21 ないから
少しだけ月夜に更けてきた、まどろみの時間。
スーとシリウスの本体が目を覚まし、黒い瞳が世界を映す。
「…………」
SR社の自室の大きなベッドに仰向けになったまま、シリウスはスリープを解除した。窓を見ると、カーテンから薄っすら漏れる光はもう赤と闇の狭間だ。
しばらくそのまま天井を眺める。
先までの騒ぎが噓のように誰の声もしない。
人の腕をギュッと抱き寄せたその感覚が…錯覚なのかもしれないが腕に残る。
静かな部屋を頭だけ動かして眺めてみるが、誰もいない。周辺の監視カメラも行きする警備員やスピカしか映っていない。ただの部屋だ。
壁に掛かったカレンダーを見て、上半身だけスッと起こすと、ベッドに広がった長い黒髪がサラッとまとまった。
シリウスの中でだけ聴こえる、するはずのない静かな機械音がする。
これが赤い血の通う脈の流れと心拍音だったらよかったのに。
それともいっそうのこと、カチャカチャ、スーと動く合金丸出しのロボット?
何も映さない瞳は、そのカレンダーにいくつか並ぶ赤丸だけを見ていた。
***
「妻?望みは奥さんで?」
聞き返す余裕ができたチコが確認する。
「っはい。」
タイイーは慌てて答えた。
想像していた以上に可憐な、チコのイエロープラチナブロンドとぱっちりした目が現れて、ガーナイト側が一瞬動揺している。
静まり返った談話室に何とも言えない空気が漂った。
「あの、タイイー議長。」
「はい。」
「何も、見知らぬ女性と結婚しなくとも…。」
「……なので…、お会いしてお話をしたいのです。」
順序をすっぽかしているわけではない。ひとまず会いたいと言うだけだ。
「彼女は未婚だと聞いていたのですが、決められた方が?それともお独りで過ごされるのですか?」
「あ、いや………そこまで知らないですが…。」
下手に背後に人手があるより、独り身の方が自由であり小回りが利く。他に拘束されない勢力、という印象のために『朱』は未婚ということになっていた。
「もしかしてもうご結婚などされて?土着信仰から改宗した正道教徒と聞いたのですが。」
正道教は基本婚前交渉はしない。
「いえ……。ただ…、我々もあまり彼女の状況を知らなくて………。」
「…………」
エリスが答え、サダルは黙って聞いている。
「あの!」
チコは乗り出す。今日一番の活発さである。
「はい。」
「彼女は三角関数も分からなかったようですが………大丈夫で?」
「三角関数?」
「数字が苦手なようで……三角数も………矩形数も……。」
皆でさんざん教えても無駄であった。
「………」
「数に弱くては、大きな仕事ができないかと。」
「なるほど。」
「民衆の上に立つというより、感覚で生きているので裏で得意なことで動くタイプですし………」
「……そうなのですか。アジアラインは高校や大学に通っていない者もそれなりにいます。私の兄の一人は高校も卒業できなかったのですが、戦術には長けていました。
彼女には精神的部分でガーナイトの象徴として立ってほしいのです。」
ガーナイトの半分は商行や軍事関係の人間なので、『朱』の存在は知られている。
「巫女様のような方で、他にそのような存在になれる者が思い浮かばず………。ガーナイトだけで固まると、北メンカルの理念を生活の範囲では越えられません。
それで外国の成人女性を探すと…『朱』しかいないかと。」
その『朱』が巫女様なのですが………と、
今言っていいのかどうなのか。アリオトたちも困っている。
実はムギが以前心拍停止をした時点で、ガーナイトには『リン・ハー』が本名ムギという少女だということは打ち明けた。メンカルの留学生や研究生も来るのでこれ以上隠すことはできないし、条約締結阻止ができた今、ユラスや東アジア関係者であることはもう伏せなくてよいのだ。
だが、『朱』に関してガーナイトには、これまでアリオトやベガス側からは話に出していない。手駒はとっておきたいからだ。
一般的に『朱』は20代後半の女性で、長い黒髪。背は170を超えるという設定になっている。
かなり盛っているが、身長の部分はムギの理想である。そんくらいにしといて、と言われた。
「彼女に果たすべき仕事が残っているなら、まだ表の世界で生きるには難しい事情があるかとは思います。
それでもお話は繋げてほしいし、我々もまだ潜伏時代を乗り越えられたわけではないので、基盤が整うまで姿を現さなくとも問題はありません。地下活動をしているメンバーがたくさんいます。」
「………。」
動揺しまくりのチコがそわそわしているのでサダルが軽くチコの手を叩くが、落ち着けというのが理解できていないらしい。
チコとしてはこの前まで中学なので無理です。と言ってしまいたい。断るにしても、ムギに一度話を通すべきことであろう。
「アリオト氏。どうしますか?」
エリスが尋ね、チコもその答えに聴き入る。
「……我々から一度話してみます。ただ、いい返事がもらえる保証はありません。派手な動きはしたくないでしょうし。」
少しチコはホッとした。
「いつまでに返事は頂けそうで?」
こういうことは早い方がいい。
「1、2週間…。すぐに連絡が取れるようなら今週の頭には……。」
今日の夜にでも取れるであろう。なにせ近所にいる。下手したら、そこらでご飯中だ。
「では、よろしくお願いいたします。」
密林の王族という感じのタイイーは柔らかく笑った。
***
その頃、地下の男ジャミナイも連れ出し、大房のレストランに入っていたファクトとムギとリゲル。
「ふーん。大房ってこういうところなんだ…。」
帽子を深く被ったままのムギがあっちこっち見ている。この前一度来たが、その時は街まで見ていなかった。
大房の中でも、健全そうなお店を選んで注文をした男性陣。
花子さんとの会話で誰よりも堂々としていたのは気になるが、なるべくファミリータイプの店にした。
男たちは知らないが、ムギは様々な道中で、戦場や貧困地域でひどい虐待にあった女性や子供たちの救出活動を手伝っていたことがある。人として魂まで捨ててしまったような性犯罪も多々見て来た。そんな中には数年経っても心を開かない子たちもいるし、体に病気や障害を負ったままの子もいる。
人間だけでなく、動物も被害者だった。
全てが天道どころか、人道すら外れていたのだ。
道中一緒だった大人に混ざって、大人や男性に怯える子供たちを安心させたり、アジアラインの一部の地域では言語が違っても手文字で取引をする文化があったので、救出されてから簡単な手通訳もした。ムギは先進国の一般学生が知らないような幼少期を辿って来たのだ。
「ムギ、あんな風に言われて大丈夫だった?」
バカバカ言われてファクトとしては心配だ。ムギもファクトにバカバカ言うが。
「大丈夫だよ?」
もう大人なのだ。あんなシリウスの煽りに誰が乗るものか、とムギは平然とすることにした。
「あ、お姉さん。カプチーノ下さい。」
「やめなよ。ココアにしなよ。また寝れないよ。」
「子ども扱いしないで。」
「せめてコーヒーミルクにしたら?」
「ほっといて!」
そして、カプチーノが来たら砂糖を3つも入れている。見るだけで胸焼けがするリゲルやジャミナイ。
「う…。」
「なんだ?お兄さんたちも甘いの好きそうな顔をしてるのに。たったの3個だろ?」
ジャミナイを見て言っていっているが、ムギもバグっているのか。どう考えてもこの2人は渋いを通り越してゴツい、ンスイートな顔をしている。
「そう言えば、最近ラスは……?」
ジャミナイが気になっていたことを聞いた。
ラスはファクトとリゲルの蟹目時代からの幼馴染だ。あまり大房には来なかったが、ジャミナイとは小さい頃から交流がある。
「………さあ。なんであそこまで怒るのか分からなくて…。」
ファクトは下を向いてしまう。
「……それにしてもファクト。かわいい彼女ができてよかったな。」
「ブっ!」
「ふげッ!」
同時に吹き出すムギとファクト。
「違う!」
「この子高校生なんだけど?」
「お前も高校生だろ?」
「え?俺、大学生だよ。普通に高校終わって。」
「マジか!この前まで小学生だったのに!!」
驚きのジャミナイ。しかしそこじゃない。
「まあいいだろ。ファクトを貰ってやってくれ。こいつ、百推しくらいされたらあのアンドロイドに持って行かれそうだ。守護神になってやってくれ。」
「はあ?」
リゲルも含め、三人が「はい?」という顔をする。
「……あの、ジャミナイ。それムギに言うのはやめてほしいだけど。リアル過ぎて……。」
「…っ?」
ムギがギョッとする。リアル?
何せ最近いつも横にいるし、ムギとの距離はリアルに感じる。
「で、こいつどう思う。まあ、悪くはないだろう………」
と少し考えて、敢えて言う。
「カッコいくていい奴だろ。多少親目線が入っているが。」
「はあ?ファクトが??」
赤くなるムギ。ぶんぶん横に首を振る。
「というか、ジャミナイさんって逮捕歴が凄そうなのにすごくまともな人なんですね。」
そこに感心する。こんな弟分たちの将来を心配してあげるなんて。
いやいやとリゲルは思う。ジャミナイは存在自体が合法ギリギリである。ピアスだらけ。オレンジに緑の逆モヒカンというところで既にいろいろおかしい。子供の前に出るべきでない風貌が、子供相手に気を使っているだけである。
「変なのに好かれるから監視のできる人に貰ってほしい。」
「……ないから。」
ムギは真っ赤な顔でそう言った。




