01.酒場にて
――好きにならなければ良かった。
なんて言えるのは、その恋に自分から飛び込んだ時だけだ。
気が付いた時にはもう手遅れ。
俺の名前を呼ぶ時の、声が好き。
本気で笑った顔は、すこし幼い。
こちらの姿を追う、瞳が好きだった。
王子が王子でなかったら、とか。
もし俺が女だったら、なんて。
考えたけど、俺は今のままで十分だった。
これ以上、を望まない。
酒場に新しい客の訪れを告げるベルが鳴る。
軽い足音と、すぐに調子外れの口笛が続いた。
「お~い美人さん!こっちで呑もうぜ」
いかにも酒焼けした、野太く興奮した男の声。
美人と聞いて、俺はゆっくりとそちらへ視線をやった。
別に美人の顔を一目見たいなんて、思ってない。
ましてや自分に声が掛けられたのかもなんて、勘違いもしていない。
――これは職業病だ。
王都の外れ…深夜の酒場。ここもある意味、自分の管轄内。
「なぁいいだろ?ねえちゃん、奢ってやるぜぇ」
恰幅のいい若い男がしつこく誘う。
同じようにニヤけた連れが、その様子を見ている。
声を掛けられた"美人さん"に目をやる。
成程、そこには場末の酒場に似合わない、上品な美女が立っていた。
――野暮ったい外套の上からでも、気品の高さが窺える。
どう見ても"訳アリ"。事情のある女や子どもほど、弱い立場の者はいない。
普段なら声も掛けられそうにない、貴族然とした女だ。
こんな深夜の安酒場では、酔っぱらいの注目の的。娼婦も出入りする場所へ、ノコノコとやって来るなんて。
最近の淑女への教育はどうなっているんだと、頭が痛くなる。
男達のうしろから様子を窺っていると、やっと女が伏せてた視線を上げた。
「……!?」
薄暗い店内でも分かる。薄い青と金色の混ざる、黄昏色の瞳だ。
思わず動揺してしまう程、俺のよく知る人物と似ていた。
「――エリアス…殿下…?」
そんな筈ない!そんな訳はないと分かっている。
意図せず主君の名がこぼれた口を、慌てて閉じる。
女の視線は、じっと俺の方へ注がれている。
あらためて女を観察する。
目深に被ったフードから、亜麻色の巻き毛が垂れている。その色に見覚えはない。
濃すぎる化粧は、自分ひとりでの身支度に慣れていない証拠だろうか?せっかく整った顔の造形を邪魔している。
いや、化粧が濃かろうが薄かろうが、俺には関係ない。
異性の顔をここまで意識したのは初めてだ。
――なによりあの輝く彩色の瞳。どうしようもなく胸が騒ぐ。
――未練がましい!王子の結婚を祝うと決めたばかりだろうがっ!!
今夜だって、そのためにこんな街外れまで来ていた。気持ちに区切りをつける為。
俺はエリアス殿下が好きだ。
物心ついた時から抱えていた気持ちは、年々大きくなっていた。
家族のように愛おしい。これは敬愛の気持ちだと、自分を誤魔化す努力もした。
親にも"思ってることが顔に出やすい"と言われる俺は。自然と王子との距離を取るようになっていた。
もちろん気持ちを伝えるつもりなどない。返事のいらない告白なんて、独りよがりの自己満足だ。
今の国王の代になり、一般国民の婚礼にも多様性が認められつつある。だが、それとこれとは話が別だ。
相手は世襲国家の、次期国王を期待された王子様。
男の恋人がいて良いはずがない。いや、恋人や愛人なら構わないだろう。
ただきっと俺なら耐えられない、というだけの話だ。
エリアス殿下は、それはそれは真面目な方だ。
"聖人君主"という言葉を人間にしたら、おそらくああなる。
――王子はこの国に、心を捧げている。
結婚相手だって、きっと最も国に利のある方を選ばれる。
だからずっと覚悟していた。
昨日の王子と公爵家令嬢との婚約の一報は、思ったよりも冷静に聞けた。
――そりゃそうだろ。諦めよう諦めようと、気持ちを引き摺る音がする。
残念、なんて変な期待をしていた証拠だ。
エリアス殿下への想いを、全て捨てる。
そう自分に言い聞かせていた矢先。酒場で見掛けた女に、殿下の面影を重ねるなんて。自分でもどうかしていると思う。
気が重い、溜息をついて席を立った。
店主に目配せで合図をする。もっと静かに呑みたかった。
辛抱強く声を掛ける、男の背後に立った。
――すこしの見込みもない事くらい、自分で判断しろ。…なんて人に言える立場じゃない。
「お兄さん、その辺でやめたら?」
愛想笑いを添えて、男の肩に手を置いた。
「お嬢さんはどなたか捜しに?こんな店にはその相手もいないでしょう?」
だからすぐに帰ってくれ、と思わず本音が出そうになる。
店から出た方が賢明だと、言外に伝えたが。
女は相変わらず、こちらを見たまま何も言わない。
「なんだ邪魔すんのかっ!?」
酒か怒りに顔を赤くした男が、勢いよく振り向いた。
つれない女の態度に鬱憤が溜まっていたのかもしれない。振り向きざまに大振りに殴り掛かってきた。
「おっと…」
男の拳を避けて、伸びてきた太い腕を掴む。捻りを加え、勢いを殺さずそのまま床に引き倒す。
「ぐあっぁ!!」
椅子が転がる大きな音と、男から低い唸り声が上がる。
わざと殴られてやれば、男の気が晴れたかもしれない。
俺だって理由もない喧嘩でもすれば、スッキリしたのかも。
「すぐに警備隊が来る、付き添い頼むよ」
仕事は仕事だ。床で伸びる男の連れに声を掛ける事も、忘れてはいけない。
すぐ傍に立つ女に向き直る。
目の前で起きた騒動に、少しも動揺した様子がない。
――自分が原因の一端だと、分かっているのだろうか?
…近くで見ても綺麗すぎて、いっそ作り物めいている。
「どちらの御令嬢かは存じませんが、馬車を用意しますから行き先を教えていただけますか?」
もしこの"お嬢さん"が望むなら、騎士として護衛をかってでなければいけない。
王都の中ならまだしも、郊外の屋敷の可能性も捨てきれない。
そうなると明け方までに帰って来て、そのまま出勤だ。
見ないふりをするなんて選択肢は、初めから無い。
困っている婦女子には率先して手を差し伸べるのが、騎士道だ。
徹夜を覚悟した俺に、はじめて女が口を開いた。
「……ランベルト、私が誰だか分からないのか?」
女性にしては低い、凛とした声。
「……はい?」
自分が聞き間違えるはずのない。どうして?なんで?と繰り返し頭に浮かぶ。
――だって有り得ない。
「……エリアス…殿下…?」
今度こそ、はっきりと王子の名を口にする。
呼び慣れた、大切な。この国の、第二王子の名だ。
瞬間、目の前の女が笑った。
「――――っ!!!!!?」
「気付くのが遅い、出るぞ」
こちらの混乱を余所に、その女…改めエリアス殿下が言った。
食い下がる店主に銀貨を握らせて、店の外へ出る。
冬場らしい外気に、一気に酔いが醒めてしまった。