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見えざる館の伝承者    作者: 花咲マーチ
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二十六冊目<陽だまりの中で>

紫杏(しあん)ー。朝だよー」

 日当たりのいい土地に建つ2階建ての我が家。イヌマキが目隠しの役割を果たしていて、家の中も庭も外からは見えないようになっている。プライバシーを守るためだ。

 私の朝の楽しみは、2階にある子供部屋に娘の紫杏を起こしに行くことである。

「ほら、もう朝だよ。早く起きないと、三つ編みしてあげないよ?」

 カーテンを全開にすると、暖かな日差しが、紫杏を包み込んだ。そこだけ、協会の祭壇のようだった。

「んー……おはよう……ママ……」

 まだ頭の半分しか起きていない状態で体を起こすと、両目をこすり、大きなあくびをした。

「紫杏。ママお仕事いかないといけないから、早く支度して。じゃないと、そのままの髪で行くことになるよ?」

 髪型に凝っている紫杏は、最近三つ編みがお気に入りだ。だから、寝ぐせの付いた髪のままというのは、紫杏にとっては嫌なこと。半ば、脅しのような言葉をかけると、瞳が零れ落ちそうなほど開き、ベッドから飛び降りた。

「待って待って! すぐ着替えるから!」

「はいはい。キッチンで待ってるよ」

「うん!」

 小学1年生だというのに、まだ幼稚園に通っている感覚になる。紫杏はまだ幼いままなのかもしれない。


 5分も経たないうちに、紫杏はバタバタと大きな音を立てて階段を駆け下りてきた。お気に入りの猫の靴下も履いているのだから、滑ったら大惨事だ。

「ママ! 髪!」

 息を切らしている紫杏は、とても可愛らしく、愛おしかった。さすがは、彷徨(かなた)の残してくれた宝物だ。

「分かったよ。とりあえず椅子に座って。結んだら、すぐにご飯食べてね」

「はあーい」

 長い黒髪を2つに分け、三つ編みをしていく。髪質は彷徨に似て、とても美しい。結んでいるのに、すぐにほどけてしまいそうだ。

「はいできたよ」

「ありがとう。じゃあ、ご飯食べるね。いただきます」

「どうぞ。今日は、目玉焼きを焼いたのよ」

「嬉しい! ありがとう!」

「ふふふ。どういたしまして」

 紫杏の笑顔は元気になる。さて、今日も1日頑張りますか。


「いってらっしゃい」

 紫杏を玄関先で見送ると、近所に住む原野さんが声をかけてきた。

「安室さん、おはようございます」

「おはようございます。どうかされたんですか?」

「えーと……安室さん、シングルマザーで大変なのは分かるけど……」

 とても言いづらそうに原野さんは何かを言おうとしている。

「気になることがあるならおっしゃってください。町内会のことですか?」

「いえ。そうじゃなくてね。娘さんの髪。寝ぐせだらけで、可哀想じゃないです? せめてといてあげないと……」

「え? 毎日三つ編みにしていますけど?」

「あ……そ、そうね。あはは。見間違いみたい。ごめんなさいね。それじゃあ」

 原野さんは不思議なことを言ってきた。私が紫杏の髪をといていない?そんなはずはない。1日だって欠かしたことはない。彷徨との子供。彼が残した唯一の宝物。大切に育てているのだ。そんなこと、あるわけがない。


 安室彷徨(あむろかなた)。私の夫で、同い年の27歳。会社で知り合い意気投合。その後結婚した。それが20歳の時だった。まだ早いなんて言われたけれど、もう成人式も終わっていたし、彷徨以外あり得ないと思ったから、周りの声はすべて無視した。その後、私たちは紫杏を授かった。茶色の瞳は私に似て、黒く美しい髪は彷徨によく似ていた。二人の遺伝子が混ざり合った結晶だと思った。

 しかし、紫杏が3歳の頃。彷徨は自殺した。理由はわからない。2階のベランダから飛び降りたようで、庭で動かなくなって発見された。今も、彷徨の流した血痕が色を変えて残っている。私は悲しくて、苦しくて、どうすればいいかわからなかった。だが、私には紫杏を守る役目がある。彷徨が私にくれたセンスのないプレゼントである猫の形をしたヘアピンを毎日つけ、自分を鼓舞してきた。今年で彷徨が亡くなって3年になる。紫杏も立派に育った。彷徨、見てくれているかな。


 シングルマザーとしてやっていくために、私はダブルワークをしている。OLの仕事が終わり、次は居酒屋の仕事へ向かう。その前に少し仮眠をとるつもりで家に寄った。スマホでアラームを設定してソファに横になる。暖かな日差しが、私を眠りへと誘った。気が付いたころには、陽が沈んでいた。

「大変! 仕事まで30分じゃない!」

 慌てて化粧をして、寝ぐせを直す。そして、スマホを手に取った時、不在着信が何件もあることに気が付いた。

「え? 誰?」

 時間がないが、顔認証でロックを解除して着信履歴を確認する。すると、それは小学校からだった。

「なんだろう?」

 不審に思い電話をかけると、男の教師が電話に出た。

「もしもし? 電話をいただいた安室ですが……」

「紫杏ちゃんのお母さんですか? 今どちらに?」

「え? 家ですけど……」

「でしたら、鍵を開けてあげてください。自宅に帰ってもドアが開かないって言って、帰宅した紫杏ちゃんが学校に戻ってきたんです。今も連絡がつくまではと学校にいます。合鍵は作っていないんですか?」

「そうでしたか。すみません。うたた寝してしまったみたいで……。いつもはこんなことないので、合鍵は必要ありません。あの、鍵を開けておくので、紫杏を送ってもらえませんか? 今から仕事で……」

「……わかりました」

 不服そうな返事をした男性教師は、電話を一方的に切った。


 男性教師からの電話で、私の心は黒い黒煙が渦巻いているようにもやもやしていた。あきれたような乱暴な物言いは、私を虐待している親であると言っているようだった。こんなにも愛しているのに、気に入らない。

「紫ちゃん、どうしたの? 今日はご機嫌ななめだねぇ」

 白髪の髪を赤いバンダナで半分隠した、笑顔が素敵な男性が話しかけてきた。私が働く居酒屋の店長だ。

「店長、聞いてくださいよ。紫杏の通う学校の教師ったら、私を虐待している親みたいに扱うんです。酷いと思いませんか?」

「あ……そう……だね。失礼だなぁ、全く。ははは」

 店長はわざとらしく笑い、頭をかいた。返事に困ったのか。別に見知らぬ人間の悪口くらい、言ってもいいのに。店長はいい人だな。

「そろそろ上がっていいよ。紫杏ちゃんも帰りを待っているだろうし……」

「分かりました。では、お先です」

「お疲れ様」

 店長に一礼すると、居酒屋の制服を急いで脱いで私服になった。紫杏が待っている家に早く帰ろう。


「ただいま」

「おかえりなさい」

 家に着いたのは夜の10時。子供なら寝る時間だろうが、紫杏は私が帰るまで起きていてくれる。

「紫杏。話があるの。キッチンで話しましょう」

「うん……」

 向かい合わせに座ると、心のもやもやを発散するように、紫杏を怒鳴りつけた。

「あんたが余計な事するせいで、教師に変な目で見られたじゃない! 外で待っていればいいのに! 私がこんなに大変な思いをしているのに、足ばっかり引っ張って! あんたなんて……!」

 私は椅子から立ち上がり、紫杏の近くに行くと、思い切り頬を叩いた。紫杏は、人形のように、椅子から転げ落ちた。抵抗もしない。体を庇うこともしない。暴力をただ受け入れている。そんな姿も腹正しく、床に転がる紫杏(にんぎょう)を踏んだり、蹴ったりした。やがて、もやもやは晴れ、我に返ると、色を失った瞳の紫杏が倒れていた。酷いけがもしている。

「紫杏! 大丈夫? このけがはどうしたの?」

 呼びかけると、瞳の色は元に戻り、

「転んだの」

 と笑顔で言った。晴れたはずの心に、チクリと針が刺さったようなかすかな痛みを感じた。


 翌日、紫杏には学校を休んでもらった。私も仕事を休み、けがの手当てをしていた。あちこちがあざだらけで、丸い赤い痕もある。転んだにしては酷いけがだ。こんな状態では学校にいかせられない。もしかしたら、いじめにあっているのかもしれないし。

「紫杏。学校で何かあった?」

「ううん。何もないよ」

「じゃあ、何か欲しいものはある?」

「欲しいものはないよ。でもママとお買い物に行きたい」

「買い物か……」

 外はよく晴れていた。子供部屋に差し込む日差しも、とても暖かい。もし辛い思いをしているのなら、気分転換もいいかもしれない。

「分かったわ。でも、薄いカーディガンは羽織っていってね」

「うん」

 猫の刺繡の入った黄色のカーディガンを羽織らせ、あざを隠す。顔の腫れは、髪を下ろすことで隠した。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

 車まで手を引きながら行き、チャイルドシートに紫杏を乗せると、近くのスーパーマーケットまで、車を出した。


 スーパーマーケットは、ポイント10倍デーということで、たくさんの客が来ていた。駐車場もほぼ満車状態だった。新聞をとっていないため、全く知らなかった。

 なんとか車を駐車することができた。しかし、入り口から1番遠い場所だった。

「入り口まで遠いから、ママから離れないでね」

「うん」

 そう約束し、車から降りた。駐車場内は、止める場所を探す車がさまよい走っていた。車が途絶えた瞬間を見計らって、すばやく渡る。信号のない大通りの交差点を渡っているかのようだった。

 入り口が近づいてきた。後1つの大通りを渡れば、目的地だ。

「紫杏。もうすぐだから……紫杏?」

 振り返ると、付いてきていたはずの紫杏はいなくなっていた。まだ渡れていないのかと思ったが、大通りの向こうには誰もいなかった。いつはぐれたのかもわからない。頭の中がパニックになる。

「紫杏! 紫杏!」

 返事はない。その時だった。大きな物音と、耳障りなブレーキ音。

「君、大丈夫か?!」

「誰か! 誰か救急車!」

「親はどこにいるの!?」

 大通りの車たちは、時が止まったように動かなくなった。私はその間に、音のしたところへ向かった。

「紫杏……」

 大人たちに囲まれていたのは、頭から血を流し倒れている紫杏だった。

「どいてください! 紫杏! 紫杏!」

「お母さんですか? むやみ動かさないでください!」

「嫌! ねえ! ねえ!!」

 頭から流れる血は、止まることを知らず、水たまりを大きくしていく。紫杏の瞳は、肌の色は、庭で動かなくなった彷徨と同じ色をしていた。

 その後、病院に運ばれたが、紫杏は助からなかった。頭の打ち所が悪く、即死だったそうだ。私は、これからどうやって生きていけばいいのか。彷徨の残した宝物を失い、1人になった。私もいっそ、死んでしまえば楽なのだろうか。誰もいない暗い待合室で、そんなことを考えていると、私の視界が180度回転した。その後は、何も覚えていない。


「あれ……」

 頭を打ったようで、後頭部がズキズキと痛む。

「どこ? ここ」

 目覚めた私がいたのは、キッチンでも子供部屋でも、病院でもない。見知らぬ場所。本が中心にあるカウンターを囲むようにして本棚が配置された図書館のような場所。

「ようこそ。伝承者の館へ。初めましてだな、選ばれし者よ」

 古風な話し方をする全身紫色のコーディネートをした美少女が、カウンターに座っていた。長く伸びた美しい髪は、彷徨のものと似ていた。

「初めまして。とても可愛いお嬢さんね。名前は?」

「伝承者の葉月史乃(はづきしの)だ。今更取り繕う必要はないぞ、安室紫よ」

「取り繕う? 何をかしら?」

「ああ。そうだったな。君は、()()()()()()()()()()()。自分が本来はどんな人間なのか」

「どういうこと?」

 史乃は口角だけを上げて、憐れむような目で私を見た。

「君は、娘である紫杏など、大切ではないのだろう? 夫である彷徨もそうだ。君は自分が大好きでたまらない。だから、自分の障害となるものは排除してしまおうと考える、恐ろしい人間だ。暴力的だし、優しさなんてかけらもない。そのくせ、事が済んだときは、何も覚えていないのだから、都合がいいことこの上ない」

「黙って! あなたに何が分かるの!?」

 紫杏を失ったばかりの私には、聞きたくない言葉ばかりだった。私が紫杏を障害だと思っていた? 彷徨も? そんなはずない。悲しいと思う心も嘘ではない。

「紫杏を失って、私がどんな気持ちだったかわかる?! 悲しくて、苦しくて……明日を生きる気力すらないのよ! そんな私の気持ちが分かるっていうの?!」

「分かるさ。君は、本心では喜んでいる。だって、君、さっきから怒鳴っているくせに、笑っているではないか」

「そんなはず……」

 口元に手を当てると、微かに上がった口角がそこにはあった。なぜ私は笑っているのか。悲しいはずなのに、なぜ。

「笑っているだろう? 君は、本心を都合のいいように現実を捻じ曲げて過ごしているのだ。君の付けているヘアピンだって、本当は紫杏のものなのだろう? 君へのプレゼントではなく、紫杏へのプレゼントだった。君は、彷徨の愛情が紫杏へ向けられるのが嫌だったんだ。自分が1番じゃないと気が済まないんだ。だから君は彷徨をベランダから突き落とした。そして、無理やり紫杏からヘアピンを奪い取ると、形見だと言って毎日つけていたんだろう?」

「違う。違う違う違う! やめて! もうやめて……」

「いつもは食べてなくなるようなお菓子をプレゼントしていたくせに、3歳の誕生日には、紫杏の好きな猫のデザインをした物をプレゼントした。形に残るプレゼントは、耐えらえなかったのだろう?」

「違う!そんなんじゃ、そんなんじゃ、ない……」

 頭が痛い。見たこともない風景が、フラッシュバックする。あれ? 私……本当は……

「そうよ。全部私がやったの」

「はあ。やっと本当の君がお出ましか」

「本当もなにも、記憶の保管場所が違うだけよ。心は同じだもの。だから二重人格とは少し違う気がしているのよね」

「そうか。それで、私の言ったことはすべて事実なのか?」

「あら? 知っていたから言ったのかと思っていたわ。推測だったのなら、名探偵にでもなれるわね。そうよ。彷徨をベランダから突き落として殺したのも、紫杏に暴力を振るったのも私。だけど、こんな私を認めたくなくて、どこかに隠してしまいたくて、夢をみることにしたの。幸せな夢を。毎朝娘を起こして髪を結う。好きな髪形にしてあげて、見送る。どんなに仕事が忙しくても、娘を優先するシングルマザー。夫からもらった形見を大切にして、毎日頑張る母親。どう? 素敵じゃない?」

「しかし現実は、髪を結うことはおろか、とくこともしていないボサボサの髪に、皴だらけの制服。食事も満足に与えてもらっていないため、やせこけた手足に落ちくぼんだ瞳。君の夢とは程遠いな」

「そうなの。でも夢の中なら幸せよ」

「幸せなのは君だけだろう? 嫌なことから逃げているだけだ」

「そうかもね。でも私、自分が1番なの。彷徨にも1番に愛してほしかった。だからお菓子とかのプレゼントを勧めていたの。それなのに彷徨ったら、私に内緒でヘアピンなんて買ってくるんだもの。驚いたわ。紫杏も嬉しそうにつけて自慢してくるの。パパにもらったのって。この時思ったわ。彷徨の中で1番は紫杏になったんだって。だからあの日、部屋で言ったの。今でも私が1番よねって。でもね、紫杏が生まれたんだから、自分たちの愛情は紫杏に注ぐべきだって。耐えられなかった。こんなことなら、子供なんていらなかった。だから、1番に愛してくれない彷徨を殺したの。その後、嫌がる紫杏からヘアピンを奪い取って私のものにしたの。そして真実は奥深くに沈めて、偽りの幸せで塗り替えたの。紫杏ももう反抗してこない。ヘアピンを返してほしいともねだらない。目玉焼きって言って、おままごとのおもちゃでも喜んで食べるわ。きっと、紫杏も幸せな夢の中にいるのよ」

 毎日が幸せだった。周りの人たちは、時々私を異物をみるような目で見てきたけど。その時、奥底に閉じ込めたものが湧き上がりそうになる。でも知らないふりをした。そうしないと、夢が覚めてしまうから。

「でも、もうダメなのね。分からないふりができないもの。あなたにバレたせいかしら?」

「さあな。もう君の話はそれくらいにして、こちらの話を聞いてもらえるだろうか?」

「はあ。どうせ夢はおしまいだし、いいわよ」

 史乃は、疲れたかのように、ため息をつき、紅茶を一口飲んで話し始めた。

「昔、とても幸せな町があった。みんな笑顔で、住民たちも仲が良くて。しかし、そこへ旅をしている人が現れた。そしてこう言った。なぜ、幸せだと言われている町が、廃村のようなんだと。彼らも君と同じ。貧しい暮らしから目を背け、夢を見ていたのだ。本当は食べ物を取り合うような仲なのに、仲がいいと思ったり、綺麗な服に身を包み、不自由なく暮らしていると。旅人は持っていた鏡を住民に差し出して、現実を示した。住民たちの夢は覚め、幸せな町はなくなったという」

「ふーん」 

 興味なんてなかった。私と同じであったとしても、私のことじゃないのだから。きっとその町は、その日うちになくなっただろうし。

「君には、ここにある大きな鏡の中に、陽だまりの欠片を落としてもらいたい」

「陽だまりの欠片?何よそれ」

「言ってしまえば、旅人が持っていた鏡の破片だ。だが、この破片は、陽だまりの暖かさをどうやら閉じ込めたらしい。町が消えたのも、陽だまり照らす、暖かい日だったそうだからな」

「そんなことなら、あなたがやればいいじゃない。私は興味のない話を長々と聞かされて、嫌になっているの」

「君でないと、陽だまりの欠片は鏡の中へは入らないのだ。選ばれし者である君でないと、意味がないのだ」

 史乃から差し出された、淡いオレンジ色に輝く三角形の破片もとい欠片。手をかざせば、暖かそうだ。まるで、暖炉の炎のようだ。

「わかったわ」

 陽だまりの欠片を受け取ると、きた時にはなかったであろう、2メートルくらいの高さがありそうな大きな鏡に、陽だまりの欠片を押し当てた。すると、水面かと思うような波紋が広がり、欠片を飲み込んでいった。

「本当に不思議な所ね」

「まあな。よし、君の役目は終わりだ。帰ってもよいぞ」

「……」

 史乃は不思議そうな顔で私の顔を覗き込んだ。大きな赤い瞳は、紫杏から流れ出る血に似ていた。

「ねえ、このままここにいてはダメかしら?」

「どういうことだ?」

「だって、私が戻ったら、紫杏が死んだ現実を受け入れなければならないもの。自分がしてきたことを謝ることも悔いることもできないもの」

「ここにいたら夢の中に逃げている時と変わらない。君は夢から覚めた。変わるべきだよ。それこそが、贖罪になる」

「……そう。そうよね。私は変わらないといけないのよね」

「ああ。しかし、子育てとは大変なものだな。思うように育たなかったり、自分の時間が削られたり。それでも、可愛い瞬間があるのだろう?」

「子供がいないくせによく言うわ」

「まあな。だが、陽だまりはそういうところにつけこんでくるのだ」

「陽だまりが?」

「そうだ。陽だまりは、愛が足りないと感じている子供に、子供の望んでいるものを見せるのだ。そして子供はそこへ向かって行ってしまい、陽だまりに連れていかれてしまう。君の娘がそうだったようにな」

「紫杏も……?」

「ああ。君の娘は、何かを求めて足を進めた結果、車にひかれた。何を求めていたかは分からない。だが、私が思うに、君の背中だと思うけれどね」

 憎らしいと思っていた紫杏のはずなのに、胸が針山になった気分だった。しばらくの沈黙の後、私は重い腰を上げた。

「戻るわ。元の場所に……」

 乗り気ではなかったけれど、私はもう夢から覚めた。幸せな夢は終わりだ。いつかは終わると分かっていても目を背けたかった。

 椅子から立ち上がり、扉を開ける。目の前に広がる光が、私には眩しすぎた。


 気が付いた私は、喪服を着ていた。葬式の最中のようだ。紫杏との最後のお別れ。棺の中に眠る紫杏は、私が知っている紫杏ではなかった。いや、これが本当の紫杏というべきだろうか。

「ごめんね……」

 ぽろりと零れた言葉は、すすり泣く声にかき消されていった。


 1人になった私は何もする気になれなかった。洗い物もされていない皿にゴミ屋敷同然の部屋。暖かな日差しが、差し込むはずの窓は曇り、陽だまりを拒んでいるかのようだった。

「続いてのニュースです。また被害者が出ました。鏡を見ていた時に目を焼かれ失明するという事件が、これで10件目になりました。犯人は今だおらず……」

 最近このニュースばかりだ。鏡を見ると目を焼かれるというもの。鏡に映る自分は、頬がやつれ、色の悪い皮膚をした醜い女が映っていた。とても疲れているように見える。

「……真実とは残酷ね」

 そんな言葉がもれた。見たくないと思うと、きっと目を焼かれるのだ。そうすれば永遠に見なくて済むのだから。でも、子供の手だけは離してはいけなかった。しっかりみてあげないといけなかった。大変なのは私じゃない。辛いのは私じゃない。大変なのは、親の機嫌をうかがう子供かもしれないから。手を伸ばす子供かもしれないから。しかし、私は気づけなかった。もう遅い。私の離した手は、握れないところへ行ってしまったから。

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