十五冊目<贈り物>
この世には決まり事が多い。
ゴミの回収日は何日だとか、出勤は何時までにとか、会社独自のルールとか……数えられないほどのルールに囲まれて生きている。
正直、俺にとっては窮屈だった。わかってはいる。決まり事がなければ、ぐちゃぐちゃになるってことくらい。
でも、ぐちゃぐちゃにならないくらいの決まり事なら、破ってもいいんじゃないかって思うのだ。
会社に出勤するために玄関を開けると、空き缶や割り箸などのゴミが、無造作に置かれていた。
「ちっ……またかよ」
「おはようございます。って、大門先輩またゴミが置きっぱなしじゃないですか」
通り道だからと、俺、大門荘司を向かいに来る後輩の林道桔梗。決まり事を嫌う俺を唯一慕う珍しい後輩だ。
「俺のゴミじゃない。でもいつもおいてあるんだ。なんだろうな全く……」
「ああ、手伝いますよ」
「助かる」
毎朝、林道と玄関先のゴミ掃除をして出勤するのが最近の日課になりかけていた。
「なあ林道。何でゴミが毎日あるんだと思う?俺の家、そんなに汚いか?」
「いいえ。汚いとは思いません。でもそうですね……ゴミだと思わずに、贈り物だと思ったらいいんじゃないですか?ほら、我々人間にとってはゴミでも、違う生物からしたらあれは価値あるもので、恩返しされているって考えるのはどうでしょうか?」
「お前って、意外とファンタジー脳なんだな。まあでも、そう思ったら片付けも嫌じゃなくなるかもしれないしな。ありがとう」
「いえいえ。俺、ポジティブに物事を考えるのが得意なんです。あ、もし悩みがあったら俺に相談してくれれば、ポジティブな思考にあっという間に変えてしまいますよ!」
「じゃあ、その時は頼むな」
「はい」
俺はこの時、ゴミが贈り物であって贈り物じゃないということに気が付けなかった。それを後に、後悔した。
「お疲れ様でした」
「お先です」
俺と林道は仕事を終え、一緒に帰っていた。
「なあ、林道。俺、今からキャンプ行くんだけど、お前も来ないか?」
「今からですか?」
「そう。明日が休みの時にはいつも行くんだ。仲間がもうテントを張って準備してくれていて、今から行くと、星空が綺麗に見えるところで夕食が食べれるんだ。よくないか?」
「なるほど。それはいいですね。わかりました。では、準備したら大門先輩の家に行きますね。ではまた後で」
「ああ」
林道と一度別れ、キャンプに行く準備を始めた。
「待たせて悪い」
準備に手間取り、待たせてしまったと、謝りながら玄関を開けた。しかし、そこは家の外ではなく、大きな図書館だった。
「どうなっているんだ?」
「ようこそ、伝承者の館へ。私は伝承者、葉月史乃だ。歓迎するぞ、選ばれし者、大門荘司よ」
伝承者の葉月史乃と名乗るゴスロリ少女は、不敵な笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
「あ、あの、俺、今から行かないといけない場所があって、人を待たせているんです。何がどうなっているのかはわかりませんが、早く元に戻してもらっていいですか?」
「それはできないな。私は君に、伝承を伝えてもらうのが役目なのでな。まあ、少しの間付き合ってくれればいい」
「だから!人を待たせているんです!またの機会ではダメですか?!」
全く人の話を聞かない葉月に俺はイライラした。だが、大きな声を上げようが、睨みつけようが、彼女の表情や態度が変わることはなかった。
「はあ。君のように、急いで行くべきところがあると、私の話を聞かずに去っていった者がいてな。彼はすぐ後に、死んだよ。君もそうなりたいのかね?」
「い、いや……死にたくはないですが……ああもう!わかりました。3分だけです。後、連絡をしてもいいですか?」
「連絡は避けてくれ。じゃあ……」
「待て待て待て!君は非常識すぎる!待たせる相手に連絡もなしってどういうことだよ!」
「決まり事を嫌う君がそれを言うのかね?」
「それは……でも、今待たせている人は、そんな俺も慕ってくれるいいやつなんです。もしかしたら心配するかもしれないので……」
「もしかして、林道桔梗のことか?」
「彼も知っているんですか?」
「まあな。でも彼には気を付けたほうがいい。これは忠告だ。では手短に……」
「ちょ、何てこと言うんですか!林道はいいやつですよ!そんな言い方……」
「わかったわかった。じゃあお詫びに紅茶を淹れたから飲んでくれ。砂糖はいるか?」
「あ、いえ。そのままで。頂きます」
紅茶の味はよくわからないが、渋みもなく美味しく飲めた。
「で、俺は何を聞けばいいんですか?」
「ふむ。話というのは、君の家にいつもあるゴミのことだ。あれに覚えはないか?」
「え?いえ、ないです。毎朝迷惑しているんですよ」
「あれは、ただのゴミではない。君への贈り物だ。君が迷惑をかけた分のな」
「なんですかそれ」
「君の町には、治癒山という綺麗な川が流れていることで有名な山があるだろう?あそこに行った人間のところに毎日ゴミが届くらしいのだ」
「あそこにはよくキャンプに行きます。でも、なんであの山に行ったらゴミが届くんです?」
「あ、もう3分だ。君がもう少し話を聞くなら話すが?」
「あー……いえ、またの機会にします。というか、全然話聞いていませんけど、大丈夫なんですか?死んだりしませんよね?」
「まあな。君が林道桔梗に気を付けていればな。後は、決まり事が嫌いでも守れば死ぬことはない」
「またそれですか。とりあえず心にとめておきますよ。じゃあ俺は行きますね」
「ああ」
葉月との会話は、初めこそ不愉快に感じたが、3分経つ頃には興味深い会話に変わっていた。名残惜しいが、俺は図書館を後にした。
気がつくと自宅の玄関に立っていた。しばらく、現実かどうかわからなくなってしまい、ぼんやりしてしまった。
「先輩!大丈夫ですか? 」
待たせていた林道に呼びかけられ、我に帰った。
「あ、林道か。えっと、待たせて悪いな。少し準備に時間がかかってしまってな」
「構いませんよ。待ち合わせ時間を決めていたわけではありませんし。それじゃあ行きましょうか」
「ああ。ありがとう」
林道は本当にいい後輩だとしみじみ思いながら、キャンプ場に向かった。
「おーい、大門!」
大声で俺の名前を呼びながら手を振るのは、キャンプ仲間の佐藤と塩田だ。
「待たせたな。あ、紹介するよ。会社の俺の後輩、林道だ」
「初めまして。林道桔梗です。先輩にはいつもお世話になっています」
「こんなしっかりしている奴が、大門の後輩かよ!お世話して大変だろう!」
「確かに!キャンプも嫌だったろ!」
「お前ら……俺をなんだと思っているんだ……」
「マナー破りの大門!」
「だよなー」
「あの、その呼び名は?」
「ああ。前の職場の呼び名だよ。俺、ルールとか嫌いで守れないんだよ。まあ、今も変わらないから林道も知ってあるとは思うけど」
「なるほど。でも、性格はいい先輩ですよ」
「マジでいい後輩じゃん!じゃ、新たなキャンプ仲間に乾杯ってことで!」
「乾杯!」
話している間に配られた缶ビールで乾杯した。星空の下で飲む酒は格別だ。
「はー。食ったし、飲んだし寝るか」
「だよなー。あれ?後輩君は? 」
「あれ?さっきまでいたんだけどな……おーい林道!」
さっきまでいっしょにいたと思ったが、いつもの間にか姿を消していた。
「俺、ちょっと探してくるよ」
俺はランプを持ってテントをでた。しかし、林道は、テントから少し離れたところにいてすぐに見つかった。
「林道。もう寝るぞ。いきなりいなくなるからしんぱいしたぞ」
「あの、先程飲み食いしたゴミが川に落ちているのはどうしてですか? 」
「え?あー、あれは明日片付けるんだ」
「嘘ですよね。川は耐えず流れているんです。今はそこにあっても明日には下流に流れていってしまう」
「はあ……どうしたんだよ急に。ポイ捨てする奴なんてたくさんいるぞ?俺だけじゃないぞ」
「それだけではありません。ここは、キャンプやバーベキューは禁止のエリアです。どうしてですか? 」
「はあ。あのな、そんなささいなことじゃないだろ。禁止じゃないエリアは人が多いし、あまり星は綺麗に見えない。だから、なるべくいいポイントを自分たちで探したんだよ」
「それが禁止のエリアでもですか?」
「急にどうしたんだよ。さっきまであんなに楽しそうに……」
俺は目を疑った。目の前にいる林道は、俺でもわかるような禍々しいオーラを放ち、怖い目つきで睨みつけてきた。さらに驚いたのは、林道の片目がなかったことだ。後輩の林道ではない気がした。
「お前……本当に林道か?」
「否。我はこの治癒山の水神である。この器は、この山で不敬な行いをした愚かな人間のものだ」
「水神?何言って……あ」
ー君が林道桔梗に気を付けていればな。後は、決まり事が嫌いでも守れば死ぬことはない。
葉月の言った言葉が浮かび、その瞬間、全てが腑に落ちた。
「まさか、林道の姿をして俺に近づいたんじゃ……」
「その通りだ。貴様はこの山で散々不敬な行いをしてきた。だが、われは寛容だ。贈り物をした時点で考え直せば命までは取らぬ」
「贈り物ってまさか、毎朝置いてあったゴミのことか?」
「そうだ。しかしお前は覚えがないと言った。我の寛容な心もそう長くは保たぬ。故に、今日がお前の命日となるだろう」
「待ってくれ!わかった!ゴミは拾う!もうここではキャンプもしない!頼むよ!」
「おーいどうしたんだ2人とも」
「佐藤、塩田……!来るな!こいつは人じゃない!」
「おいおい。後輩君になんてこと言うんだよ」
「喧嘩でもしたのか?」
ダメだ。信じてもらえない。恐らくだが、このままでは全員死ぬ。それだけは……!
「お前ら!玄関にゴミが毎朝届かなかったか?」
「急にどうしたんだ?そんなの毎日あったよ。な?」
「ああ。でも、誰かの悪戯だと思って片付けていたよ。それがどうしたんだ?」
「あ……」
「終わりだ。永遠に苦しみを味わうがいい」
林道もとい水神がそう冷たく言い放つと、地面は沼地に変化し、俺たちを引き摺り込み始めた。
「なんだよこれ!」
「やべえ!抜けられない!」
2人は慌てて沼地を抜け出そうとしていた。しかし俺は、忠告を無視し、今日が命日になることに絶望して動けなくなっていた。
「大門!大丈夫か!だ……」
「しお……た……」
2人の声は沼地に飲み込まれた。俺ももう頭半分飲み込まれている。このまま俺の人生は終わる。この時初めてわかった。決まり事を破るのに程度なんてないってことに。
俺たちは沼地に飲まれた。行方不明として報道された。
「うわあああ!」
「やあ、おはよう。悪夢でも見たかい?」
沼地の中で後悔を叫んだが、どうやらここは沼地ではなく、史乃の図書館らしい。
「葉月史乃……俺、どうなったんだ?」
「沼地に飲まれて死んだよ」
あっさり答えられてしまい、ショックを受ける暇もなかった。
「でも、なんで俺は生きているんだ?」
「死んでいるよ。ただ、君がキャンプに行く前に飲んだ紅茶に、少し手を加えさせてもらった。そのお陰で君は今ここにいる」
「生き返ることはできないんですか?」
「無理だな。私ができるのは魂を留めておくことだけだよ」
「そうですか……」
もしかしたらと期待したが、できないらしい。どうあがいても、俺は今日が命日なのだ。
「さて、落ち込んでいるところ悪いが、君にはやってもらいたいことがある」
「死んでいるのにですか?」
「ああ。死んでいない時に本当は頼もうと思っていたんだが」
「そうですね。俺が断ったんですから仕方ありません。なんですか?」
投げやりな態度で俺は答えた。葉月を不快にしてしまうかもしれないと思ったが、どうせ死んでいるのだ。ここを去れば行き着く先はあの世だ。礼儀ももうどうでもいい。
「死んでいるからと投げやりになるのは関心しないが、まあいい。君にしてもらいたいことは、水神の祠の清掃と、この水神の瞳を祠の中に中にある龍の置物にはめてきてほしい」
「水神の祠ってことは、あいつがいるってことですよね?」
「もちろんだ。しかし、君が清掃に向かうということは伝えてある。心配しなくて大丈夫だ」
「そうですか。というか、水神の瞳ってことは、あいつに片目がなかったのは、ここにあるからなのか?」
「そうだ。治癒山は昔から存在していて、日本一川の水が綺麗なことで有名だった。しかし、その川をひと目見ようと多くの人間が山を訪れた。初めはよかったが、入ってはいけない聖域にも入る人間が現れ始めた。すると川は、目には見えないが、濁りだしたんだ。これには水神も怒り、聖域に入った人間を全て取り込んだらしい。現在でも川は濁り続けている。水神は、それを止めるために人間の器を使い、川を汚した人間に贈り物をして気付かせようとしているんだ。だけど、人間の器を使ってばかりいるせいで、彼自身かなり穢れてしまっている。その影響もあって、片目がなくなってしまったのだろうな」
水神は、川を守るために必死だったのだと思うと、申し訳なさが溢れてきた。
「水は穢れやすい。一滴の汚れでも、澄んだ水は澱んだ水に変化する。そんなデリケートなものを守っているんだ。人間は、もっと配慮すべきだと私は思うがな」
何も言えなかった。その通りだ。俺は綺麗な水の恩恵を当たり前だと思っていた。少しゴミを捨てたくらいどうということはないと思っていた。そうではない。何事も、少しくらいなんて思ってはいけないのだ。この年になるまで気が付かないなんて、まして死んでから気がつくなんて、俺は愚かすぎる。
「あんたの言う通りだ。俺は浅はかだった。今頃心を改めても遅いけど……でも、あんたに言われたことはするよ。祠を綺麗にするんだろ?」
「しかし、祠の清掃は大変だぞ。まずは祠の中に無理矢理押し込められている死体を引きずり出さないといけないし、触れた瞬間、体の一部を失うと思っていてくれ。あと、俺ばかりとか、水神なんてとか、失礼なことを思ったり、懺悔する気持ちが足りなかったりすると、さらに体の一部を失うから気をつけたまえ。では、これがタオルとバケツと水。それから水神の瞳だ。水神の瞳は、とても大切な物だから丁重に扱うように。健闘を祈るぞ」
「容赦ないな……怖くないと言えば嘘になるが、やると決めたしな。よし、行ってくるか」
自分に喝を入れ、水神の祠に向かった。足はひどく震えていた。
図書館の扉を開けると暗い洞窟のような場所に出た。本当にここの扉はどこにでも続いていて、便利だと思った。
「貴様が奴の言っていた人間だったとはな」
「まあ……その、今から祠を綺麗にするんですけど、その……川を汚してすみませんでした」
俺は深々と頭を下げた。頭を下げたのは人生で初めてかもしれない。
「戯言はよい。祠に触れれば全てわかることだ」
水神は疑っているようだった。それは仕方ないことだと諦め、清掃に取り掛かった。
掃除をするために祠の扉を開けた。その瞬間、重心が左に傾いたのと同時に、左足に激痛が走った。
「ぐあぁ……!!!な、なにが……!?」
頭のある左足を見ると、膝から下が食いちぎられたかのようになくなっていた。
「我が祠に対価もなしに触れるなどあり得ぬ。清掃に支障をきたすと面倒だから膝から下だけにしておいた。感謝するがいい」
「ぐぅ……十分支障をきたしてるっての!うっ!」
今度は右足にも同じ激痛が走った。傾き直ったことを考えると、右足の膝から下も失ったと思われる。
「う……掃除を……まずは死体の処理からだったな……」
まだ清掃は始まったばかりなのに、汗が体中から溢れて止まらないし、息切れもひどい。
「はあ……はあ……まずはこいつから」
扉が開いた祠からは、不気味に手や足が飛び出してきた。それを1つずつ取り出していく。腐敗した臭いが充満する。死体を取り出しては地面に落とすと、気持ち悪い音が鳴った。正直吐きそうだったが、止めるわけにはいかなかった。
「うえ……はあ、はあ……まだだ……」
水神は、退屈そうに俺を眺めていた。足以外、今のところは無事だった。
どれくらい時間が経ったかはわからないが、俺は死体を全て取り除くことができた。地面には小さな山ができていた。
「意外であるな。まさか本当に心を改めたと?」
「お前の解釈で構わないよ。俺は……うぅ……俺は、ここを綺麗にして、お前に返したい物があるんだ……!くそ……死んでいるってのに痛いのかよ……!」
作業は思うように進まない。しかしやるしかなかった。
死体を出した後の祠は、大量の血のせいで、真っ黒だった。もらったタオルで拭くと、一瞬で白から黒に変わってしまった。
「すごい色だな……そういえば、水ももらったんだった。えっと….」
バケツに入った水にタオルをつけると、タオルの色は元通りになった。そのかわり、バケツの水は真っ黒になってしまったが。
「すごい水だな……これなら……」
葉月からもらった水のおかげで、祠の色をほぼ元に戻すことができた。祠の中にあった龍の置物も光り輝いている。
「後は……これだな」
ポケットから水神の瞳を取り出すと、水神は、片目を丸くし驚いていた。
「なぜ貴様がそれを……」
「言っただろ?返す物があるって……これをはめたら俺はここを去る。だから……」
水神の瞳をはめようと、空洞になっている左目に触れると、俺の視界が半分失われた。
「な!ぐう……!どうして……!」
「貴様ら人間が触れていいものではない。もとより、貴様ら人間の穢れが原因で失ったもの。同じものを貴様にもなくしてもらう」
「くそ……足だけでも痛いってのに……!」
心から悪いと思っていた。だからこれ以上なにも取られないと思っていた。完全に油断した。そのせいか、足を取られた時より痛みが倍に感じた。
「うう……あと少し……」
痛みと視界の悪さにも耐えながら、俺は水神の瞳をはめることに成功した。
「よかっ……」
無理矢理動かしていた体は力尽き、その場に倒れ込んだ。
「間違いなく我が瞳だ。力が戻ってきている……」
水神と水神の祠は、澄んだ水色の光に包まれていた。綺麗な光景なんだろうが、綺麗だと思う余力も残っていなかった。
「貴様らを沼から出そう。永遠の苦しみ背負わせるのはやめにする。貴様は改心したようだしな。しかし、水を清めるにはまだ力が足りぬ。だが、改心していない者の肉体に価値はない。故に、貴様からもう片方の瞳をもらうとしよう」
俺の視界は完全に真っ暗になった。右目も奪われたらしい。
「これで……俺だけって思わないなんて難しいよな……はあ、はあ、はあ……」
「安心しろ。2人には、沼地の中に魂を閉じ込め、生まれ変わることができなくしてある。改心していないとはいえ、水を守るにはいい盾になるだろう。貴様の魂は解放する。これ以上貴様には要求せぬ」
「はは……助かるよ……もうまともに息もできねえよ……」
横たわる俺を、水神はさぞ冷たい目で見ているだろう。それでもいい。俺は成し遂げた。葉月との約束を守った。もう死んでいるが、達成感がすごかった。
「お疲れ様です。随分奪われてしまいましたね。水神様、もうよろしいですか? 」
「構わぬ。連れてゆけ」
「はい。では史乃様の元へ戻りましょう」
史乃ではない誰かの声。見えない俺には女神か天使の声に聞こえた。
「戻ったな。役目をしっかり果たしてくれてありがとう。随分ひどくやられていたな」
「う……え?あれ?」
史乃の図書館に着いた俺の体は、水神に奪われる前に戻っていた。
「俺は、どうして? 」
「ここでは、魂だけのようなものだからな。肉体が現世でどうなろうと影響はしないのだよ。それよりも、君たちの死体はもうじき発見される。そしたら私とはお別れだ」
「そうですか。あの、死体は、水神に奪われたままなんですか? 」
「ああ。両目、両足の膝から下がないまま発見されるだろう。だが、水神は君を許した。苦しかっただろうが、最後まで成し遂げてくれてありがとう」
葉月は優しい声で話しかけてくれた。表情は変わらないのに、とても温かい。これほどの達成感は後にも先にもなかっただろう。
「いいや。俺の行いが招いたことです。仕方ないですよ。それに、俺は生まれ変われる。佐藤と塩田には悪いけど……でも、俺だって許されたんだ。あいつらだって、気がつけば悪かったって心から思えるはずだ。だから気長にあいつらをあっちで待つことにします」
「そうか。そう言ってくれると嬉しいよ」
「あんたは変わってるけど、優しい人だってわかったよ。こちらこそありがとう。今度は何かを粗末にするような人間にならないようにするよ」
葉月は何も言わなかった。俺は葉月に一礼すると、扉に向かって歩き出した。
ドアノブに手をかけると、扉の横に誰かが立っていることに気がついた。
「君は……? 」
「史乃様を恨まずにいてくれてありがとうございます。それではさようなら」
「あ……」
扉の横に立っているツインテールの少女は、柔らかく微笑んでそう言った。しかし俺は少女に会ったことがある。そうだ。あの祠で俺を迎えにきたのはこの子だ。
「俺をここに連れてきてくれてありがとう。さよなら」
年齢も違うはずなのに、少女はどこか葉月に似ていた。葉月に表情をつけたらそっくりではないか思うほどに。
俺たちは治癒山で死体を発見された。事件性も疑われたみたいだが、事故で処理された。
その後、聖域に入った者やゴミを捨てた人たちは、佐藤と塩田、その他祠に入れられていた人たちの亡霊を見たり、悪夢を見たりするようになったらしい。マナーを、守れば済む話だが、恐怖で徐々に人の足が遠のいていった。
治癒山の水は日本一綺麗な水であるのと同時に、幽霊の住む山として有名になった。水神の言っていた盾とはこのことだろう。
水神は恐ろしかった。だが、それ以上に、決まりを平気で破れる俺たち人間の方が、よっぽど恐ろしいと思わずにはいられなかった。




