二十七冊目<空き家の多い島>
小鳥が鳴いている。もうすぐ春なのかしら。それにしては少し寒い。特にひざ辺りが……
「幸子さん、膝掛けが落ちていますよ」
「あら、ありがとう。えっと、前に会ったかしら?」
「毎日会っていますよ。3月ですけど、まだ寒いので、そろそろ中に戻りましょうね」
「ごめんなさいね。最近物忘れが激しくて……」
「大丈夫ですよ」
青い服を着た、親切な1つ結びの若い女性は、車椅子を押してくれた。
「幸子さん、お食事ですよ」
似たような顔が並ぶテーブルに、お盆に乗せられたみんなと同じ食事が置かれた。「おいしそうねえ」と透明な板越しにシワシワの顔の女性が話しかけてきた。顔見知りだったかしら。「ええ」と言いながら会釈をすると、さらにシワシワになった。
食事の味は少し薄かった。煮物も色が薄い。私なら、もっとしっかり味を染み込ませるのにと思いつつ、全て平らげた。煮物の他に何を食べたかは覚えていないけど。
食事の後は、テレビを見て過ごした。面白いわけじゃないけど、他にやることもない。テレビは、眺めているだけで時間の経過を忘れてしまう。今度はおやつの時間ですって。
「幸子さんどうぞ」
おしぼりの後に、テーブルに置かれた2枚のペラペラ。「おいしそうねえ」と、また前に座る女性が言ってきた。そうかしらと思ったけれど「そうねえ」と答えた。
「ねえ、これは何かしら?」
流石に何かわからないものは口にはできない。
「今日はお煎餅ですよ。塩煎餅です」
「海苔はついていないのかしら?」
「醤油味じゃないので、ついていないのだと思いますよ」
「そう」
青い服を着た若い女性は、丁寧に教えてくれた。そういえば、周りで忙しなく動き回っている人たちはみんな、同じ服を着ているわね。
塩煎餅は、優しい塩の味で、口に入れた途端に溶けてしまうほど柔らかかった。煎餅だから、もっと歯応えのあるものだと思っていたのに。前に座るシワシワは、煎餅を口に入れたり、出したりして美味しかったと、皿を横によけた。シワシワは、塩だけ食べたようだった。青い服の女性は、困った顔を浮かべてシワシワに話しかけたが、目を閉じて、寝ているのか、声は聞こえていないみたいだった。
「幸子さん、お食事ですよ」
「あら? さっき食べたわよ?」
「これは夕食ですよ」
「そう」
お盆に乗せられた白いご飯と、黄色いスープ、茶色の塊には赤い液体がかかっていて、隣には葉っぱが添えられている。訝しげな顔を浮かべていることに気がついたのか、青い服の男性が、近くに来て、
「これがご飯、これがコーンスープ、真ん中のがハンバーグですよ。添えがキャベツですよ。今日は洋食ですね」
「はんばーぐにのっている、この赤いのは何かしら?」
「ケチャップですよ。トマトからできていて、ハンバーグにかけると、より美味しくなるんですよ」
「そうなの? じゃあ、食べてみようかしら」
噛んだ途端、口の中で崩れていくはんばーぐ。けちゃっぷの酸味とよく合う。
「美味しいわ」
そう言って、何気なく前を向いた。透明な板の向こうに、いつも誰かいた気がしていたから。しかし、そこには誰もいなかった。
寝る場所は、1人部屋。ベットと、小さな机、狭い洗面所があるだけ。照明もそこまで明るくない。
しかし、ここで眠る以外、選択肢はない。青い服の男性に眠るように促され、ベットに横になる。
「おやすみなさい、幸子さん」
そういえば、今日1日、私は「幸子」と呼ばれていたわね。私は、幸子って名前なのね。
眠りについたはずだが、寝た心地がしなくて目を覚ました。すると、眠っていた体は状態を起こし、見知らぬ部屋の真ん中で、見知らぬ椅子に座っていた。目の前には、青いドレスを着ている少女が微笑んでいる。
「やあ。自分が誰かわかるかね?」
「私? 私は、幸子って言うのよ」
「苗字は?」
「苗字? えーと……ごめんなさいねえ。忘れてしまったわ」
名前があるのなら、苗字もあるのかもしれないけれど、誰も呼ばなかったからわからない。ということは、私は自分の名前を忘れてしまったことになるわ。どうしてかしら。
「君の名前は、芥子幸子というんだ。今年で85歳を迎える。髪の色は白。瞳の色は漆黒。丸いメガネをかけている。笑うと、目尻に皺ができる。おしゃべりが好きで、人はもちろん、動物や植物にも話しかけるほどだ。どうだ?少しは思い出したか?」
「うーん……よく分からないわねえ。あなたの言う、芥子幸子は、本当に私のことなの?」
「ああ。君が、頭の奥深くに仕舞い込み、鍵をかけた記憶のほんの一部だがな」
面白い子だと思った。幼さの残る赤い瞳は、大人びた口調とは裏腹に、私に何かを訴えようと必死になっているように見えた。私が仕舞い込んだ記憶。芥子幸子という名前。何もかもが、私のものではない気がしてならないのに、私のものであると思わずにはいられな気もするのだ。
「ねえ。あなたの名前は? 前にどこかで会ったかしら?」
「私は葉月史乃。伝承者だ。会うのは初めてだよ」
「史乃……さん? ちゃん? うーん……史乃ちゃんの方がぴったりだわ。ねえ、史乃ちゃん。頭がふわふわするの。あなたの言っていることが、嘘だとは思えなくてねえ。でも、知らないことばかりで。私はどうしたらいいかしら?」
史乃ちゃんは、困ったように笑顔浮かべ、肩をすくめた。
「私にもわからないな。だが、君に、仕舞い込んだ記憶を思い出してほしいと思っているよ」
「そう。史乃ちゃん。私のことを、もっと教えてくれないかしら? 話をしていれば、思い出すかもしれないわ」
「わかった。そうだな。君は、安騎島という島から今住んでいる町にやってきたんだ。今の安騎島は、人がほとんど住んでいないんだ。でも、綺麗な空き家がたくさんあるんだ。家の前には像が並んでいて、それを守るように立派な門が建っている。なぜだと思う?」
「それは……」
安騎島。像。なぜかしら。聞いたことがある。とても大切なことだった気がする。
「安騎島にある像は、生身の人間からできているそうだ。現在あるものもそうかは知らないが」
話しながら、史乃ちゃんは、線香を片手いっぱいに持ち、黒い入れ物に入れると火をつけた。甘い香りが煙に乗って充満していった。懐かしい香りだ。懐かしい?
「ねえ史乃ちゃん。その線香は、どこで買ったの?」
「これは、安騎島の名産品だったお線香だ。君が作っていたものだよ。ほらここに」
線香の箱の表を指差したところには『芥子堂』と書かれていた。私の苗字だと言われたもの同じだ。
「今はない店だし、安騎島自体に人がいないからね。観光地としては、海が綺麗だと訪れる人もいるみたいだよ」
知らないはずのお線香。安騎島。芥子堂。甘い香り。像。全てが点で、なかなか線を結んではくれない。だが、明らかな間違いを私は知っている。
「史乃ちゃん。安騎島の水は綺麗ではないのよ。見るのも嫌なくらい、濁って、醜い色をしているの」
「え……?」
史乃ちゃんは、目を見開き、瞬きもせずに私を見つめた。
「君、記憶が戻ったのか?」
「分からないわ。でも、海の色だけはハッキリと覚えているのよ」
「そうか。なら、続きを聞いてもらえるだろうか?」
「ええ」
「昔、安騎島の人間が、生きたまま像にされたんだ。初めは罪人の処刑として行なっていたことだったが、安騎島の有力者が、それをとても気に入ってしまってな。もっと欲しいと思って、無差別に人々を像にしていってしまったんだ。島の住民が半分くらい減った時、海が濁っていったそうだ。君の言うとおりの色にな。さらに、草木や畑の野菜などの植物が枯れ果て、とても住める環境ではなくなったそうだ。その時、有力者は、島を離れようとした。しかし、出ようと、船に乗ろうとした瞬間、体中が見えない何かで串刺しにされたらしい。人の形を留めていないそいつの亡骸は、弔われることなく、海の中に沈んでいったらしい」
そうだ。アイツがいたせいだ。ああ。私はー。
「史乃ちゃん。私は、芥子幸子。安騎島の唯一の生き残りよ」
「記憶が……!」
「ええ。ありがとう。全て思い出したわ。あの日、アイツが死んで、海は色を取り戻したわ。でも、植物はもとに戻らなかった。それにね、これはアイツによって奪われた命たちの復讐だったのよ。体はないけど、心が魂がそこにはあったの。それが、刃のようなものとなったのでしょうね。私の両親も含まれていたと思うわ。私と残った10人の住民で、像をその人が住んでいた家において、かかすことなく、家を綺麗にしていたわ。まるで誰かが住んでいるかのように。私、こんなになっちゃったから、もう安騎島の家は廃れてしまったわよね?」
「いや。観光地として整備されている。だが、なぜ空き家を綺麗に保ち、像がたくさんあるのかは知らないよ」
「そう。悪いことをしてしまったわ。私以外の人たちが亡くなっていって、しっかりしないとって思っていたのに……」
あの像たちを家に置いたのも、空き家を綺麗にしていたのも、供養のためだった。私が1人きりになっても、住む人が増えたらなんとかなるって、頑張って……。でも、倒れてしまったんだ。それからどうしたかは分からない。気がついたら80歳を過ぎたおばあちゃんになっていたんだもの。今更できることなんてない。
「芥子幸子。私は、君が1人でも頑張っていたから、今も理由はどうあれ、空き家が綺麗に保たれているのだと思うぞ。君のしてきたことは、意味のあったことだよ」
口を固く結び、溢れそうになる水を必死に食い止める。
「ありがとう」
これが精一杯の言葉だった。俯く先にあるのは、シワシワの手だけ。
「落ち着いたか?」
どれくらい経ったかは、時計がないので分からないけれど、5分くらいは経ってしまったように思えた。
「ええ。ごめんなさいね。退屈だったでしょう?」
「いいや。そんなことはない。気にするな」
「そう。ありがとうね」
「礼を言われるようなことはなにも。それより、記憶の戻った君に、やって欲しいことがある」
「こんな年寄りに何ができるかしら?」
「講演会だ。君には、安騎島での出来事を、町の人々に演説してもらいたい。そして、安騎島の空き家を、これからも綺麗に守っていってほしいと伝えてくれ。これは、安騎島の生き残りである君にしかできないことだ。頼めないだろうか?」
確かに、空き家や像の本当の意味を知って欲しいし、これからも守っていってほしい。だが、人前でうまく話せるだろうか。
「他にも方法はないの? ちょっと人前で話すのは……」
「ないぞ。君の持つ記憶こそが価値のあるものなのだ。誰も君の記憶を除くことも取り出すこともできない。ならば、君自身が伝えていくしかないだろう」
史乃ちゃんは正しい。でも、自信がない。どうしたらいいのかもわからない。情けない。しっかりするどころか、どうしたらいいのか分からないなんて。
「史乃ちゃ……」
「まあ、こんなこともあろうかと、こんなものを用意したぞ」
「え?」
自慢げにカウンターの上に1枚の紙を出してきた。
「これって、スケジュール?」
「そうだ。君にこれから行ってもらう講演会の時間と会場がかいてある。施設の人にも了解を得ている。君の体力も一応は考慮したつもりだが、無理のない範囲で行ってほしい。長く、多く講演会を行ってくれると私としてはありがたいのだがな」
講演会のスケジュールは1週間に2回もしくは1回。多くの人に伝えてほしいはずなのに、思っていたよりのんびりしたスケジュールだと思った。私のことを想ってのことだろう。史乃ちゃんの口調と表情が一致しないのは、きっと見間違いね。
「分かったわ。ここまでお膳立てされたらやるしかないわね。どこまでできるか分からないけれど、やってみるわ。ありがとう」
「こちらこそ礼を言う。ありがとう。無理せず頑張ってくれ」
「ふふふ。無理しろって言っているのに不思議ね。嫌じゃないわ。いつもぼんやりとただ生きているだけだったから、生き甲斐ができてよかったわ」
史乃ちゃんは苦笑いした。
私は、朝の光で目を覚ますと、握りしめた紙を開いた。
「講演会……そうだわ。えーと……誰かと約束したのよね。安騎島のことを伝えるって。今日だわ。行かないと
「幸子さん、おはようございます。今日は講演会初日ですね」
「おはようございます。緊張するけど、がんばるわ。桜井さんも聞きに来てくれるかしら?」
「私の名前……。はい。もちろんです。必ず聞きに行きますね」
「ありがとう」
「じゃあ、朝ごはんを食べに移動しましょうか」
「ええ。お願いね」
桜井さんの手を借りて車いすに乗ると、食事を食べるテーブルまで移動した。テーブルには透明な板がテーブル1つにつき1枚置いてある。
「ねえ、私のお向かいさんは、最近見かけないけど……」
「あー……大江さんは、別の施設に移ることになったんです。だから、しばらくは、お1人でのお食事になりますね。寂しいですよね」
「そうね」
妙な間。きっと、大江さんは亡くなったんだわ。私に気を使ってくれたのね。優しい人。大江さんと1度くらい、きちんと話せればよかったと少しだけ後悔した。
講演会の会場は、町の公民館だった。誰も来ていないと思っていたけれど、体育館は満員に近いくらい人がいた。
「芥子さん、時間になりましたので、お願いします」
「はい」
車椅子を両手で操りながら登壇する。拍手の音色が、耳に心地いい。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。私は安騎島から来ました、芥子幸子と申します。どうぞ最後まで、聞いてください。よろしくお願いします」
スピーカーから聞こえる緊張で震えた声。私の声ではないみたい。
「それではー」
私のステージが今日から始まる。認知症で半分しかなかった名前。存在。見ていてね。約束を交わした女の子。芥子幸子として、立派に伝えて見せるから。




