115 人が積んだもの
※残酷な表現、性犯罪などの記述があります。苦手な方はお避け下さい。
「ランスアも時々河漢の講義に聞いてるから分かるかな?」
「……。」
半分死んだようにランスアはメレナを見る。
「今までの人間が構築したものに、
永久的に残るものも半永久的に残るものもほとんどないよ…。」
「………」
「ランスアは今の世界を残したい?」
「…………」
返事はしないがそんなわけがない。
「でしょ?神様も同じ。ランスアが苦しんできた記憶も、そうさせたものも、何も残したくない。こんな苦しみはいらないから……。」
「………。」
「だからいつか、この世界は一新される。人が自らこの世界の我執を手放した時に。
神ではなく、人によって。」
「?」
彼女も何の話だろ?と聞き入り、3人は通路の先にあったワークスペースの椅子に座った。メレナがドリンクを入れてくれる。
「ランスア。少し真面目に答えてちょうだい。
あなたは病気を治し、その時の悪を一掃し、魔法のような奇跡ができる人間を崇める?
それとも人間性が成熟し、自分を顧みることができ、他者を尊重できるような人間を尊敬する?」
「………普通に後者でしょ。」
前者なら感謝はするが、尊敬し敬えるかは別の話だ。
「そう。もう答えはそれだけ。
神は人間が成熟するのを待っている。前者は人間の肉の部分でしかないから。
神は人に理性や理知を求めている。
本当は最初の願いもそれだった。けれど、もう歴史は出発してしまったから。時を止めておくことはできないでしょ?人や万象の肉体的成長も。
人間が神の似姿に成熟しきれなかったから、当時の帝国を動かすために、ヴェネレの民を動かすために、新約の出発に救い主は奇跡を併用せざる負えなかった…。
でも、本当は、人は実践と言葉で自身で考え、天の言葉に学び、自身の内心を高めるべきだったの。それが理性と共にあるべき人間の姿だったから。」
けれど、天の言葉を聞けないので。病気を治したり不思議なことを行ったのだ。奇跡の業よって人が神の話に振り向いてくれるように。それは二次的な物で、本来、神がしたかった本質的なことことではない。
「メシアがしたかったのは、魔法で世界をキラキラ変えることではない。不思議な力に惹かれてついてくる人間でもないでしょ?
精神性を切り替え、人そのものが自立し、人と万象を愛せる心を持つように成長させたかった。
だからメシアは本来ならヴェネレ人とそんな教育を起こし、そんな国を興したかった。」
ヴェネレ人は聖典の中心民族だ。
ランスアは鼻で笑う。
「そんなの弱肉強食で、民主主義もない時代にすぐ滅びるだけっしょ?バカバカしい。」
「だから、聖典の選民は時代ごとの最強国家の隣りか内部にいるじゃない。内政にも入り込んでいる。属国とかね。」
「……」
そうだっけ?とランスアは思い出そうとする。
確かに、ヴェネレの兄弟民族は当時最強で最先端の王国や帝国の中にいた。未来の思想を討議できる中心の国とも共にいたのだ。
「それに、ヴェネレにもそれを成す力はあった。もともとはヴェネレそのものが世界の頂点に立つはずだったから。」
ヴェネレやその兄弟たちは、元々彼ら自身の中に王族を持ち、大陸を越える英知を誇っていたのだ。けれどいつしか奢り身内擁護になり、最初の神の願いを忘れてしまった。
「……。」
「ただ、ランスアも言ったように、『人間には選択肢がある』から失敗もする。誰もが平和に暮らすことを望んでない世界から出発したからおかしなことになっているでしょ?」
「どういうこと?」
彼女が聞く。
「最初の堕落の時点で、人は真っ直ぐに物事を考える英知や精神性を失ったの。だから、感情に負ける。『最善の選択を想像もしない』世の中になったという事。」
「分かるような、分からないような……。」
「おいおいわかるでしょう。
けれど誰にも責任はある。時代時代ごとの。
今の時代だと、人間には最先端の民主主義と聖典を守る義務や責任がある。知っていようが知らなかろうが。それが私たちがバトンを受け取った世界であり、後世の人間の住む世界に繋がっていくから。」
「人間が馬鹿で、もっと早く滅んでいたらよかったのにな。」
神がどう計画しようが、クソは滅べと思う。この世界と一緒に。そんな一言を、メレナは否定もしないし動揺しない。
「まあ、敵勢味方勢に限らず、何でも分離してしまうんだけどね。今の時代はまだ。」
今のままの人間に平和は作れないということだ。このままでは。
「でも、その中にも賢人たちはいたんだよ。相手の国家にもね。本来ならヴェネレは当時の政権中枢と話し合う時だったしそれもできた。時代が過ぎるにしたがって、民主主義の先端思想にヴェネレは寄り添っていたでしょ?」
それがヴェネレ人を世界の科学や経済を掌握する最先端民族に押し上げたのだ。ただ彼らは、歴史の表舞台そのものは他国に譲らざる負えなかった。
「……。」
ランスアの彼女は生活習慣的正道教信徒なので、なんとなく歴史やその背景観は分かるのが、まだ理解が難しいのか、頭の中で一生懸命話を追う。
「正道教とユラス教って似てるんですね。」
「ユラスは実質的な生活文化はヴェネレ教の方が近いけどね。内面が似ているのかな。ここに来ているユラス人はほとんど正道教改宗者だよ。」
「…え?そうなんですか?」
正道教とユラス教の違いは、正道教は旧新教を通過しているので、『愛と犠牲』が中心にあることだ。『神の下の平等』を基本にしている。
ここが決定的に違う。
メレナはまとめる。
「メシアの持つ思想は、メシアの最初の一点において人が英知を取り戻し、家族観を取り戻し、最終的に人間一人一人が成熟し小さな愛を抱えられるようになることだよ。」
「……。」
二人はメレナを見たまま一息つく。
メレナはコーヒーを飲んで窓を見た後、またランスアを見た。
「自分が生きてみれば分かると思うけれど、世の中の問題も家族の問題も、簡単に解決できないほど難しい。それが何億何兆の糸で絡んでいるから、時間を掛けて全部ほどいていかないといけない……」
メレナがデバイスの投影をオンにしたままなので、その絡んだ糸が空間に映っている。
「あまりにも絡んでいて……時に切ってしまうしかないものもある…。」
何かの重要な糸が一つ切れ、その後にザバザバと大量の糸が切れていき…権力や権威の糸も切れて…絡まった塊は燃やされ………最後にはシンプルな物がいつくか残った。
「新約はここから始まるしかなかったの。」
そして、輝いてはいるが、地の権威を失った弱々しい糸がまた出発する。小さな光を発しながら。
「でも、それもうまくいかなくてもっともっと大きな糸だまりになる………」
人は理知を理解できないまま、また人口だけが拡大し、そして大量に死に至り、また糸は絡まりを抱えきれなくなって爆発する………。
けれど、残ったその糸は細々と、それでも強く伸びる。
周りには愚者も大量にいたが、よく見るときれいな糸を貫くいくつかの命もあり、人口に相対してその絶対数も増えていた。
様々な糸があり、誰にこの糸を絡まらせた責任があるのか、誰が糸をほどけるのかももう分からない。
そうして醜い糸もきれいな糸もまた増えていく。時に入れ替わり、時に断絶して……
時に切れそうな糸を他の糸が補正もしている。
それが億どころではない。何兆もあるのだ。
そしてメレナは言った。
「神は唯一、私たちに選択肢を与えた。
人間を神と対等の存在にしたかったから。全ての人に。」
本当の天国とはどこだろうか。
「今ある世界は、神と人の苦しみの世界でしょ?
それはある人にとっては栄光でも、ある人にとっては苦しみでしかない。」
ランスアが目を覆う。
「だから神は……最終的には全ての人間がそれまでに付けて生きた脂肪や肉をそぎ落として、骨格さえそぎ落として、その核が残ったところから世界を始めたい……。
余分な肉や脂肪を付け過ぎた誰もが、一度きれいな核に戻る。そう思っているの。」
聞く分には残酷な話だ。これこそ、芸術家などは絶対に嫌な話であろう。
削ぎ落す………つまり、芸術すら永遠ではない。
何層にも重なって一見分からないが、今の文化は罪の上に作られたものだから。
誰かの悲しみがしみ込んでいる。
神はそれに耐えられない。
でも、人はあまりにあれこれ付け過ぎて、本来人間に備わった元々の皮膚の美しささえ見失っているから。
これは、神の観念を理解していないと分かりにくい。
神は人の命と心以上に大切なものは作らなかったからだ。それ以上の物はなかったから。
宇宙さえ、人のために作ったのだ。
人の生命の上に来るものはない。




