏をよぎる。『トンネル内での事故発生時、乗客の避難誘導は――』だが、そんなマニュアルは、この圧倒的な現実の前では紙切れ同然だった。足が竦み、声が出ない。
「クソッ、何が起きてんだ!運転手!応答しろ!」
先程の男――権藤と名乗ることになる男――が、車両の前方に向かって怒鳴っている。しかし、返事はない。運転室との連絡ドアは歪み、開く気配もなかった。
智也は震える手で自分のスマートフォンを取り出し、ライトをつけた。画面には「圏外」の二文字。非常用インターホンも試したが、何の反応も示さない。外部との連絡は、完全に絶たれたのだと悟った。
「みんな、落ち着いて!怪我はないか!?」
権藤が周囲に呼びかける。その声に少しだけ冷静さを取り戻した乗客たちが、互いの安否を確認し始める。幸い、智也の視界に入る範囲では、命に関わるような大怪我をした者はいなさそうだった。しかし、安堵するには早すぎる。
「…おい、智也!お前、地下鉄詳しかったよな?これ、どういう状況だ?」
声をかけてきたのは、同じ大学のゼミ仲間で、今日はたまたま同じ電車に乗り合わせていた速水紗雪だった。ピンク色の髪を振り乱し、興奮を隠せない目で智也を見つめている。彼女は、過激な動画で人気の炎上系YouTuberだ。こんな状況でも、スマホの録画は止めないらしい。
「……わから、ない。でも、ただの脱線じゃない……揺れが、尋常じゃなかった」
智也はかろうじて言葉を絞り出した。トンネル壁面の一部が大きく崩落し、鉄骨が歪んでいるのが見える。まるで巨大な獣が噛み砕いたかのようだ。こんな光景は、研修でも資料でも見たことがない。
「見てください……あそこ……」
怯えた声で指さしたのは、頭を抱えていた小柄な女性――葉山詩織だった。彼女が照らす先、車両の進行方向とは異なる側面のトンネル壁に、ぽっかりと口を開けた横穴があった。それは、正規の避難通路ではない。まるで、最近になって掘られたかのような、荒々しい断面を持つ、未知の通路だった。
「なんだ……ありゃあ……」権藤が眉をひそめる。
その時だった。
キィィ――――――――ン。
金属を擦り合わせるような、甲高い音がトンネルの奥から響いてきた。鼓膜を突き刺すような不快な音。そして、それと同時に、車内に残っていた非常灯のパネルが、一斉に不気味な赤い光を明滅させ始めた。
『警告。警告。セクター03、再定義を開始します』
合成音声のような、感情のない女の声。それは、車内放送でも、駅の放送でもない。どこからともなく、直接頭の中に響いてくるような奇妙な感覚だった。
『生存者各位。規定に基づき、適応試験プロトコルへ移行します。最初のゲートは、まもなく開きます』
「……ゲート?」紗雪が呟く。
その言葉を合図にしたかのように、先程詩織が見つけた横穴の奥が、ぼんやりと発光を始めた。それは誘うような、あるいは拒絶するような、得体の知れない光だった。
智也は息を呑んだ。脳裏に、数年前に失踪した尊敬する先輩駅員・水島さんの言葉が蘇る。『藤堂、どんな時でも、乗客の安全が最優先だ。そして、諦めるな。必ず道はある』
だが、今の智也には、その言葉に応えるだけの勇気も、力もなかった。目の前で起こっている現実は、彼の乏しい経験と知識を、遥かに超えていた。
0時01分。それは、日常との決別の時刻。
そして、絶望的な迷宮の始まりを告げる、不協和音のファンファーレだった。
第一話 了