88 あまりにも
※不快になる表現があります。苦手な方はこの回をお避け下さい。
河漢事務所の小さな一室で向かい合っているのは、チコとローの弟ランスア。
後ろにはアセンブルスが付いている。外にはカウスが待機していた。
「で、何すか?」
ソファーに座り込んで飄々としている金髪ロン毛の男にチコはあきれて話し出す。
「お前な…………。
この前の病院の件もだが、金や余裕が欲しいなら少し働け。仕事を紹介すると言っているだろ。弟にたかるな。」
「…たかったんじゃなくて、兄弟愛です。助け合って何が悪いの?職場すぐに追い出されちゃうんで働けなくて。」
「…………。」
「そんなお兄さんの、面倒見てもらってるだけなんだけど。お兄さん孝行。三綱五常そんで五倫?」
「頭悪そうなのによく知ってんな。」
「ははは。頭いいよ?いろいろ知ってた方が話ができてお金になるし!」
「だったら、金を儲けろよ。」
「働くの疲れた。」
「……まあいい。
それに加えてな…あそこに女を連れ込むな……。」
「……?」
ランスアは何で知っているんだという顔をする。
「あの下宿のある辺りは安全地帯だが、独り暮らしの男性も多い地域で安全も100%じゃない。仮住宅に押し込められて満足している者もいれば、気が立っている者もいる。」
「…そうなんだ。気ぃ付けるわ。」
「構ってくれる相手がいるなら、そこに行けばいいだろ?いやなら引き払え。」
「彼女、姉妹と女友達2人でシェアしてるから家はダメだって言うしさ。」
「……大房に下宿を借りれるようにしようか?あてが見つかるまでは私がどうにかする。」
「え?それはヤダ。チコちゃんに迷惑かけれないし。」
チコの自費で住まわせてもらっているのにこんなことを平気で言う。ランスアは河漢住民でないし勤務もしていないので、行政の仮設住宅地域とはいえ今は家賃など必要だ。
「ベガス気に入ったし。公園とかスッキリしてきれいだからここにいたい。」
ごちゃごちゃ込み入った大房に比べ、ベガスは土地が広く緑も多い。ゴミゴミした場所もあるが全体としては広々として、とくに南海は人恋しい時にも距離を取りたい時にも丁度いい場所だった。
「…あのなあ、何度か言ったけれどベガスに入居するには……」
「分かってるってば。俺はダメなんだろ?だから河漢でいいよ。ここベガスの隣だし。」
かなり理不尽な話だがこの男に常識を言っても無駄なので、チコは言いたいことの半分以下で収める。
「とにかく、人の金に頼っている間は女を連れ込むな。」
「……暇だし。」
「女性同士が合致あったらどうするんだ?一応分けてんだろ?」
「…?」
「この前ランスアが出掛けている時、一人女性が家に来ていたぞ。あんなところ一人で歩かせたら危ない。」
「っ?」
「せめてここにいる間くらい一人にしろ。何人いるんだ。」
ランスアは怪訝な顔をする。
「…何すか?いちいち人の生活や動向を見てるんですか?」
「普通にどこにでも監視カメラがあるだろ。」
「は?だからそれをいちいち見てるんすか?」
少し雲行きが危うい。
「……。」
チコは眉間に手を当ててため息をつく。
「見えるから。」
「……?」
「ランスアには言っていなかったか?
私たちは視える。そこに女性の影があるか、ないか。
交わったかそうでないか。」
「……?」
ランスアは目を丸くし、少し目を彷徨わせて後ろにいるアセンブルスも見た。
アセンブルスは静かに立ち、微動だにしない。
「見え方や見えるものは個々人で違うが、過去をそのまま見る力のある者もいる。」
「………」
チコが過去と言ったところで、ランスアに動揺の気が視えた。
「私の場合、モヤが絡む。あまり弱いものは分からないが、
肉体関係や強い感情があると――」
「…っ?」
「――分かるな。私にも。」
「?!」
ランスアは少し乗り出して驚いた顔をしながら、またゆっくり背もたれに沈みこんだ。
「………。」
「横領とか万引き癖とかそういうのも分かる者がいるし……浮気や不倫が分かる者もいる。ぼんやり察知する者もいるし、はっきり見える者もいる。万能じゃないが、目安にはなるな。
安心しろ。ランスアだけ見ている訳じゃない。アーツやベガスで何かの根幹に関わる者の霊性は全員見ている。他の組織や企業もそうだ。」
そしてアセンブルスを指す。
「私の側近だが、不安にならなくていい。彼もかなり見える。それから遠隔の声も聞こえる。
ここでは何かを隠しても仕方がない。」
「……何?…見えるって?そういうこと?」
「……」
かなり動揺している感じだが、チコはただ頷く。
しばらくの沈黙の後、チコは真っ直ぐにランスアを見つめて言った。
「大房から来た中で数人、施設に保護して治療に入っている。」
「?!」
ガンっ!!
と、これまでのまったりとした世界が完全に崩れた。
そこまで聞いて、いきなりランスアがテーブルを足の裏で蹴ったのだ。
二人の間のローテーブルが、チコ座るソファー左側にダン!と叩きつけられた。
まだ手を付けていないチルドカップのコーヒーが床に転がった。
「…何が言いたいんだ?」
ソファーに座ったままのランスアが冷えるような目を向ける。
今までの適当な当たり良さが消えて、完全に目が据わっていた。
「ああ゛?」
チコは黙って聞いている。
「何が言いたいんだって聞いてんだろ!?」
「カウンセリングに入ろう。」
「ああ?!!」
チコが言ったところでランスアが立ち上がり、落ちていたチルドカップを思いっきり踏みつける。バフっ!と音がしてカフェラテがそこら中に飛び散った。
「あ?何、分かったような口きいてんだ?」
「…。」
「このクソがっ。」
「安心しろ。アーツや大房のメンバーが関わっているプログラムには入れない。
戦地、貧困地域、先進地域、都市でも組むプログラムが違うし、状況や症状で100以上のプログラムがあり、成人男性もたくさんいる。ランスアだけじゃない。」
「…?」
「まずどこかのプログラムに入れるとかはしない。個々で対応する。
この前話した女性覚えているか?メレナ・バジーア。それからサングラスをかけていたダークブロンドの女性ガイシャス・シンファース。
この二人はこういう件に何百件も対応している。組織では数千件以上だ。その他のことも合わせると、万単位に行く。彼女たちが紹介する人員は大丈夫だ。」
その他のこととは虐待、拷問、奴隷状態、身体欠損、心神喪失などである。もう少し軽いものは別の組織やチームが対応している。これでも前時代よりはかなり件数が少なく、世界はよい方に向かっていると言える。
前時代は主に左寄りの国家やその名残の国家で、国や組織ぐるみの非人道的な施設がよく運営されていた。
数百数千の子供の放置や治験者が出てくることが普通にあったのだ。先進的に見える国家でもそういうことは多い。そこに置かれた子供はほとんどが短命か既に死亡。
その少し前の時代はどんな主義でもそういう状況が当たり前にあった。現時代、それなりに発展した地域では、よっぽど偏った国でなければまずそんなものはない。少なくとも組織立ってそんなことはできない。
VEGAはその後始処理もしていたのだ。
ランスアが、
「それが目的だったのか?何様のつもりだ?人を勝手に憐れんでるのか?どうせ侵入者のくせに。偽善の塊どもが。」
など何か独り言のように罵っているが、チコは全く動揺せずにその言葉を聞く。
「この野郎!!」
と、ランスアはそれからもう一度斜めになったテーブルを蹴り上げてひっくり返した。
強化ガラスだったがそれでも天板が割れ、ガジャーンと音が響く。
細かい蜘蛛の巣状に砕けたガラスとコーヒーで室内はひどいことになっているが、チコもアセンブルスも動じないので、ランスアはよけいに腹が立った。
人生でこんなことは初めてだった。
「クソ。殺してやる。あのクソ。」
ランスアは天板がなくなったテーブルのステンレスフレームを壁に投げつける。
ドガンと音がして壁が凹んだ。
それから「ブチ殺してやる」などブツブツ言いながら床に散らばるガラスの中から、粉々にひびが入っても砕けきっていない大きな破片を握った。
それを掴んでチコの足元横に投げつける。
「くそっ。」
安全ガラスでも、握った手から血が滴っていた。
そしてまたガラスを掴もうとするが、床に散っているためうまく掴めない。しばらくぶつくさ言いながら、大きな塊をまた掴もうとした時だった。
初めてチコが席から立ち、ランスアの手首を握ってそれを止めた。
「…?」
ここに来た時と違って亡霊のような目をして、振り向く。
まるでチコがそこにずっといたと、生きている人間がここにいたと知らなかったような顔をして。
そしてしばらく呆然として、その後その場に嘔吐した。




